2007 永代静雄研究余録 (9)

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 10月 初め、美知代が晩年を過ごした広島の庄原(しょうばら)市を訪ねたので、簡単にレポートしておこう。
 昭和16年、開戦を前 にアメリカから帰国した美知代は、翌年 5月、妹の嫁ぎ先だった庄原市に住み、以後亡くなるまで、そこから動かなかった。  もっとも、その妹本人は その17年 6月に夫の勤務先である札幌で病死しており、庄原 には遺骨だけが戻っている。美知代も北海道まで、看病に出向いたことがあるようだ。
 妹の夫というのが、戦後、庄原市の 2代目市長となった八谷正義(やたがい まさよし)氏である。
 美知代 は天満ヶ丸(てんまがまる)神社参道脇の八谷家の別邸 に住んでいたのだが、現在、その屋敷は跡形も無い。 作家の 門脇照男(かどわき てるお)氏が、平成 5年に ここを訪ねていて、

    山の青葉は いっせいに芽をふいて家をとり囲み、何十本もの孟宗竹がその家を串刺しにして伸びていた。 天井も壁もなく、僅かに残った棟木から、屋根の篠竹が垂れ下がっている。余りにも ひどいその姿に、私は茫然と立ちつくしていた。
    と感傷にふけっているが (《新潮45》 1993.9.)、これは美知代の没後、八谷正義氏の弟が住んだユニット式の家の残骸で、実は美知代の住んだカヤ葺きの家の名残りは、とうに無かったのである。 その残骸らしきものも、今はほとんど無く、全く土 に帰った状態だ。竹と雑木で、足の踏み場も無い。かつて、ここに築山があり、庭木も植わっていたとは想像するのも難しいくらいで、鎮守の森だけに、もとから人の手が入ってないかのように見える。
 晩年の美知代 は、近所の子ども に英語を教えていたと言われるが、もともとが文士気質というのか、親しみやすい気さくな性格というわけではないので、どの程度の数の生徒を持ったものか、よく判らない。
 最晩年の“生徒” は、以前、このサイトでも論文を引用したことのある原博己氏(博巳は筆名) で、今回の旅行でも お会いしたが、 もう一人、原氏以前に美知代の教えを受けた人に、故・出井(いずい。旧姓 亀井)知恵子氏が いる。  参議院議員・亀井郁夫、衆議院議員・亀井静香 兄弟の、実の姉だ。
jouge-kyoukai  特に郁夫のほうは、姉にくっついて美知代の家まで来ることがあったのも確からしい (上下歴史文化資料館の展示で、姉と共に英語と文学を美知代から学んだように書いているのは大げさだが)。
 出井知恵子氏は戦後、アメリカの設立した原爆調査委員会(ABCC)の生化学室に勤務している。 ABCC と言えば、被爆者の研究は行うが治療は全く行わず、「被爆者をモルモット扱いした」 と、とかく評判が悪い。
 被爆者の死体解剖も、かなり強制的なものがあったようで、死んだら どこからともなく ABCC の手先がやって来て、死体をさらって行くという話 は、ほとんど都市伝説と化 していた。
 しかし、実際に ABCC に関わった日本人 には、その仕事を誇りにしている人も多いようだ。 出井氏の場合、英語のできる被爆者であったことが、この仕事を選ばせたのだろう。実際のところ、亀井兄弟の学費稼ぎの意味もあった。
 その後、小野十三郎 の大阪文学学校 に通い、 前衛俳句の 赤尾兜子 (あかお とうし) に師事したという。句集も 2冊あり、主宰した俳誌 《茜》 は現在も続いている。
 原氏は出井氏を知らなかったが、出井氏のほうでは美知代の家に出入りする原氏を知っていたらしく、ずっとのち、亀井郁夫事務所を通して連絡があったとか。
 「美知代先生」 のことを知るのは今では私たちだけ、頑張りましょう、と出井氏に、はげまされたということだが、しかし、出井氏本人は白血病で、急逝 した。
 死の ひと月前、庄原で食事を共にした原氏は、全くそんな徴候が見えなかったので知らせが信じられず、職場(その頃はカトリック系の学校) に電話して確かめたという。
 亀井郁夫は姉の影響か、比婆夢山人という俳号で作句 しているが、ヒバゴン を思わせる、田舎風の筆名だ。
 なお、美知代自身は 俳句 には特に興味が無く、例えば高浜虚子について語るときも、句ではなく、その 「写生文」 を尊敬していたと原氏は教えてくれた。
 別邸の跡から そう遠くない八谷家の墓の一角に、美知代も、アメリカで得た夫・花田氏と共に葬られているのだが、ごく小さな何の変哲もない和風の墓石で、キリスト教式のものではなかった。 美知代は 「無教会派」 と自ら語っていたようだし、花田氏が日蓮宗だった (らしい) こととも関係するのだろうか。
 小説「蒲団」 にはヒロインの両親は敬虔なクリスチャンと書かれ、実際美知代の両親も そのように言われているのだが、郷里・上下町にある墓は、やはりキリスト教式ではない。 こうしたことは祭る側の問題だから、死んだ本人にはどうでもよいのかも知れないが、研究者的 には 気にかかるところである。   〔10月7日〕

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