内ヶ崎作三郎と永代静雄

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    〔以下は日本ルイス・キャロル協会機関誌《MISCHMASCH(ミッシュマッシュ)》27号(令和7(2025)年11月 1日発行)初出の大西小生「永代静雄とクリスチャンの人脈 (1)内ヶ崎作三郎」 (Shizuo NAGAYO's Christian connections (1)Sakusaburou UCHIGASAKI)を、ほぼそのままの形で再掲するものです。〕

    小泉八雲と内ヶ崎作三郎の英学講義

 永代静雄の『不思議の国のアリス』の翻案『アリス物語』(紅葉堂書店、大正元(1912)年12月25日)の「はしがき」は、比較的よく引用されるが次のようなものである。
     アリスは空想の子である。理窟を離れて空想の世界を飛行したところに、アリスの面目が躍つてゐる。一体我々は何かの空想無くして活き得る者ではない。事実を歴史の父とすれば、空想はその歴史を生む母である。空想に親しむことは、やがて新らしい歴史を築く手段だとも云へよう。私は諸君に空想の力を説きたい。〔略〕
     アリスの本家は英国である。私は曾て早稲田大学の教授内ヶ崎愛天(あいてん)先生から、キヤロールといふ人の書いた『アリスの奇界探検』といふ本を拝借して読んで、非常に面白いと感じた。それで、その中の特に面白さうなところを、三四回に訳して、その頃創刊の『少女の友』の初号から続けて寄稿した。それが幸(さいはひ)に読者の歓迎を受けたので、以下引続いて、私の頭脳(あたま)の中にゐたアリス嬢を活動させることになつた。謂はゞ日英同盟合体のアリスなのである。〔略〕
       大正元年クリスマスの前五日         永 代 静 雄
 クリスマス・プレゼントというのでもなかろうが、降誕祭を意識している。
 本書の初出、《少女の友》の1巻1号(明治41(1908)年2月)から2巻4号(明治42(1909)年3月)まで14回にわたり「須磨子」名義で連載された「アリス物語」が、『不思議の国』の本邦初の翻案であることは現在、定説と見ていいだろう。キャロルの原作からの訳と言えるのは1巻3号(4月)までで、その後は「はしがき」にもあるとおり、原典から懸け離れた創作ファンタジーとなっている。今日的な評価はともかく、創刊当時の《少女の友》には他にこれほど続いた作品もないわけで、読者もしくは編集者の人気を勝ち得ていたのは間違いないところだ。
 永代が原典を借りたのが内ヶ崎作三郎(うちがさき・さくさぶろう)であることは早くから注目されていて、国会図書館の書庫の鍵のかかった棚に埋もれていた永代の『アリス物語』を「発見」した瀬田貞二も「内ヶ崎愛天というのは、内ヶ崎作三郎氏のことでしょうが、このとき永代氏はどのような原本を示されたのでしょうか。 1」と内ヶ崎の貸した本のエディションを気にしている。永代の訳が杜撰に見えることから原書がリライトではないかと疑ったのだろう。瀬田は調査できなかったが、《少女の友》の川端昇太郎の挿絵は独自色も強いものの明らかにマクミラン版のテニエルを参照しており、永代から川端が内ヶ崎の蔵書を又借りしたのだろうと考えられる。のちに日本画の大家となる川端龍子(りゅうし。この雅号を用いるのは《少女の友》1巻7号(8月)以降)だが、当時は賃仕事をしていたのだろうし、日本でのアリス本の認知度からしても、借り物と捉えるのが妥当かと思うが、それなら貸与の時期は永代の翻案した明治40(1907)年末か41年初頭のこととなろう。ところが永代が早稲田の予科に在籍したのは大学所蔵の『生徒学籍簿』から「明治三十九年四月十日」から「明治三十九年十月二十九日」までで、おそらく学費を払えず「除籍」となっている。そうなる前から体調を崩して、ほとんど通学できてなかったようで、このように短期間、かりそめに籍を置いたに過ぎない永代が、なぜ明治41年頃になっても内ヶ崎と交流できたのかという疑問が浮かぶ。
 ところで今から20年ほど前、キャロル協会員の相原由美子氏は、ラフカディオ・ハーンが東大の講義で『不思議の国のアリス』を「すべての子供の書物の中で最高のもの」と絶賛したが、聴講したひとりに内ヶ崎がいたこと、最晩年のハーンが東大を追われたのち、早稲田へハーンを紹介したのも内ヶ崎だったことなどを報告した 2。これを受けて川戸道昭教授は、内ヶ崎が早稲田で教鞭をとった期間に、永代静雄や『不思議の国』をほぼ完訳した丸山英観、『不思議』と『鏡』を両方訳した楠山正雄、『鏡』を翻案した西條八十と、初期のアリス翻訳者がいずれも早稲田に在籍していたことに注意をうながした 3
 ラフカディオ・ハーンから内ヶ崎作三郎、永代や丸山へという教育の系譜が鮮明に描かれて魅惑的な説だけれども、いくらか留保条件を付ける必要はあろう。
 まず基本的なことなのだが、ハーン(すでに帰化していたので小泉八雲と呼ぶほうが適切だろうか)の東大での講義は、ブレイク、ワーズワス、コールリッジ、バイロン、シェリー、キーツらの詩人を中心としたもので、『不思議の国のアリス』についてはワーズワスの子供への視点を語るついでに言及したに過ぎない。また「19世紀のイギリス小説」の講義でもキャロルの作品に高い価値を認めたが、キングズリーやスティーヴンソン、キップリングなどの作家に比べて明らかに扱いが小さいのである 4。英文学史の中で『不思議の国』を評価したのは当時(世界的に見ても)破格のことだったろうが、さすがにアリスを中核に据えて論ずるほど世間離れした人でもなかった。どこまでアリスの受容に影響したかは不明としか言えない。
 ただ例えば「小説における超自然的なものの価値」の授業では、夢の意義を強調し、日本の物語として、屏風の画面から小舟が抜け出て部屋には水が満ちるというシーンを紹介したあと「これと同じ現象が別の装いのもとに見られるのが、あの『不思議の国のアリス』と『鏡を抜けて〔鏡の国〕』なのである。 5」と論じているし、機会あるごとにアリスを引用し(あるいは記録された講義以外の場所でも)、学生の印象に残った可能性はある。
