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《文章世界》四巻一二号(明治42年9月15日)「車上三里」 〈中央新聞〉明治42年9月26日〔家庭欄〈日曜童話〉〕すま子「聞き上手」 〈中央新聞〉明治42年10月10日〔家庭欄〈日曜童話〉〕須磨子「秋子さんのお誕生日」 〈中央新聞〉明治42年10月17日〔家庭欄〈日曜童話〉〕須磨子「秋風の歌」 〈中央新聞〉明治42年11月18日〔無署名〕「「新夫人の打明話」を読で女性(じょしやう)の素質を思ふ」 〈中央新聞〉明治42年11月19日 静雄「「新夫人の打明話」を読で女性の素質を思ふ(承前)」 《女子文壇》五年一六号(明治42年12月1日)「私の若い心」 「車上三里」は花袋よりは国木田独歩や徳冨蘆花を意識した写生文だろうと思いますが、けっこう名文じゃないかと思うんですね。 永代の内面が色濃く反映された風景描写だと思います。その冒頭部分、
この数行を古いノートの中に見つけた。 潮の香(か)と、林の匂ひと、……馬、人、車、家、………様々な思ひ出が私の胸を打つ。 幾日かの間、激(ひど)く雨が降り続いて、帰らうにも帰れなかつたのが、その前の日からカラリと晴れて、泥深い色を見せて居た濤(なみ)も次第に元の碧(あを)さを増し、急に鰹船(かつをぶね)が幾艘(いくさう)も幾艘も沖へ出た。原始時代の人を偲ばせるやうな筋肉や皮膚を持つた漁夫(れうし)が、一艘に十一人づゝ組み合つて、薄暗い濤の上から朝日を呼び覚まさうとする。 ちょっと青木繁の「海の幸」を思わせる。「海の幸」は明治37(1904)年の作で、国木田独歩が500円で買い取りたいと言っているという噂を聞いて、青木繁が喜んだみたいな話もありますから、ひょっとしたら永代もこの絵を知っていたかも知れない。まあ想像の域を出ませんが。 「車上三里」の舞台は“九十九里ヶ浜の真中(まんなか)に当る古所(こしょ)村”となってますが、今も古所(ふるところ)海水浴場というのが千葉県長生郡白子町(しらこまち)にあります。 明治41年、つまりこの小説の書かれた前年に美知代が妊娠して九十九里に逃げて来た時の話のはずですが、そんなことはおくびにも出さない。 “昔の感情的であつた自分を馬鹿らしくも感じ、尊くも感じた。”と書いてます。明治39年に美知代と別れて傷心旅行をした時のことを、そんなふうに回顧しているんですね。冒頭のノートも39年に書いたものと思います。 “太平洋岸のパーヒユームは、三里と云はず五里と云はず、一帯に此の辺(あたり)の大気を匂はせて居る。”とか、“海辺の松林は、山の松林よりも多量のオーゾンを含んで居る。”とか、英語の使い方が、明治末の文章ではよく見る使い方ですけど、面白い。 永代の気分としては西洋人みたいな眼で漁師なんかも見てるのかも知れませんね。 この文章は永代流の「自然主義」がよく出ていると思います。 そのあとはまた中央新聞に戻りますが、趣向がガラリと変わって、家庭欄に掲載された童話ですね。 最初の「聞き上手」というのが“童話”と呼ぶには、はばかられるような内容で、ちょっと面白い。
「ます代さん、今日家(うち)へ被来(いらつし)やいな。私 沢山(どつさり)お話をして上げてよ。」 「あら、かの子さん、私……あなたのお話は何時(いつ)でもお聞きしたいのよ、屹度(きつと)為になるんですもの。〔略〕」 「だけ共(ども)ね、ます代さん――。」 「本当よ、あなた秋子さんを御存知でせう?私、あの方がお遊びに被来(いらつしや)ると何時でも失敬するの。秋子さんは好い方ですけ共ね、何時でも人の顔さへ見るとお話をし度(た)がるのよ。そのお話が下らないことばかりなの。」 〔略〕 「でもね ます代さん、上手に話す人にかぎつて――。」 「えゝ、上手に話す人に限つて、上手な聴手(きゝて)にならなければ可(い)けないつて被仰(おつしや)るんでせう?すると私なんか、本当に然(さ)うなんだわね。ほら先(せん)の日曜のことね、私、大方半日もあなたのお話ばかり聞いてたでせう?