読者のために簡単に経緯を説明しておこう。
最初、ワイド君氏(以下敬称略、「ワイド君」とする)からメールで、〈こぼれ話〉8 「人称代名詞の迷宮からの脱出」のページを教えられた小生は、その返信で、12章の詩の原形は、1855年、つまり『不思議の国』が、まだ構想もされてなかった段階で書かれていて(Aliceと出会ったのは1856年)、詩の内容とストーリーが完全に一致する可能性はそもそも薄いことを知らせると同時に、
私の場合、翻訳方針にも書いたとおり、キャロルはあくまで「子ども向け」に作品を書いたのであって、理屈好きの大人に作品を読まれることを本来は期待していない、という解釈ですから、もし本当に12章の詩に深い意味があったとしても、それはキャロルにとって二義的な意味しか持たない、と考えるわけです。
つまり「子ども」に喜んでもらうことが第一義とすれば、「子ども」はあなたのように論理力を駆使して、詩を解釈しようと努力したりしないわけですから、キャロルにとってその詩の隠された意味は、あくまで自己満足的な、自分一人がわかっていればいいようなもの、ということになります。ですから「子ども」を意識した私自身の翻訳の中に、あなたの説を取りこむ必要は、全くないわけです。
と通告した。見てわかるとおり、私の主張の中心は、作家にとって何が最重要だったかを考え、それを翻訳方針にすえるべきではないか? という点にある。これは、のちの議論にも関連するので覚えておいて欲しい。
誤解する方もなかろうが、小生がワイド君の論理力に、おそれをなしたわけではない(笑) 本当は、ざっと見ても欠陥だらけだと思ったが、メールでは特に指摘しなかった。
ひとつにはワイド君自身、さすがにおかしいと感じる面もあってか、「創作した一つの仮説」と煙幕を張っていたからで、もし全てを冗談で書いているなら、反論するだけヤボである。〈こぼれ話〉8の段階では、どこまでが本気で、どこまでが遊びなのか、第三者にはハッキリしなかった。
12番目の〈こぼれ話〉は、私のメールに対する回答という性格が強い(いちおう一般読者を想定して書かれており、私に対抗するためかワイド君の文章中、唯一読みやすいものになっている。もっとも、ふつうにサイトを訪れた読者は〈こぼれ話〉の1くらいで退散しているだろうが)。
だが私個人に向けた反論として読むなら、ここには論理のすり替えがある。先にも書いたとおり私の「翻訳方針」は、キャロルにとっての第一義を特定して、日本語訳の核とすることだ。私が「子ども好き」だから日本の子どものためを第一に考えて「子ども向け」に訳すというわけでもないし(笑) 日本の子どもがアリスものを、きちんと読んでいるかどうかは、まるで別問題なのだ。最後まで我慢して読む者が少ないのは、全ての古典文学に当てはまることで、だからこそ訳の改善が不可欠という議論に持っていくことはできようが、どうせ読まれないなら翻訳はどうでもよいということにはならない。
しかし、ありがたいことにロー・ティーンの読者も得ている私からすれば(小学生が読んだという話は まだ聞かないが)、ワイド君は全く虚に吠えているとしか感じられない(読者数の大小など問題にするなら、ワイド君自身、墓穴を掘りかねまい)。
結局のところ、キャロルが「子ども向け」に文章を書いたのだとしたら、ワイド君は自説を主張できないため、そうではないと思わせようと、あれこれ読者を誘導しているのだ。
ともあれワイド君が、かなり本気であることは判明したので、私は新たな訳註という形で、これを否定した。
そもそも自説を主張することで何を明らかにしたかったのだろう? キャロルが『不思議の国』にそういう謎を隠す、下品な性格だったこと、だろうか? そんな「解明」に感心する人は、当人以外にはまず、いまい。〔中略〕本筋の部分で考えが足りない
とも書いたが、これだけでは曲解されかねないので私の伝えたかったことを補足説明しておく。まず最初に、文芸批評というのは数学の証明ではないので、形式的に論理の過程を示せばそれだけで評価されるなどということはない、というのが一点
