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それに、へをこいた。……へこきの先生がいたけどアナゴのじいさんでね、週に一回やってくるんだ。−−そのひとから教わったのは、まず、こくだけこく、したいだけこくこと、いいのがこけたところでアグラをかいて悶絶さ
(then Drawling − the Drawling-master was an old conger-eel that used to come once a week:he taught us Drawling,Stretching,and Fainting in Coils)

「のろのろすること、伸ばすこと、とぐろを巻いて気絶すること」というのは、もちろん
Drawing,Sketching,and Painting in Oils 「ドローイング(素描)、スケッチ、油絵」のもじり。
ここは原文でも、ややハメを外した感があるから、訳のほうも格調をくずし遊んでみた。


ここに登場する the Drawling-master は、ヴィクトリア朝を代表する美術批評家で思想家のラスキンであるということで衆目は一致している。
ガードナーは『新注アリス』でマックス・ビアボーム〔Max Beerbohm〕の戯画が非常にアナゴに似ている、と指摘した。
確かに「John Ruskin meets Miss Cornforth」左端の、ひょろりとしたラスキンはアナゴを思わせる。同じビアボームの絵でもダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのサークルの戯画では単に鼻の大きい人物であるが、 雑誌 《Vanity Fair〔虚栄の市〕》の肖像は、別の意味でウナギ目の魚を思わせる(アナゴのStretchか)?
「Photographs of Ruskin」も参照のこと。 以上は いずれも『The Victorian Web』所載。

また、ガードナーは触れていないが、キャロルの詩「ハイアワサの写真撮影〔H IAWATHA'S PHOTOGRAPHING〕」のアーサー・フロストの挿画(1883.)で被写体となっている人物は、若き日のラスキンの姿をまねており、2番目の奇妙なポーズには、アナゴとの関係が指摘されている。
では、本来の Drawing-master としてのラスキンは、どんな人物だったろう?

ラスキンはかつてオックスフォードで学び、Aliceの父、Liddell 学寮長の教えも受けていたらしい。
英国最大の風景画家 ターナーを賞賛することからラスキンのキャリアは始まったが(『近代画家論 〔Modern Painters〕』第1巻(1843.))、ターナーの死後、遺言執行人としてその素描の総目録を編纂し、1861年には所蔵のターナー素描を母校オックスフォードに40点、ケンブリッジ大学にも申し訳に25点 寄贈した。
また『建築の七燈 〔Seven Lamps of Architecture〕』(1849.)所載の版画など見てもわかるとおり、自身が素描に優れた才能を持っていた(生前は批評家としか見られてなかったが、現在では「画家」としても評価されている)。
そうした関係から、ラスキンが Liddell 家の子どもたちに絵画を教えるようになったのは、自然な成りゆきといえるが、良家の子女ばかりを相手にしたわけではない。
1854年ロンドンに新設された労働者学校 〔Work Man's College〕では美術講座を担当し、ロセッティらにも協力を呼びかけた。現在も本国で読み継がれている『描画要綱 〔The Elements of Drawing (1857.) 内藤史朗訳 『ラスキンの芸術教育 描画への招待』〕』は、ここでの講義をもとにした出版物。
このとき用いた教育方法は、木の枝を教場に持ちこんで明暗を教えたり、帽子を題材にレンブラントとデューラーの画法の違いを説明するといった実際的なもので、ときには生徒を郊外に連れだして写生させ、その後飲食店に伴って昼食を共にするというように、躁鬱病の批評家というイメージからは遠いものがある。
この労働者学校は当時ひとつのエポックで、『トム・ブラウンの学校生活』のトマス・ヒューズや、チャールズ・キングズリーなども賛助しており、児童文学史とも、まんざら関わりがないわけではない。
のち1869年、ラスキンは Liddell 学寮長や、学生時代からの友人アクランドの推薦で、オックスフォードで初めての美術講座教授〔Slade Professor〕に就任したが、'70年の初講義には学生だけでなく麗装の婦人まで押しかけ、開演間際にアクランドの機転で会場を移さねばならないほどの盛況だった。
1871年にはオックスフォードにラスキン素描スクールを設立している。

(最終更新 2014年 4月15日。2019年 1月 9日リンク修正)