 もちろん内ヶ崎が現に『不思議の国』の原書を買い、教え子の永代に貸し与えていること自体が、ハーンの影響の蓋然性を示しているとは言い得るだろうが。
 昨年、相原由美子氏と川戸道昭名誉教授の論及を受ける形で、平倫子先生が八雲会の年会誌へ内ヶ崎作三郎の前半生を紹介する報告を載せた 6。その中で「英語教師として訳読を担当していた内ヶ崎の使用テキストはわからないが、折に触れてルイス・キャロルの作家と作品などを語り、ハーンの教えを実践していたであろう。」と推察し、訳読のテキストに『不思議の国』を用いた可能性も考えているが、検討してみるべき問題である。
 実は内ヶ崎の早稲田大学での授業については証言がないわけではない。
 若山牧水は早稲田へ入学当時の感想を、明治38(1905)年、出身の延岡中学の《校友会雑誌》に載せているが、そこへ「内ヶ崎学士のラムがシェークスピーアも品が品だけに面白く候」と、ひとこと書いている 7。また、明治42(1909)年入学の谷崎精二は「イギリスから帰朝したばかりの内ヶ崎作三郎先生からはミルトンの『バ〔ママ〕ラダイス・ロスト』を教わったが、ひどい東北弁で「ミルトン」が「ミルチョン」と聞こえ、「チキイのチイシンが(地球の中心が)」などという言葉を聞くと、学生たちはくすくす笑い出した。」と回想している 8。つまり訳読のテキストはチャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』やミルトンの『失楽園』で、その頃の一般的な教材と言っていい。仮に『アリス』を授業に用いていれば、子供扱いするな、と学生の反発を生まなかったとも限らない。
 谷崎精二は、「抱月門下の一番弟子」片上伸(かたがみ・のぶる。天弦)が新聞の文芸欄に「いたずらに豚の如く肥えて何するものぞ!」と書き、内ヶ崎嫌いの学生が痛快がったというエピソードも伝えている。内ヶ崎は恰幅があり、早稲田に相撲部を創設して自らが部長となった人物でもあった。片上は内ヶ崎が高田早苗学監にハーンを紹介した頃には、ハーンの早稲田招聘に向け熱心に運動していた学生のひとりだった 9が、自身が早稲田の教職となってからは教員室で内ヶ崎と対立したらしい。
 谷崎は『片上伸全集』(砂子屋書房、昭和13〜14(1938-9)年)を実質編纂したほどの間柄なので割り引いて読む必要はあるが、谷崎の偏見とばかりも言い切れないようだ。内ヶ崎が「片上先生のみでなく、一般の学生と肌の合わない人だった。」という理由として「どっちかというと政治家タイプの人で、イギリス留学から帰って早稲田の教壇に立った時、「イギリスの大学で英文学を研究しているのは女子学生ばかりで、男の学生は今時文学の研究なんかやらない。男はもっと他の学問をする」と放言して文科の学生たちの眉をひそめさせた。」と語っている。内ヶ崎が大正13(1924)年以降衆議院議員となって活躍することは知られているが、早くも明治末(英国留学は明治41〜44(1908-11)年)に内ヶ崎の興味の中心は文学から現実政治へ移っていたのだろうか。たぶん男子の立身出世を説いたものと思われるが、こうした主義は日露戦後の文科の学生にとって時代遅れと映ったかも知れない。若山牧水が授業を受けたのは渡英前だが「品が品だけに」というのはやはり皮肉なのか。
 こう見てみると谷崎精二より2年後輩の西條八十が内ヶ崎の薫陶を受けたとも思えなくなって来る。そもそも八十がアリスを強く意識して『鏡国めぐり』(《金の船》大正10(1921)年連載、翌年単行本化)を執筆したのは長谷川天溪の「鏡世界」(《少年世界》 明治32(1899)年連載)を読んでいたからというのは川戸道昭教授も強調していたところだ。また、楠山正雄は内ヶ崎だけでなく、ハーンの謦咳にも接している 10
 ところで余談だが私(大西)が若山牧水や谷崎精二の文献を知っていたのは幅広い読書を心がけていたからではなく、その逆で、牧水も精二も永代静雄と親しい人物だったために永代の研究者としてやむなく著作に目を通していたのである。牧水とはおそらく早稲田英文科の佐藤緑葉を介して知り合い、明治42(1909)年には中央新聞で同僚となるが、その時代、金がないので永代の靴を借りて穿き出社したとは牧水の「貧乏首尾無し」というエッセイ 11にある。妻だった永代(岡田)美知代の回想にも牧水の愉快な話題が多かったことは、晩年の美知代に英語を習った原博己氏が書き留めていた 12
 早稲田出身者を中心とした文芸同人誌《奇蹟》(大正元〜2(1912-3)年。9冊発行)に執筆したメンバーに永代は深く関わっていて、光用穆(みつもち・きよし)は東京毎夕新聞や、のちに新聞研究所でも片腕となる盟友、相馬泰三(そうま・たいぞう)も美知代の手記「花袋の「蒲団」と私」に「友人」と書かれている 13(大正7(1918)年正月の永代夫妻宛の年賀状も永代家に残されていた)。広津和郎(ひろつ・かずお)は東京毎夕新聞での永代の部下であり、葛西善蔵の『子をつれて』の出版記念会(大正8(1919)年)にも永代は参加している。谷崎精二も途中から《奇蹟》に寄稿していたが、大正7年頃、萬朝報で職場結婚した郁子との媒酌人は永代夫妻であった、と美知代は原博己氏に語っていた。この点、生前の谷崎昭男 相模女子大名誉教授に手紙でお訊ねしたことがあるが、先生は後妻の子なので先妻・郁のことは何も残ってないとの返信をもらった。これまで誰も指摘してないとは思うが、永代は大正期私小説のパトロンではないにせよ支援者だった。
 少し脱線したので話を戻すが、明治末から大正期、内ヶ崎作三郎がアリスの普及に果たした役割はあまり過大評価できそうにない、という流れだった。けれども、内ヶ崎と永代との関係性は、もっと熱のこもった精神的なものだったのである。