(論理の過程が正しくても、結論が間違っている、というのはキャロルが得意とした論理ゲームの型でもある。もっともワイド君の場合、論理の過程が正しいかも疑問であることは、あとで話題にしますが)。
次に、私は別にキャロルを聖人君子と思っていないし、とりたててワイド君をモラルの面から非難したいわけでもないが、その「仮説」によればキャロルは詩に隠した謎が解かれるのを期待している(作家にとって二義的なものではない)わけだから、当然そうとう意識的に書いていることになる。つまり邪推されがちなキャロルの深層意識のようなものとは関係がない。となれば、キャロルの残した仕事の総体から見て、「トリプル不倫」を設定して喜ぶようなタイプとは、とうてい思えない。が、この論点は完全な立証も難しいので、棚上げにしておいてもよい。
それより、この註で全体として問題にした点は、「大胆な仮説」の結末としての「トリプル不倫」というのは、ふつうに見ればスラップスティックだということ。つまり、一種の「ノンセンス」だ。意味不明の詩がノンセンスでないと論証して見せた結果が、ノンセンスでしかないのだから、これはお話にならない。「詭弁」かどうかという以前に、仮説として成り立ってないと言いたかったのだ。
ワイド君は自説を「推理小説もどき」あるいは「推理小説そのもの」と繰り返し主張し、本当のように思わせようとするが、せめてもっとマシな「仮説」を提示できない限り、誰も相手にしないだろう。
私の註へのワイド君の対応などは特に知りたくもなかったから、サイトを訪問することもなかったが、ちょっと気が変わり、しばらくぶりに見てみたら、「後記」および「論理と詭弁」のページが増えていて失笑させられた。
特に「論理と詭弁」のようなものを訳出しながら、自省の念など、さらさらない様子なのは、不思議でさえある。
以上、大局から見た欠陥の指摘だけで、こちらからの反論を終えてもいいくらいだが、ワイド君の主張にも部分的には鋭いものがあるように思える。果たして、そうだろうか。
話の順序として、もうちょっと「枕」の部分への反論ないし批判をしておこう。
まず、私のサイトにテニエルの絵が入ってない理由については、早くから(ワイド君に最初のメールをもらう前から)訳註にも書いていたとおりだが、未だにイラストを載せないのは、読者にこのサイトだけで完結してもらいたくないと考えていることが大きい。訳者としては他の翻訳も気にしてもらいたいし、できれば原典にも手を伸ばしてもらいたい。くどい講釈になりすぎて読者をかえって、それらから敬遠させる面もあるか知れないが、本来はそういう意図の元に註もつけたわけである。
しかしイラストがないとか原文対照でないからいけないとかの、当てこすりレヴェルの非難が増えるようでは、私としても考え直さざるをえない(しかし容量の軽さがこのサイトの長所でもあり、ソースの2次使用の便も考えれば、フレームの使用等はできるだけ避けたい〔この点は今回UPしたヴァージョン(2004.1.)では、少し改めた〕)。
ところで誰でもアリスものに少し通じると、やはりオリジナルのテニエル画伯の絵が一番すぐれている、といった感想を抱くから、ワイド君の本論はともかく、前置きの部分については無批判に同調する人もあろう。
食玩の人気など見れば、今の日本人(子どもに限らない)にとって、アリスが何より「キャラクター」として好かれていることは明々白々で、わざわざ教えてもらうほどのこともない(ワイド君がイラストさえあれば翻訳そのものが不要とでも強弁しない限り、私の「翻訳方針」とは直接関わらない)。
だが、アリスのキャラクター人気の理由を、テニエル一人に帰すのだとすれば、やや粗雑な議論といえる。
例えば英米でもほとんどの子どもはディズニー・アニメの洗礼を受け、そちらのキャラのほうが強いわけである。日本では(英米でも そうだが)子ども向けの出版は、イラストがテニエルでないことが多い。実際、低年齢の子どもにテニエルの絵を見せると「怖い」といった反応が返ってくることが、しばしばなのだ。宮澤賢治の童話が子どもには「怖い」のと同様で、そういう体験も貴重だが、それは余談だからともかくとしても、子ども向けにソフィストケートされたリライトが大量に出版され、多くの読者を獲得して来た歴史というものを無視はできない。おそらく「キャラ立ち」の要素は、原文それ自体の中に含まれていて、イラストがどんなものであれ、読者に通じるものがあるのだろう。
