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いまじゃあ、いつだって6時なのさ
( It's always six o'clock now. )

当時の英国のお茶の時間は遅かったらしい。


松浦寿輝は 「Murdering the Time――時間と近代」 において、帽子屋の時計を「近代的な時間システム」 に対する不適応の一例としている。
これに対し、答えの無いなぞなぞ に「もっと、ましな過ごしかたが、ありそう」と言ったアリスは、「時間を無駄にすべからず」という近代システムの紋切型を教えこまれているという。
松浦は、キャロルが少女のポートレートに執着した事実に触れ、それは少女たちの成長を停め、束の間の一瞬を永遠化したかった、写真器械を使って近代的な時間システムの外に出たかったのだと論を展開する。
白ウサギの時計がシステムの側 にあるのに対し、帽子屋の時計はシステム批判の装置である。 “この二種類の時計が共存しているという事実は、ルイス・キャロルという作者自身が内に秘めていた鋭利な葛藤――数学の論理と少女の身体との、知とエロスとの、お行儀の良いブルジョワ性と反社会的なオタク性との葛藤――の反映”だと、飛躍する。
キャロルは少女の写真ばかり撮っていたわけではないし、帽子屋の時計が止まってしまっているのは結果であって、本来は自在に時間を進めたり止めたりできる時計なのだが、松浦の ありがちな論 にも、ある程度の説得力はある。
近代的な時間システムに対する不適応の系譜として、松浦はボードレールの散文詩「情婦たちの肖像」で、「時間を殺す〔tuer le temps 通常は「暇を潰す」意〕」という表現が使われた例などを挙げている。
しかし、松浦が『不思議の国』の murdering the time について、kill time「暇を潰す」の kill を murder に言い換えたものと解し、 murder the time とは“異様というかわけがわからないというか、どういう内容を指しているのか不可解 ”と述べているのは奇妙だ。 実際は murder the time で、調子外れな歌をうたうことと解するのが定説である。
『シルヴィーとブルーノ』12章には、さらに自由な、時間を巻き戻せる時計が登場する。

(最終更新 2013年8月12日)