    〈基督教世界〉と《新人》に見るYMCA夏期学校

 永代静雄と内ヶ崎作三郎が初めて出会った日時は、実はほぼ特定できる。永代の上京前、明治38(1905)年7月21日午後のことで、基督教青年会(YMCA)の神戸での夏期学校が舞台だった。まずは、そのプログラムをプロテスタント系の組合教会の機関紙〈基督教世界〉 14から見てみよう。
    第十七回夏期学校梗概一覧
      七月二十日(木)午後七時於神戸関西学院講堂
       開校式            歓迎辞   中村平三郎君
                      演 説   宮川〔経輝(つねてる)〕校長
                       各地方代員の答辞
      七月廿一日(金)午前六時祈祷会
       午前八時聖書講義             平岩〔愃保(よしやす)〕牧師
       同九時講演      (日清教育上の関係)原田助〔たすく〕君〔神戸教会牧師〕
       同十時同     (ジョン.バンヤンの性行)内ヶ崎作三郎君
       午前十一時       協議会
       午後六時半       夕陽会
        (以下祈祷会聖書講義、夕陽会毎日如例略す)
       午後七時講演         (天然と人)中瀬古六郎君
       同八時同 (ガラテア書に於る保羅〔パウロ〕)海老名弾正君
      七月廿二日(土)
       午前九時講演          (人と神)中瀬古六郎君
       同十時同           (前回の続)海老名弾正君
       午後七時同          (前回の続)内ヶ崎作三郎君
      七月廿三日(日)
       午前十時説教               平 岩 牧 師
       午後七時講演        (宗教と道徳)ウヱンライト君
       同八時同        (聖書の霊的趣味)宮 川 校 長
      七月廿四日(月)
       午前 摩耶山登り運動会
       夜  文学会及親睦会
      七月廿五日(火)
       午前九時講演       (イエスの帰省)植村 正久君
       同十時同        (進化論と基督教)元田作之進君
       午後七時同   (失意の耶蘇と得意の耶蘇)原 田  助君
       同八時同          (勢力の宗教)植村 正久君
      七月廿六日(水)
       午前九時講演      (前回の続き〔ママ〕)元田作之進君
       閉 校 式         〔原文縦書き。改行は原文のママ〕
 当時のキリスト教界の大物が顔をそろえている。宮川「校長」というのは夏期学校の校長という意味だろう。宮川経輝牧師は大阪YMCAの初代会長でもあった。ちなみに内ヶ崎作三郎は平岩愃保の長女と結婚している。同志社の学生だった永代は、「海老名弾正の名は、疑もなく、オール同志社ボーイの崇拝の的でした。」と振り返っている 15し、永代(岡田)美知代は晩年まで植村正久を尊敬して回顧していたという。
 YMCAの主催した夏期学校は、のちに流行した夏期大学の起源というべきもので、第1回は明治22(1889)年、京都同志社で開かれた 16。それから数えて17回目。前年の第16回は箱根で行なわれている。
 この頃、内ヶ崎は海老名が牧師となって以来大いに発展した本郷教会(現在の弓町本郷教会)に属して、機関誌《新人》の編集にたずさわっていた。その明治38年9月号で夏期学校のレポートを書いているが、「関西の初旅」というタイトルで 17、この時が初めての関西旅行だったと分かる。7月21日午前、内ヶ崎は『天路歴程』の著者バニヤン(当時はバンヤンと称するのが普通)についての講義を行なった。
