原題が地口でもないのに、「め茶く茶お茶会」的な、シャレのめす訳が多いのは、「気ちがい」 という差別語を不自然に避けたことへの代償を、無意識に求めてしまうのかも知れない。 もっとも、こういうところから宗方あゆむ訳 「くるくるパーティ」 のような名訳 (半ば偶然だろうが、くるくる席が入れ替わるお茶会という意味が重なって愉快だ) も生まれるわけだから、「言葉狩り」 に対して作家は別のすぐれた表現を探すことで応戦すべき、という大江健三郎的な見解も、あながち間違いではないのだろう。