解説 あるいは翻訳方針
訳者・大西 小生
『不思議の国のアリス』(1865.) が読者として想定しているのは、何才くらいの子どもだろう?
作品中の「アリス」は、ちょうど 7才というのが通説だ。
『鏡の国』(1871.) では 7才半であることが語られており、『不思議の国』 の内容は、それ以前であることがはっきりしている。アリスが鏡を通り抜けたのは 11月、不思議の国の冒険は 5月4日で、Alice Liddell 本人の誕生日にあたる
(これは有名なエピソードだが、もしもご存じない方は、隠された日付を作中から探し出してみて欲しい)。
以上の理屈だけからすれば 6才や 5才の誕生日であるとも考えられなくはないし、キャロル自身による幼年向けのリライト Nursery“Alice”(1889. 以下『子ども部屋のアリス』とする)で 0〜5才児をターゲットとする前書きからも、作者が『不思議の国』を 5才程度からの子どもに向けた作品と意識していたことは確実である。
作中のアリスの行動には “社交” を解するような世知にたけた面もあるが、ヴィクトリア時代の子どもの躾(が厳しかったことや、キャロル自身が礼儀のなってない子ども(例えば米国の)を好まなかったことを考えれば、これは必ずしも、大人びていることを意味しないだろう。
1888年のサヴィル・クラーク宛の手紙では、キャロル自身が 「本の中のアリスは 7才」 と記している。
ただここで、仮に『鏡の国』執筆時点のキャロルの理想を “無垢” な 7才半と認めて、『不思議の国』での「アリス」を 7才と特定できたにしたところで、それは文字どおり “夢の中” での年齢なのだ。
『不思議の国』そのものは、7才の Alice Liddell に捧げられたものではない。
この物語が最初に即興で語られたとされる 1862年7月4日の舟遊びのとき(巻頭詩にいう「黄金の午後」)に、Alice Liddell はすでに 10才だった。
妹のEdith(ですら 8才である。
『不思議の国』の原形となった Alice's Adventures under Ground(以下『地下の国のアリス』)のテクスト脱稿は 翌 1863年の 2月10日というが、自筆のイラストを加えた完成品がプレゼントされた 1864年11月26日、Alice Liddell は 12才だ。
『不思議の国』が出版された 1865年には 13才ということになるが、この時点で Alice は、もはや理想の読者と言えなくなっている。「少女から大人への変化の時期にさしかかった」Alice に、キャロルは失望を感じていた。
(蛇足ながら、こういうキャロルの態度は、ひとりAlice にのみ向けられたものではなく、「秘められた感情」 というのでもない。
当時の感覚では、聖職者でもあるキャロルが大人びた少女に関心を示せば、そのほうが問題にされたろう。)
いったい『地下の国のアリス』は何才の Alice に向けられたものなのか。10代前半の少女にとって数年の変化は大きい。具体的に日本語に翻訳するという作業に取りかかるさいにも、ここがまず、ぶつかる問題のはずである(ぶつからない翻訳者も多いようだが)。
10才に向けた文章と 12才に向けた文章とは、同じ文体でありうるだろうか?