    午後神戸教会の金子、岸田、鈴木、永代諸君の来訪せらる。諸君胸襟を披いて、隠す所なく、一部青年間の傾向 〔1字アキ〕渇望とにつきて学ぶ所少からず。諸君の舌鋒容易に当るべからざるものあり、不幸にして講師室に一人残されし余にとりては頗る苦戦なりき。
 金子卯吉(白夢)は神戸教会の副牧師。岸田美郎(よしろう)は同教会の伝道師で今は同志社の神学生、岸田吟香の甥である。永代静雄は神学生ではなかったが演説が得意で、教会でも同志社でも、ひときわ目立つ存在だったらしい。この時点で永代は京都より東へ足を踏み入れたことがないから、これが内ヶ崎との初対面と見ていい。引用を続ける。
    二十二日。朝祈祷会に出席して午後三時を期して赤心吐露会の開かるゝとの報を聞く。〔略〕金子卯吉君司会者たり。集まる者百名計り、一人五分宛にて感話を述ぶるもの二十名ほどあり。要するに今日の先輩の教ふる所、説く所、大概青年の要求に応ぜず。青年のために亡羊の嘆ありといふにあるがごとし。これ半面の事実なるが如し。然れども余りに先輩に依頼するは青年らしとは思はれず。〔略〕余の説は両者共に奮発せよとなり、甚だ陳腐なれども真実なるは疑ふべからず。司会者の求めによりて海老名平岩二氏と余と短かき感話を述べたり。然れども余は未だ先輩の位地にあるの価値なし、唯青年諸君中余りに感情に流れたる人あるを見、一矢報えずんばあらずとして、思はず大声を放ちて基督教の力の方面を説きぬ、必ずしも奮闘主義にあらず。基督教世界記者が夏期学校号に批評して、「猛虎の荒るゝが如く云々」と記せられしは誇大の筆法に外ならず。さはれこの会によりて青年諸君は(余自らをも含みて)思ふ存分に気焔を吐いて、多少の満足を感ぜられたるべく、先輩諸氏も時代思潮の幾分を看取せられたるなるべし。海老名氏神戸市に向はる。余は神戸教会の村松氏と談ずるを得たり。
 村松氏とは、茶と花ムシロの貿易商で、神戸YMCAの中興の祖と呼ばれる村松吉太郎。永代の才気に惚れ同志社の学費など負担し、田山花袋の小説「蒲団」の中で「神津(かうつ)」とされている人物だ。
 ところで文中に登場した「基督教世界記者」とは、永代静雄に他ならない。
 〈基督教世界〉1143号、先ほど引用したプログラムの隣りに、永代生「夏期学校側面記(第一)」が載っている。これによると7月22日午後3時から5時過ぎまでプログラム外の「赤心吐露会」が急遽、組み込まれたという。
    時にいたり、会する者百五十余、海老名、平岩、内ヶ崎先生等亦来(きた)る、金子卯吉君司会してまづ万丈の熱を吐き、岸田、武田、石野、永代、及川(おいかわ〔八楼〕)、三浦君其他凡て二十何名の感話あり、〔略〕続々起つてその所信を述べ、実験〔実体験〕を説くや、風雲疾雷、一堂に怒り狂ふが如く、忽(たちまち)にして一時間半を経過せり、即ち乞ふて内ヶ崎氏の感話を聞く、氏憤然起(たつ)て猛虎の荒るゝが如く、手を揮(ふる)ひ、身を動かして、大声疾呼(たいせいしつこ)、所謂奮闘主義を説く、次に平岩氏起て大(おほい)に青年自身にやれとて、あまり深刻々々とて天の上に登りて神様を捉へる如きにあらず、実験は足下にありとて熱情を以て説き玉ふ、終りに海老名先生、余は最早や何事も云ふべき無しとて、二三同情に融けたる奨励の後、涙を以て祈祷せられ、一同不可解の力を得て、小松月陵〔武治〕氏の感謝を以て此(この)式を閉ぢぬ。/あゝ僅かに二時間と幾十分かの赤心吐露会に於て、いかに現代青年の主張を宣明し、併せて先輩の意向を推し得たりとするぞ、その反響は忽ち、同夜内ヶ崎先生の講演〔バニヤンの講義第2回〕に表はれ、日曜説教〔23日〕に於ても平岩氏の言語(ごんご)に表はれ、其他語らず言はざるの間に於て大に反響を普(あまね)からしめたるは、燎然たる一大事実也、余は信ず、『赤心吐露会』は、第十七回夏期学校に於ける粋中の粋也きと。〔原文総ルビ〕
 内ヶ崎は永代の報告をおそらく面映ゆく感じつつ、それに修正を加える形で《新人》の記事を綴ったわけである。