半日ばかり「何故?」とも云はないで、あなたのお話を聞てたでせう?。」 「だからます代さん――。」 「えゝ/\〔踊り字〕、あなたの被仰りたいことは知つてゝよ。だから今日もお話をしやうと被仰るんでせう?。」 「だから被来や――」 「えゝ難有(ありがた)うよ。本当に先の日曜は楽しかつたことねえ。色んなお話をして下すつて難有う。また次の日曜にもお話して頂戴、ねえ、かの子さん。」ます代子は急いで かの子の傍(そば)から五足ばかり離れて「ぢやア左様なら、次の日曜に又ね。」(完) マガレットは、まがれいと、ともいって西洋式の束髪ですね。一本の三つ編みを輪っかにしたような髪型です。 “ます代”は美知代の妹が萬壽代(万寿代)ですから、モデル小説かも知れません。 永代の女性観が垣間見える小品かな、と思います。 「秋子さんのお誕生日」は、ちょっと生活童話風なんですが、といっても上流階級の話ですね。お誕生日会の余興に友達が七福神の仮装をして現れるんですが、最後は夢でした、で終わる。 永代は神戸教会でパーティ文化には触れていたはずですが、上流の子どもが実際にどんな生活をしていたかは、たぶん知らなかったでしょう。だから夢オチにしたのかな、とも思います。まあユーモラスな作品ですね。 「秋風の歌」は、また一転して寓話らしい寓話です。 秋風が野菊に海の歌を唄って聞かせる。ここにも海への憧れは感じられます。 しかし、ラストは秋風も野菊も“人の身の上を羨やんで、自分の身の上を悲しむ”という、結局人間が一番いいというのは予定調和的すぎて、埋め草的な作品という以上の評価は難しいです。 けれども、須磨子という筆名の時は「自然主義」の枠に縛られず、わりに自由に書けたとも見ることができますね。 それから「「新夫人の打明話」を読で女性の素質を思ふ」という講評ですが、コレが問題です。 後半部分を引きましたが、“女性には、人生を学びその事実を了解しやうとする努力がない。”と始まる。 永代の男尊女卑な面がストレートに出てるようですが、最後は折れて“女性を尊重する”と結んでる。 「新夫人の打明話」というのは美知代が書いたと推定される談話体の、まあ小説と言っていいもので、結婚生活の破綻、夫に対する不満なんかがぶちまけられてるんですね。 これは広島大学のサイトで全文が読めます(永代の論評も同サイトで読めますんで、全文は そちらでお読み下さい)。 永代としてはハイそうですかというわけにはいかないから批判するんだけれども、美知代と よりを戻したい気持ちが強くあって、腰砕けになったんだと思います。実際、明治43年には、よりを戻してるんですが。 面白いのは“彼女は一個の空想家であつて、凡てを現実の力に一任するといふよりは寧ろ自分の空想に当てはめなければ承知が出来ないのである。”と。女性はことごとく空想家みたいにも書いてますね。 それが“私はそれに善悪を下(くだ)さうとは思はない。何故ならば「空想」は常に女の素質であつて、空想を以て真の自己を裹(つつ)むのが女の女として活き得る所以(ゆゑん)である。”と続く。 空想の意味が微妙に違って来てるんじゃないかとも思うわけですが、永代は多分「空想」という言葉に こだわりがあったろうと思うんですね。 というのも、花袋が「蒲団」で書いてるんですが、田中秀夫(つまり永代)が文学で生きたいと考えていると芳子(美知代)から聞いた時雄(花袋)が、“小説で立とうなんて思つたッて、とても駄目だ、全く空想だ、空想の極端だ。”と批判してるんですね。 単行本の『アリス物語』(大正元年12月)の「はしがき」で永代が、
まあ『アリス物語』の「はしがき」はカッコ良くて、これが「新夫人の打明話」の批評よりあとに書かれているのは救いですが、その批評を読むと永代は空想は女性的なものだと捉えていたことが分かりますね。 最後に《女子文壇》に掲載された「私の若い心」。女性向けに永代静雄名義で書かれたという点が注目されます。これは散文詩と言っていい作品で、面白いです。 “若い心”を擬人化したというか、ドッペルゲンガーみたいなものかなという気もします。
