「ウ(どこに)エ(いる)マ(わたしの)シャッ(ねこ)?」 フランス語の練習帳の、最初にのってる一文だ。
(“Où est ma chatte?” which was the first sentence in her French lesson-book. )
ロジャー・グリーンのオックスフォード版注釈、およびガードナー『新注アリス』の両書は、このフランス語の教科書を『La Bagatelle』(1804.)という本に比定するヒュー・オブライエン〔Hugh O'Brien〕の説を紹介している。
その原書の副題は“Intended to introduce children of three or four years old to some knowledge of the French Language”〔3〜4才児向け、はじめてのフランス語〕。
英才教育を受けた印象のあるAliceだが、別段そんな小難しい本を読んでいるわけでもないようだ。
“Bagatelle”というフランス語は本来「つまらないもの」「ちょっとしたもの」という意味で、高山宏は『馬鹿本』と訳しているが、ここは転じて「小さな愛らしいもの」くらいのニュアンスを含むか。
観光のお好きな方はバラ園として有名な、パリのバガテル公園を想起するだろう(筆者は観光案内でしか知らないが)。
のち、日本キャロル協会の木下信一氏はこの原書を実際に入手して検討している。
確かに木下氏の言うとおり、“Bagatelle”という題から読者が受けるイメージは「豆本」とか「ミニブック」といったものに当たるのだろう。
だが短絡的な読者がいるかも知れないから、一言しておくが、“Bagatelle”は本のタイトル(固有名)であって、一般名称ではない。そのまま『ミニブック』等と訳せるわけのものでもないので念のため。
『小品』くらいに訳せば一応タイトルとして通らないことはないにせよ、それだけでは違和感があるだろう。
木下氏が訳語として不適切、と書いた 「練習帳」 という訳についてだが、これは先例もあるので私自身は特に愛着があるわけでもない。
しかし、原本の画像を見ていると、ちょうど各行の下にそれぞれ書き込みできるほどのスペースがあるだろう、などと強弁したくもなるが、
それは措くとしても、注釈抜きで読まれることを想定した場合、日本の読者に対して、「教科書」というのと「練習帳」というのと、どちらが「ミニブック」的なニュアンスを伝えられるかが重要ではなかろうか。
拙訳では、厳密には不正確でも、ニュアンス的にはむしろ正しいだろうと考えて選択した訳語がいくつもある。
例えば 11章で pencil を「チョーク」と訳したこと。「石板とチョーク」なんて訳は理屈に合わないわけで、正確にはどうしたって「石板と石筆」でなければならない。
しかし、石筆というものを全く知らない読者 (現代日本の子どもは、ほとんど皆だろう)が、「石筆」という言葉から何となく想像するものと、「チョーク」という言葉で思い出すものとでは、チョークのほうが本物の石筆に近いのではなかろうか? もちろん
「チョーク」という訳にも先例があって、私の独創ではないのだが。
しかし木下氏の説の核心は、この箇所が当時の英国の子どもたちには笑えるシーンだったということだろう。
この指摘は重要だ。
拙訳の場合、アリスは小難しい本を読んでいたわけではないという注を付していながら、実際には、こういう場面でフランス語を持ち出す、気取った少女という感じで翻訳している。
そうした面もなくはないと思うが、アリスの呼びかけのあと、水から飛び上がるネズミの一連の描写を見ても、確かにここではマンガ的な笑いが意識されている。
だが、このギャグが内輪ウケでなく、かなり一般ウケしたという説については、多少留保をつけておきたい。
まず『地下の国のアリス』にも存在するこのシーンは、成立過程からすれば完全に内輪ウケ狙いだったと言えること。これは大前提だ。
次に、この教科書が当時の少女たちに広く知られていたと判断する理由に、木下氏は初版が1804年で“結構なロングセラーだった”ということしか挙げてないが、たぶん当時の教科書は、おしなべてロングセラーだったろうこと。
例えばしばしば絵本の原型のように論じられる、コメニウスの 『世界図絵』 という教科書は1658年初版だが、Aliceの生きた19世紀半ばにまだ現役だった。いくら何でも古びていたろうと思うが、つまり
当時の出版状況のようなものにも根ざしているわけで、ロングセラーすなわち大ベストセラーとは即断できない面がある。当時のフランス語教科書なら、どれにでも“Où est ma chatte?”と書いてある、ということならいいのだが。
第三に、アリスの 1〜3章には教科書ネタが頻発するけれど、この 2章末が一般に大ウケなら、1章や 3章も大ウケだったろうか、と考えてみる。例えば 1章でウサギ穴を落下中
「地球のまん中まで 4千マイル」 などというあたりは、“Bagatelle”同様、今日から見れば粗末と思える一問一答式の問題集に由来するのだが、シーンの全体としてはやはり知的なユーモアという印象にまとまっている。
3章、ネズミの無味乾燥な話は、内輪では教科書ネタでウケたかも知れないが、一般読者にも笑えるのは動物たちのやり取りで、教科書の引用自体は笑わせる前段階として、わざと真面目くさって見せる身ぶりに相当するだろう。
要は、教科書を引用しさえすればウケるなどということはありえないわけで、“This is a pen.”が面白かったのは、そこに荒井注というキャラクターがいたからだ。かつてドリフターズにそんな人が在籍したことも知らない年少読者には、木下氏のレトリックが通じたか疑問だが。
逆に木下氏がドリフ直撃世代であるために、教科書の一文を引用することは“This is a pen.”みたいに面白い、という予断を生んでしまったとも言えそうだ。
最後に、木下氏の「上方落語風」翻訳への感想も述べておこう。
ともかくフランスから来たんやからということで、もう一度話しかけました。「ワガハイハ ネコデアル」……フランス語の教科書の最初に載ってた言葉なんですが、
「ワガハイハ ネコデアル」という訳自体は、私の感覚では面白い、いい思いつきだと思う。
が、文章の流れで見た場合、「フランスから来た」「フランス語の教科書の最初に」というのと、夏目漱石の小説の冒頭の一句はそぐわない。ちぐはぐな印象を与える。
日本人はふつう子どもであっても、外国からの移住者に話しかける言葉と来れば、(フランス語を知っていようといまいと)横文字の言葉を連想し、それっぽいセリフの続くことを無意識に期待する
(だから木下氏が、「ワタクシノネコハ、ドコニイマスカ?」という柳瀬尚紀訳を ことさら評価するのが、以前から不思議だった。これは、外国人から我々に話しかける言葉だ)。
このシーンの前後は、例えば戦前の鈴木三重吉訳が「朝鮮征伐に行つた加藤清正にくつゝいて朝鮮から渡つて来た鼠」としたように、
またドイツ語訳が「ナポレオンにくっついてフランスから渡って来たネズミ」としているように、国情に応じて、自在に訳されている。
本来「上方落語風」の翻訳なら、もっと遊んでいいはずで、その手のつじつま合わせも可能だったはずなのだが、おそらく木下氏が原典どおりの翻訳を果たしたいと考えているせいで、やや中途半端な訳になったのだと思う。
ただ、この箇所に笑いを実現しようとした木下氏のオリジナリティは認められるべきだし、あとに続く翻訳者は、ここでも頭をひねって苦労して欲しいと思う。
〔木下氏の記事は 2004年11月 up 。大西の意見は 2005年3月 up (2006年11月微修正したが論旨は変わらない)。なお、木下氏は2006年、日本ルイス・キャロル協会のチェアマンとなっている。〕