もし 13才まで年齢幅を広げられるなら、日本流に言えば「中学生向け」、米国流に言えば「ヤング・アダルト」の文体を採用でき、翻訳の自由度は格段に増すのだが、
先にも書いたようにキャロルは本来、思春期の少女を敬遠している(かつての13才はすでに 「大人」 だったのではないか、という見方はあり得るだろうが、私はむしろ現在風の大人と子ども、その間の思春期というような区別はヴィクトリア朝あたりに端を発するのではないかと考えている)。
故意か偶然にか、『地下の国のアリス』執筆から 『不思議の国』出版に至るプロセスは、キャロルが Liddell 家の子どもたちと疎遠になっていくのと同時進行的(である。Alice と Dodgson((=キャロル)との伝記的研究などは、例えばテクストの生成とからめて考えるなら、作者なり作品なりの理解に資するところはあるように思うが、そういう視角を失えば、ただちにゴシップ的な興味となりかねない
(キャロライン・リーチは In the Shadow of the Dreamchild(1999.) で、キャロルがニンフェット狂いであるという俗説を否定して見せたが、その結論がキャロルが Alice の母、Liddell 夫人と一種の愛人関係にあったというようなものなら、何のための研究やら疑わしい。
ただ 「少女愛者」 説の否定は大いに参考になるので、興味のある方は木下信一氏のサイト
『The Rabbit Hole』 内の 「キャロルに関する誤解」 のページを、ぜひ参照して欲しい。キャロルが Alice に求婚したという説は完全な誤りであり、また、Liddell 夫人との間に決定的な断絶があったという従来説も、根拠にとぼしいことが解る。
研究者でもない 「大人」 の読者には、なおさら、ゴシップ的興味を抱く前に、巻頭詩や 『不思議の国』 のラストを、素直に読んでいただきたい)。
ともあれ、ふつうに考えればテクスト執筆時点での Alice が、キャロルの想定した読者に他ならないから、『地下の国のアリス』は 10才か 11才に向けた文体で書かれているということになる(もっとも、この手製の本の最後のページに貼られた写真は Alice 7才のときのもの)。
それにつけても、『地下の国』 から 『不思議の国のアリス』 への移行をどう捉えるべきか、これも問題だ。
一般向けに出版された 『不思議の国』 が、仮に 5才くらいの読者に向けてやさしく修正されたものだというなら話のつじつまが合うが、
当然ながら 『不思議の国』 は 『地下の国』 の発展形で、文体はそのままに引き継がれているし、内容的にも論理的な遊びが増え
(特にチェシャ猫との会話からお茶会の部分など)、理解はかえって難しいものになっている。
5才に向けた文章と 10才に向けた文章とは、同じ文体でありうるだろうか?
具体的に原典の精神に即して翻訳しようとすると、7才から 10才くらいを基本的な読者と想定しつつ、12才の少女にプレゼントでき、それ以上の年齢の読者に見られても恥ずかしくない文体が必要だということになり、小生などは途方に暮れてしまう。
こういう問題について、実作者としてのキャロルは、むしろ楽観的だったようだ。たぶん読み手のほうで年齢に応じた読み方をしてくれると考えていたのだろう。
だが今日、童話として読むには『不思議の国』原典は、硬い言葉で書かれているように感じられるのも事実。
もっともヴィクトリア時代の英才教育を受けた子どもたち、日本風に言えば 5才で『論語』を暗唱するような詰めこみ式授業を経験したとされる彼らにとって、文章が硬くて取っつきにくいという心配はあまりなかったろうから、これは現在の子どもに解りやすい文体に訳してしまってかまうまい。
というより、当時の教科書などを参照する限り、“英才教育”自体が疑わしい。『論語』が、表面的に意味をなぞるぶんには全く単純なことしか書いてないのと同様で、要するに言葉が古いため難しく感じるというに過ぎないだろう。
逆に、開き直って漢語などを多用した翻訳は、原典の文体に忠実なようでいて、その精神に反していると言えまいか