    永代静雄のキリスト教からの離反と再接近

 この明治38年の9月、永代は岡田美知代との恋愛事件を起こしたが、意外にも美知代の文学の師である田山花袋からは「恋の保護者」となるという手紙を受け取って感激し、10月には神戸教会と同志社を投げ打って、いきなり上京することになる。永代と花袋の最初の会見の様子を、美知代は「花袋の「蒲団」と私」で次のように再現している 18
    『その事に就いて、まだお礼の御挨拶も申しませんでしたが、先日過分な御手紙を頂きまして、何たる光栄ぞと唯々感泣あるのみで、其上に先生御自身深夜の街のポストに御投函の事を拝見しまして、実(まこと)に感激に堪へません』
    『し、し、併し君、き、き、君のその感激は兎も角だね、君の今度の上京の動機に、何等関係があった訳ではありますまい』
    『……動機は他(ほか)にもありました。併し先生に対する感謝と感激が、その動機に関連した最大なるものだったとも云ひ得ます』
    『……それで君は、東京に出て来て、一体如何(どう)しようと云ふのです?』
    『文学をやり度いと思ひます』
    『文学? 併し君には宗教家たらんとする確乎たる志望が有ったぢゃないですか』
    『先生、私は今その確乎たる最初の志望をなくした。基督教会に於ける異端者です』
    『それは又何故ですか、君のあの、既成宗教に対する新人の悩みなるものも、美知代宛の手紙を読んで知ってます。だが、それ位で確乎たる最初の志望を、捨て去る程の事もあるまいぢゃないですか』
    『処が先生基督教の根本たる三位一体に疑問を持った今の私としては、絶対に駄目なんです』
 50年前の回想なので、ここに書かれたことが事実そのままだったかは疑問が生じるだろうが、美知代の手元には当時の資料など無かったはずなのに、「既成宗教に対する新人の悩み」など見事に同時代資料と合致する。この手記によると永代の上京は10月6日で、この日の朝に電報が届いたというが、田山家に残っていた書簡から上京の日は10月3日より後、10日以前と特定でき 19、美知代の証言は正確と考えられる。その記憶力には驚嘆せざるを得ない。それだけ美知代にとって重大な事件だったからでもあろう。
 美知代は「蒲団」作中の田中秀夫の描写と、モデルとなった永代の実際の姿とを比較させるために、これを書いたのだ。「蒲団」では田中の印象は「長い演説調の雄弁で、形式的の申訳をした」、「基督教に養はれた、いやに取済(とりすま)した、年齢(とし)に似合はぬ老成な、厭な不愉快な態度」、「天真流露といふ率直な処が微塵も」ないと書かれており、これは引用した永代の発言や文章からも、そう受け取られかねないとは感じる。
 ところが「蒲団」における田中の話し振りは『まことに、先生にはよう申訳がありまえんのやけれど………』『私はそないなことは無いつもりですけれどナ』というようなもので地の文と齟齬を来しており、美知代が「あの変手古な京都弁が、何処の世界で演説調の雄弁で通用しようか」と非難した 20のも当然だった。対して花袋は興奮すると吃音障害があったことは美知代以外も書いていて(花袋自身は書かないが)、特に誇張というわけでもないらしい。
 ともあれ、ほんの数ヵ月前の夏期学校の熱狂にもかかわらず、永代の信仰は揺らいでいた。美知代との恋愛のみならず、そこにはもっと別の事情もからんでいるが、それについては続稿を許されれば詳述したい。だが、花袋は無論、永代に便宜をはからなかったし、結局、上京後も永代はキリスト教の人脈にすがって生きていくことになる。
 内ヶ崎作三郎とも早稲田よりは本郷教会を通じた繋がりのほうが深かったのではないか。永代は《新人》の6巻12号(明治38年12月10日)に「闇の光」という創作を寄稿しているほか、明治39(1906)年5月13日には中村春雨の渡米送別会に教会の内ヶ崎、小山東助(おやま・とうすけ)らと共に出席している 21。内ヶ崎、小山は吉野作造と古い友人で、《新人》の三羽烏とも呼ばれているが、吉野はこの年1月には袁世凱の息子・袁克定の家庭教師となるべく天津へ渡っていたため、永代との接点は見られない。
 永代の友人となる佐藤緑葉も、あまり熱心な信者ではなかったがこの教会に通っていた。緑葉は「この小山や内ヶ崎などが、当時よく本郷教会で感話をすることがあつた。私は内ヶ崎が同教会でトルストイの「セヴァストポーリ」とラフカディオ・ヘルンの「心」とを比較して論じた講演を聴いた事を覚えてゐる。」と回想する 22(早稲田でラムの『沙翁物語』を学んだことも書いている 23)。
