けっきょく、アリスは両腕を、うんと広げてキノコにまわすと、両手の先で、かさのふちを、ひとかけらずつ、もぎとった。
( at last she stretched her arms round it as far as they would go,and broke off a bit of the edge with each hand. )
橋本治は、森毅 編『キノコの不思議 ―「大地の贈り物」を 100% 楽しむ法』(光文社〈カッパ・サイエンス〉、1986. 文庫版 1996.)に
書いたエッセイ「森の不純物」の中で、キノコについてフェティッシュな魅力を語る。
私がキノコを見ると、すぐ手を伸ばしたい衝動に駆られるというのは、それは勿論『不思議の国のアリス』のせいである。 〔中略〕
私は幸か不幸か(というほどの問題でもないが)、字が読めるようになる前に、これをディズニーの漫画映画で見てしまった。
ディズニーの漫画でモノを食べるシーンとなったら、こりゃもう全身でおいしくなるようにしか食べない。〔中略〕
私が生シイタケというものにお目にかかるのは、この“アリス体験”からザッと十年経ってのことで、この生シイタケこそが、アリスがサックリともぎとった、芋虫のキノコの傘なのである。
幸福な出会いというものはこうして起こる訳で、私は、生シイタケをさわるふりして、こっそりとその傘をサックリと割ってしまうのであるが、しかし、そうして確かめられた「これこそがアリスのキノコである!」という
生シイタケは、焼かれてショウ油につけられる訳で、確かアリスはショウ油のビンなんか持って歩かなかったのである。
キノコの味を想像する過程で“トムとジェリーの穴アキチーズ”(かつて日本ではガス・ホールの開いたチーズなど市販されていなかった)に触れたあと、
焼きたてのパンの塊の中に指をつっこんで、ホッカホッカの白い塊をつかみ出す、あの幸福感こそ、アリスのキノコのサックリ感に等しいのである
――と思うのである。〔中略〕 味のないものとなっている筈であるにもかかわらず「おいしい!」のだから味がある訳で、結局、キノコの生食はこれに一番近いのである
――と、勝手に思うのである(そして勿論この思惑はマッシュルームのサラダで肩すかしを食うのであるけれども)。
という訳で分ったが、朝パン屋さんの前を通るのが好きだった私は、今でも陽当りのいい林の地面が、そのように好きなのである。〔中略〕
なにかというと食い物屋の“キノコのサラダ”とか“キノコのスパゲッティ”とかいうお品書きに目が行ってしまうのであるが、しかし一向にそうしたキノコが焼きたてのパンにならないのはどうした訳であろうか?
キノコの料理、というものに魅力を感じる人の多くは、根底に童話的なイメージを持っているのかも知れない。
橋本治のエッセイの主題は“キノコとは、森の不純物が凝ったものである”ということのはずなのだが、アリスのキノコ に抱いている印象が明るいため、幸福な記憶がメインの“分らん話”になってしまっている。
知的なライターで『アリス』に これほど楽天的なイメージを持っている人は、稀有な存在のように思う。