(『子ども部屋のアリス』では、童心を失わない大人をもアリスものの読者として認めているが、このことは さほど重視すべきではないだろう。あくまでキャロルは「子ども向け」に作品を書いたのであり、それが理屈好きの「大人」に読まれることを期待したわけではないからだ。
これは例えば、童話にしては いささか冗長な Sylvie and bruno 『シルヴィーとブルーノ』(1889.) について、子どもたちだけでなく大人に読ませたいと書いたのと対称的である)。
エドワード・ウェイクリング 「ルイス・キャロルについてあまり知られていない事実 〔Some Little Known facts about Lewis Carroll〕」(《Mischmasch》 6号(2003.)所収) で、『不思議の国のアリス』初版本(扉に名目刊行年が「1866.」と記載のあるもの) 163冊について贈呈された相手の年齢を見ると、最も多いのは 6-10才児で 42冊、次いで 11-15才児で 29冊、0-5才児にすら 4冊贈り、16-20才には 3冊しか贈っていない。
21-25才には 8冊。31-35才に 10冊、36-40才に 12冊(大人の中では、この年齢層が最大) というように、大人も無視してはいないものの、これは子を持つ親に贈ったものも、社交的なものもあるだろうから(これはウェイクリングの論にはない推測だが、キャロルがかなり社交的だったのは確か)、全体として一般の日本人が思う以上に低年齢向けの本であることは疑えず、事実として証明されていると言っていい
(完訳本は日本だと小学上級以上でなければ、ふつう読めない。むしろ中高生くらいで手にする本だ)。
ちなみに 『シルヴィーとブルーノ』で キャロルが贈呈したのが確実な本は、ほとんどが 20才以上の全くの大人に向けられている。
ウェイクリングの小論は覚え書程度のものではあるが、現時点でキャロルを研究するような人には必読文献と思えるので付記しておく。
なお、ルイス・キャロル協会での講演 「The Real Lewis Carroll」(2003年4月11日)でも、ウェイクリングは同様の話をしているが、現在データの Age Range の取り方が多少異なっている。参照されたい。
以上、多少くどく述べてきた問題は、あまり真剣に意識されることもないままに、幼年向けのやや粗雑な内容のリライトの氾濫と、読者をハイ・ティーン以上の「大人」に限定する特殊的な完訳本との分裂状況として、
目に見える姿で現在、われわれの前にある。
もちろん、こうした分裂を回避しようとした翻訳者も過去に多く存在していた。
『ウサギどんキツネどん』で知られる八波直則(や、
アカデミックな児童文学者・飯島淳秀(といった今やほとんど忘れられた訳者たちの仕事にも努力のあとが見られるし
(特に八波の訳業は、楠本君惠『翻訳の国の「アリス」』でも少しだけ触れられているように、再評価されるべき性格のものだろう)、
現役の訳では中山知子の〈フォア文庫〉版(底本は1970年刊) が、完訳本でありながら 「小学校中学年」程度の子どもにも読破を可能にした画期的なもので、その存在意義は現在も失われていない。
ただ、中山訳は一部が「幼児語」に流れてしまったことで、おそらくは「大人」が読むには恥ずかしいという理由から、あまりまともに評価されてないのが残念だが、そういう批判もまったく的外れと言いたいわけではない。
アリスものの原文には古典としての格調のようなものが備わっており、それを崩してしまう文体の選択は感心しかねるからだ。
とはいえ、原文が美文調というわけでは全然ない。不思議の国の「陽気な怪物たち」は俗語もまじえた乱暴な言葉遣いだし、しょっちゅう叫んだり言いよどんだりしている 子どもらしいアリスの言葉を淑女ふうに訳すのも、どうかと思う。
例えば今日ではオーソドックスな翻訳に見える〈偕成社文庫〉の芹生一訳でもアリスの口調はけっこう伝法だ(「字だけっきゃ書いてない本なんて。」)! 拙訳の場合は、古くも新しくもない文体、具体的には '70年代の少女マンガのような、現実にはちょっと見られない無国籍な人工言語を意識して用いた。
北村太郎訳の乱暴な言葉遣いにしても、芹生たちが開いた可能性の一端を引き継いだものとも言えるのだが、それ以上に '80年代において誰かが一度はやらねばならない翻訳だったと、最近は思う。