 佐藤緑葉が永代と初めて出会ったのは、早稲田の哲学科の学生で、のちに牧師となる辻忠良の下宿だった。「永代静雄の身の上に就ては私は辻から予め其概略を聴いてゐた。」ともいう 24。内ヶ崎の「関西の初旅」でも、先の引用では略したが本郷教会から辻が夏期学校に参加していたことに触れている。内ヶ崎や辻がいたために永代が早稲田を選んだという可能性は充分、考えられる。ほかにも例えば過去に浮田和民が同志社から早稲田へ移籍していた点なども多少は影響したかも知れないが、もっとも当時、文科は東大と早稲田にしかなく(慶應と京都大学、関西学院に文科が設置されるのは少しのち)、文学専修を望む永代にとって選択の余地はなかったとも言える。永代は「蒲団」発表前の花袋を「親か恩人のやう」に語り、緑葉に花袋を引き合わせた 25。その後の経緯は緑葉によれば、こうである。
    私は其後間もなく彼〔永代〕と同じ下宿に同居するやうになつたが、彼は恋愛のために神戸の恩人に背いて上京した為に、其後学費も生活費も何処からも得ることが出来なかつた。一時は同じ投書家仲間から急場の凌ぎを仰いだこともあるが、それも長く続く筈はなく其上悪性の皮膚病を煩つてゐたので、それを治療する目的をも兼ねて軈て漂泊の旅に上らねばならなかつた。それから後の数年間の彼の生活は実に傷ましいものだつた。だがまた彼ほど巧みに其難局を切り抜ける者をも私は見たことがない。といふわけは、彼は実に驚くべき弁才を持つてゐる青年だつた。〔略〕一度彼の弁舌を聴いた者は、忽ちその才能に魅せられるのが常だつた。教会の集りに於ける感話とか、慈善事業に対する応援演説とかゞ彼の最も得意とするものだつた。さうした場合に於ける彼は、その若い頭のどこからそんな言葉が湧くかと思はれるやうな修辞法を用ひ、聴衆をして感動せしめねば已まないのであつた。その結果はいつも一人か二人の彼の個人的後援者を獲得するのが常だつた。26
 草津での療養を永代に勧めたのは佐藤緑葉である。無論、早稲田は中退した。
 明治40(1907)年3月、永代が群馬新聞にいくつかの記事を書いていた頃に、内ヶ崎と海老名弾正が「組合教会大挙伝道」の応援のため、上州を訪れている。彼らと接したことが永代を再び教会へ近づけたのかも知れない。この年5月から6月いっぱい、永代は群馬各地の教会(海老名の創設した前橋教会や、永代の尊敬する同志社創設者・新島襄の故地である安中教会など)を演説して回った 27。また、「前橋の上毛孤児院に一つの地位を得 28」て、信仰心を完全に取り戻したように見える。現在の上毛愛隣社である。7月3日には岡田美知代に宛て「秋より同志社神学生となるべし。」と、上毛孤児院用箋にしたためて投函している 29
 8月16日、永代が妹の のぶゑ と神戸の小島写真館で撮影した写真が残っており、神戸教会のメンバーに同志社復学の運動をしたまでは推察できる。しかし、そんな時期をまるで見計らったかのように発表されたのが花袋の「蒲団」(《新小説》9月1日)であった。復学の話がそれ以前に壊れていたか否かは分からないが、女子の貞操を破った男として描かれた永代が教会での立場を失ったことは想像にかたくない。
 だが、すでに書いたように内ヶ崎作三郎は明治40年末か41年初頭に『不思議の国のアリス』の原書を貸し与え、永代は糊口をしのぐことができた。また、明治42(1909)年7月から翌年8月まで永代は再び《少女の友》にキングズリーの『水の子』を換骨奪胎した「黒姫物語」を連載したが、あるいはこの原作も内ヶ崎から学んだものかも知れない。
 ラフカディオ・ハーンの東大での講義でも『水の子』は、ひとこと「美しいフェアリー・テール」と言及されている 30が、内ヶ崎も『人生と文学』という著書のキングズリー論で「千八百六十三年に“Water Babies”を出しゝが其は「西印度記事」を除けば何等の苦なくして執筆せし最後の作なりとは夫人の証言する所也。 31」と簡単に触れている。
 内ヶ崎は近年まで重要視されることの少なかった人物だろうが、令和3(2021)年、生まれ故郷の宮城県富谷(とみや)市に「内ヶ崎作三郎記念館」が整備されるなど顕彰は進んでいる。同時代人からの評価が必ずしも高くなかったことも含め、その人格の今日的な再検討は必要ではないかと思われる。

