すると、このときとばかりに、親ガニが、子ガニをさとす。「そら、娘や、すぐカッとなるのはよくないね。ならぬかんにん、するのがかにだよ!」「母さんは、よけいなことばっかり!」子ガニは、軽くつっぱねた。「いそのカキだって、あいた口がふさがらないわよ!」
(And an old Crab took the opportunity of saying to her daughter “Ah,my dear! Let this be a lesson to you never to lose your temper!”“Hold your tongue,Ma!”said the young Crab,a little snappishly. “You're enough to try the patience of an oyster!”)
文意を直訳的に示せば、「これを癇癪を起こしてはいけないというお手本になさい!」という母に、娘が「あんたの口うるささはカキの我慢強さを試せるほどだ!」と、やり返している。
子ガニのセリフはつまり、我慢強いものさえ いらつかせる、という英語にありがちな反語的表現だが、直接には enough to try the patience of Job 「ヨブのように忍耐強いものでも我慢できない」「堪忍袋の緒が切れる」という慣用表現のもじり。
忍耐の代名詞であるヨブを、岩に はりついて離れないカキに置き換えたもので、ここは間接的に〈旧約聖書〉のパロディである。
キャロルは『ヨブ記』の、苦難を耐えることが試練というような価値観をここで茶化した、と言いたいところだが、そこまで言うと嘘になるかも知れない。
ただ、キャロルが童話の中から、聖書のヘヴィで 子どもを遠ざけるような面(律法主義といったもの)を排除しようと努めていたのは確かと思える。
はじめの母ガニのセリフは、しつけの厳しいヴィクトリア時代の風潮を映したもので、それに逆らう子ガニの態度は痛快だったはず。
岩崎民平の注には“crab は横這いで有名で、crabbed (つむじ曲りの)もその形容詞と考える人もあるくらい。young crab と来てはプリプリするのは当り前でしょう”〔原文、旧字体〕とあるが、
語源はともかく、キャロルがいきなり節足動物を登場させたのは、crabbed「怒りっぽい」という性質からの連想で Crab が適当、と考えたのだろう。
なお、アリスもの(『不思議の国』と『鏡』)には mother という単語が一度も使われておらず、「親」という意味では old が用いられている。
唯一「母」を意味するのが、この部分のMa!で、“Hold your tongue,Ma!”という乱暴な言い回しは童話としては、現在からみても特異といえよう。