橋本治の『枕草子』現代語訳と並べて話題にされたりするのだが、確かに平安貴族の世界を女子高生の言葉で語れるかのごとく、ふるまう橋本流パフォーマンスには限界がある。
が、それなら過去、積み重ねられてきた凡百の現代語訳が面白いか? という問題なのだ。
私は、しょせん学者じゃないから、そんなものは好きじゃない。そういうものが好きな人は、そういうものを読んで下さいとでも言うしかない。
橋本治や北村太郎の冒険は、要するに歴史的な文脈をいったん棚に上げて、テクストそのものを見つめる態度から生まれたもので、あとに続く訳者・研究者たちの自由度を高めてくれた。
それは、もちろんあのころの、かつてポスト・モダンと呼ばれた、浮かれて歴史の重みを忘れた日本の文化状況と通底しているのだが… この話はまた場を改めて語ろう。
〈ちくま文庫〉版の柳瀬尚紀訳が「です・ます体」を排し「だ・である調」を採用したのも古典としての格に関係するように思えるが、一義的には論理性に依拠する原文のシャープさを出したかったのだろう (これは童話的なタームと矛盾しかねないのだが)。
近年では矢川澄子訳、宗方あゆむ訳などが、子ども向けと完訳を区別しない翻訳としてかなり健闘したといえる。
必然的に、特に矢川訳などは見かけより、よほど実験的で、クセの強い訳として読者の好みが分かれるだけに、その苦労の一端を知る者としては、よそながら肩をもって評価したくなる。
その矢川訳にも典型的に見られるが、幼年向けでも完訳でも、最近多く見られるようになった工夫のひとつは、地の文を語りかけの口調にすることで(「読み聞かせ」が市民権を得た事とも関連している)、
拙訳でもこれを採り入れたものの、原典はやはり文章語と思われ、すべてを語りと捉えることには無理がある。そういう意味では拙訳には中途半端な面があり、まだ文体を練り直さねばならないとは思っている。
拙訳の中で個人的に気に入ってるのは、5章や 9章後半あたりの会話の掛け合い部分だが、これも過去の翻訳を多く参照・引用した。
英語力に優れた翻訳者は過去の訳にとらわれないことを誇ったりするものだが、
小生訳は、過去に出版された訳書をおそらく最も参考にした翻訳であることが自慢だ。
といっても実際は、知恵をしぼってひねり出した新訳のはずが、すでに同様に訳されていて、へこまされることのほうが多かったが。
ただ、いくら重複が多くても結局オリジナリティは放棄できなかったし、著作権フリーとするつもりもないので、無断の商業的使用はお断りする (この点、山形浩生氏とは異なる)。
もしか読者が拙訳を引用する場合も、現行の著作権法に則り、訳者名とともに使用していただきたい。
逆に言うと商業使用を除き、訳者名の表示さえあれば、複製は一切フリーである。
訳注に関しても同様で、もちろんリンクは、いずれのページにもフリーだが、単なるリンク以外(転載・複製)では作者名(大西小生)を欠かさないこと。
拙注でも一般的な内容のものは過去の注釈を参考にしているが、これを流用しようという人は、ごく一般的な語注か、筆者のオリジナルかくらいは当然、判断できて欲しい。あやふやな場合は、作者名を付記されることをお勧めする。
判断が微妙で難しいケースについては、メール(ohnishi_shousei☆yahoo.co.jp ☆は@マーク)で ご一報いただきたい。
訳文の全体は「子ども向け」に、別立ての注なしで読めるよう配慮したつもりだ(巻頭詩だけは文語調を取り入れたが、既存の訳に比べ読みとりにくいことはないと思う。
もし理解できなくても、巻頭詩なんてものは「健全」な子どもは読みとばすものだ) が、一方でリンクデータ式の訳注は、子ども読者を無視した、マニアックなものを付している。
翻訳技法と過去の訳例とにかかわる注が多いが、中にはキャロル学の新知見と呼べるものも混在しているはずだ。
少なくとも、これ以後『不思議の国』の翻訳を試みる人にとっては、目を通さずにすまされないくらいの内容にはなっていると自負している。
(2002年12月記。 2007年 5月18日更新。2014年 5月13日微修正)
※ 当サイトは、2002年末から2009年にかけて公開されていたコンテンツを2014年に復活させたものです。
Homeに戻る