あの時分から、僅(たつ)た一足飛びに時代を飛越したのだらう、今では、代(よ)も変つて、昔、自分が棲んでゐた家の中が、様子を代へて居る。道具の置場も、それを使ふ人達の声も異(ちが)つてゐる。 私の若い心は、久しく見知らぬ人達に蹂躙(じうりん)されてゐた古巣の中を見廻して、驚いて、口を歪めた――私の若い心は、声をあげて泣くだけの勇気もなかつた。 見知らぬ人が、蒼い顔をして近寄つた。 「もつと寝て居なさい」 私の若い心は、 「一体 此処(こゝ)の主人は私ぢやないか」 と云ひたさうに、蒼い顔を見た。 「幾ら威張つても駄目だ」 と蒼い顔は、人の気(け)もなげに見えた隣の部屋を振顧(ふりかへ)つて、 「なア、おい」 と鼻笑ひした。 其の部屋の窓帷(カーテン)の蔭には、ヱ゛ナスス、ルッキング、グラスの花が、大理石の花台(くわだい)に匂つてゐた……女の妖艶な、優しい感情がその蕚(しべ)から流れてゐた――と、私の若い心は恍惚(うつとり)した。 「なア、おい」 と今一度、蒼い顔が其方(そちら)を向く。 其の部屋から、腹を裂くほどの呻吟声(うめきごゑ)が漏れ初めた。 私の若い心は、蒼い顔の濁つた瞳に見すくめられて、ヱ゛ナスの鏡草(かゞみくさ)の媚(こび)に蔽はれた花弁(はな)を、周章(あは)てゝ心の隅に押蔵(おしかく)した。 「うむ、う、うむん」 といま一切(しき)り呻吟(うなり)声が響いた。 私の若い心は不意に起上(たちあが)つて、 「誰だ/\」 と叫んだ。 「誰でもない、汝(おまへ)だ」 と蒼い顔は然(さ)う太息(といき)した。 呻吟(うめき)声が、私の若い心の手足へヒタ/\と捲きついた、黒髪、リボン、手紙――色の乱れた血―― 私の若い心は、秘密の幻覚に抵抗して、懸命に藻掻(もが)いた、藻掻きながら、オルカメニアの花を思つた‥‥ (貴方さへ幸福であれば可(い)い) 途端に、初めて人間の空気を吸つた赤子の声が、隣室から迸(ほとばし)つて、私の若い心の唯中(たゞなか)を貫いた。 蒼い顔は、衰へた両手を眼に当てゝ、肩を波立たせた。 私の若い心は、色の乱れた血――その経過した時間の瞬間の復活が、この赤子の声であると思つた。 私の若い心は、堅く唇を咬(か)んで、再び永い眠へと陥(お)ちてゆく―― “ヱ゛ナスス、ルッキング、グラス”はヴィーナス・ルッキング・グラスだと思います。イギリスなどに自生している花で、日本にも「レゴウシア」の名前で園芸品種として入っていて、キキョウソウに似ています。 “オルカメニヤの花”は、Ôcamélia(カメリア)つまり「椿」という意味ですが、生花ではなくてプラスチックや布などで椿の花を象った装飾用のブローチのことだと思います。 この小品は珍しく官能性があって、「自然主義」以外の永代の特長である奇想が顔を出してます。小川未明論のところで触れた“自然主義から転じた神秘主義”とはコレかと思うわけです。 永代はこの翌年=明治43年には若山牧水の主宰した詩誌《創作》に「断崖の獣」とか「霊魂秘史」とかいった散文詩を載せて、それだけでなくボードレールやウィリアム・ブレイクの評論も書いています。 この頃が、ある意味では永代が作家として時代の最先端にいた唯一の時期じゃないかというふうに思えるんですね。永代自身は富山にいて、中央文壇からは距離を置いているんですが。「私の若い心」は、その系列の最初に位置づけられる作品かな、と思います。 以上で、須磨子時代の作品をざっと眺めてみたわけですが、永代が多彩な作風を持っていたのは感じられたかと思います。 永代の恋愛観、女性観も、一筋縄ではいかないというか、単に保守的というだけではない多面性があると思いますが、簡単な結論は出せません。 すでに 1時間半しゃべりましたので、ここまでということにさせていただきたいと思います。 資料協力/有元伸子、清田啓子、田中英夫 〔2017年 2月15日〕 〔→ Home に 戻る〕 〔→ 永代静雄入門/研究余禄 index へ〕 |