     なお全くの私事ながら、本稿の執筆期間、老母が死を待つ病床にあり、二人暮らしだった私としても傍を長く離れて資料探索にいそしむわけにもいかず、結果として旧著『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』(ネガ!スタジオ、平成19(2007)年)の内容から一歩も出ることがなかったのは大変遺憾で、続稿においては今少し研究を発展できればと願っている。 (2025.8.15.)

    単行本書名は『 』、雑誌名は《 》で示し、紙名・叢書名は〈 〉で括る。記事・作品名(単行本書名を除く)のほか引用一般には「」を用い、ルビは( )内に記した。ただし引用文内の表記は会話文を『 』で括るなど原文に従っている。〔 〕内は大西による注。


     1 瀬田貞二「子どもの本について――その資料としての価値――」国立国会図書館児童書の会編、昭和43(1968)年。瀬田『児童文学論〈下巻〉―瀬田貞二 子どもの本評論集―』福音館書店、平成21(2009)年、191頁。
     2 相原由美子「明治中期日本で言及されたルイス・キャロル――ハーンとチェンバレンの手紙・ハーンの東大講義録――」、《東日本英学史研究》4号、日本英学史学会東日本支部、平成17(2005)年、75-6頁。
     3 川戸道昭「明治の『アリス』――ナンセンス文学受容の原点――」、川戸道昭・榊原貴教 編 『児童文学翻訳作品総覧 ― 明治 大正 昭和 平成の135年翻訳目録 第1巻【イギリス編】1』ナダ出版センター/大空社、平成17(2005)年、60-3頁。
     4 『ラフカディオ・ハーン著作集 第6巻 文学の解釈・T』恒文社、昭和55(1980)年。この著作集はハーンの東大での「名講義録のほとんどすべてを収録した」とある。
     5 立野正裕訳、『ラフカディオ・ハーン著作集 第7巻 文学の解釈・U』恒文社、昭和60(1985)年、106頁。この講義には平井呈一訳もあり『迷いの谷 平井呈一怪談翻訳集成』東京創元社〈創元推理文庫〉令和5(2023)年などで読むことができる。
     6 平倫子「ラフカディオ・ハーンと内ヶ崎作三郎 ルイス・キャロル研究からのアプローチ」、《へるん》61号、八雲会、令和6(2024)年、23-30頁。
     7 若山牧水「早稲田より」、『若山牧水全集 第2巻』増進会出版社、平成4(1992)年、254頁。
     8 谷崎精二『葛西善蔵と広津和郎』春秋社、昭和47(1972)年、「早稲田文科の五十年」176頁。続く引用は188-9頁。
     9 関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』恒文社、平成11(1999)年、79頁。110頁も参照。
    10 関田かをる、前掲書、89頁。
    11 若山牧水『樹木とその葉』改造社、大正14(1925)年、199-207頁(『若山牧水全集 第12巻』増進会出版社、平成5(1993)年、144-9頁)。
    12 原博己「岡田美知代先生と若山牧水」、『第32回 ふくやま文学選奨』福山文化連盟、平成20(2008)年、22-6頁。ほかに原博巳〔博己の筆名〕『晩年の岡田美知代  田山花袋『蒲団』モデル』私家版、平成4(1992)年など。原氏は令和6(2024)年10月3日逝去。
    13 永代美知代、《婦人朝日》朝日新聞社、昭和33(1958)年7月、100頁。
    14 〈基督教世界〉基督教世界社、1143号、明治38(1905)年7月27日。
    15 永代静雄「先生を繞る数氏と私」、『蘇峰先生古稀祝賀 知友新稿』民友社、昭和6(1931)年、1095頁。
    16 石井研堂『増補改訂 明治事物起原 上』春陽堂、昭和19(1944)年、461頁「夏期大学の始」。
    17 愛天生「関西の初旅」、《新人》6巻9号(明治38(1905)年9月1日)、55-61頁。ついでながら、同号23頁には海老名弾正の2篇の論考に挿まれる形で永代静雄(永代磨溪名義)の新体詩「あけぼの」も掲載されている(畏兄・田中英夫氏のご教示による)。
    18 永代美知代、前掲、96頁。
    19 館林市教育委員会文化振興課編、〈田山花袋記念館研究叢書〉第2巻『『蒲団』をめぐる書簡集』館林市、平成5(1993)年、115-6頁。
    20 永代美知代、前掲、91頁。
    21 《新人》7巻6号(明治39(1906)年6月1日)、巻末「彙報」欄。
    22 佐藤緑葉『若山牧水』興風館、昭和22(1947)年、66頁。のち〈角川文庫〉化もされている。
    23 同上、35頁。
    24 同上、70頁。
    25 同上、71頁。
    26 同上、73-4頁。
    27 〈上毛教界月報〉上毛教界月報社による。106号(明治40(1907)年8月15日)には7月7日、前橋教会で「永代静雄兄の京都同志社に行かるゝの送別会を開く来会六十余名」とある。
    28 佐藤緑葉、同上、74頁。
    29 前掲『『蒲団』をめぐる書簡集』、188・353頁。
    30 前掲『ラフカディオ・ハーン著作集 第6巻』317頁。
    31 内ヶ崎作三郎『人生と文学』警醒社、明43(1910)年、133頁。





   Shizuo NAGAYO's Christian connections

     (1)Sakusaburou UCHIGASAKI


           Shousei OHNISHI


 It is known to researchers that it was Sakuzaburo UCHIGASAKI, a professor at Waseda University, who lent the original to NAGAYO, the first author to adapt “Alice in Wonderland”.
 However, NAGAYO first met UCHIGASAKI not at Waseda but at a YMCA summer school held in Kobe on July 21, 1905. Their ties were probably strengthened through their activities in the church rather than in the university. Reading the summer school reports written by this teacher and student, one can see how the young people vented their dissatisfaction with established religions, and how UCHIGASAKI, their elder, responded with enthusiasm.
 UCHIGASAKI was not a particularly popular teacher among Waseda University students, but he was a good mentor to NAGAYO.
 Though, according to the testimony of his lover Michiyo OKADA, NAGAYO questioned the concept of the Trinity and renounced Christianity. Prior to this, NAGAYO had lived in western Japan and belonged to the Kobe Church and Doushisha University, but he gave up his position and suddenly came to Tokyo in order to achieve his romance with Michiyo. In other words, UCHIGASAKI and NAGAYO would not meet at Waseda University in Tokyo until 1906.
 With no one to support his tuition fees and suffering from illness, NAGAYO dropped out of Waseda and wandered around the Gunma area, but in 1907, he gained a position at the Joumou Orphanage and regained his faith. He tried to return to Doushisha, but ultimately failed.
 This failure may be related to the love scandal between NAGAYO and Michiyo depicted in Katai TAYAMA's representative work “Futon” (“The Quilt” or “The Bedclothes”), which was published around this time, but it cannot be confirmed.
 Katai, who was in love with Michiyo, portrayed NAGAYO, his romantic rival, in a negative light. NAGAYO, who was depicted as the man who took Michiyo's virginity, was considered to have lost his position in Christian society, which would ultimately lead to his apostasy.
 However, after the publication of “Futon”, UCHIGASAKI lent NAGAYO the original book of “Alice in Wonderland”, which enabled NAGAYO to make ends meet. NAGAYO's adaptation was published in《Shoujo no Tomo (Girl's friend)》in February 1908 (and continued to be serialized until March 1909 as a bizarre fantasy far removed from Lewis Carroll's original work).  UCHIGASAKI was not a well-known figure in the past, but in 2021, a memorial hall was built in his hometown of Miyagi Prefecture, and efforts to honor him are progressing.

   〔2026年 1月 1日up〕

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