それと、マザー・グ−ス(ナーサリー・ライム)の土壌がないから、日本の子どもには楽しめないという点。
ごく耳慣れた意見だが、これについても異議は立てられる。話を『不思議の国』に限定して言えば、パロディとして使用された歌のほとんどは、現在では忘れ去られたヴィクトリア時代の教訓詩・流行歌で、現代の子どもには英語圏でも全く元ネタがわからない。11章のタルトの歌などはマザー・グースそのものだが、アリスに使われたことで逆に有名になったわけで、最初に『不思議の国』でこの歌に出会う子どもだって、ないとは限らない。しかし、そういう状況と関わりなく、アリスの物語はコンスタントに人気があるのだ。
また、研究者などがこの説を唱える場合、多くはマザー・グースのノンセンスが、アリスの世界に通底するものだ、という意味で論じているのだから、対象は子どもに限定されないし、こういう視座が必要なのは、ワイド君のほうだろう。
どの程度文献を調べたのか知らないが、過去には詩の翻訳に「桃太郎」の替え歌を用いた例もあり、クロッケーを「ゲートボール」と訳した例もある。
これも、ワイド君が「アリス通」だというよりは、その論に見るべき独創のないことの傍証になるかと思われる。
創意があるとすれば、嫌みたらしいオヤジギャグくらいなのだ。
では一見して独創だらけのような本論部分は、どうだろうか。
アリスが「幼児的」にも「学究的」にも楽しめるということ自体は私も、ぜんぜん否定しない。私自身が子ども向けの訳文と、いくぶん論理的な訳註というダブル・スタンダードを採用してるんだから。
誤解しないで欲しいが、私の「翻訳方針」は文字どおり翻訳のための方針なわけで、読者が作品を どう読むかは、また別問題だ。
論理学、数学、物理学、歴史学、文学、心理学等々、さまざまのアプローチをする人たちの楽しみを、奪おうとは思わない。
ただキャロル自身が、そう読まれることを期待して書いたとまで考えるのは無理だし、理屈好きな人たちが、そういう曲解をしがちなのを戒めるくらいの含みは持たせた。
だが、それとは別に、どうしても忘れないでほしい一点がある。
それは、キャロルの文学は、論理的であると同時に、論理学のパロディである、という点だ。
3章での歴史教科書の引用が、その堅苦しさを笑うためのものでしかないように、『不思議の国』では論理学も、基本的に笑いの対象である。
これは「二重」の意味で好ましい。つまり論理学に関心のない、例えば子どもにとっては笑って読めるし、理屈好きの大人にとっては、論理による自縛=「自家中毒」から解放してくれる一服の清涼剤ともなるわけだ(しかしこの解毒剤は、たまに副作用を起こし、ますます病状を悪化させる方もある)。
おそらく、読者が意識するしないにかかわらず、これこそアリスものが非常なポピュラリティを持つ要因なのだ。
世の中に知的スノッブの書いた「学際的」な文章を探せば、たくさんある(ワイド君の文章だって、そうかも知れない)が、それらはたいていポピュラリティからは縁遠い。単に、個人攻撃として言うのではない。ワイド君の主張が、もし有効なら「大人の知的好奇心をくすぐる」文章なら一般に人気があってよさそうなものだ。
だいたい、キャロルからノンセンスによる飛躍を奪ってしまえば、一介の古典論理学者に過ぎないといってよいくらいだ(宗宮喜代子『ルイス・キャロルの意味論』(大修館書店、2001.)参照。この本の内容には異論もあるだろうが、キャロルは勃興しつつある形式論理学に特に貢献しなかったし、保守的なユークリッド幾何の遵法者だったのも確か。もっともワイド君自身の議論はそんな高尚なものではないし、これは余談に過ぎないが)。
さて、長すぎる前口上の部分の批判を終え、やっと「本論」です。(いきなり「です・ます体」になりますが気にしないで下さい。ここから先はやさしく教え諭すように語ったほうがいいかと思って(笑))
集合論による解明は、ご苦労様と言いたいですが、この詩は、たった24行しかないのだから、いかにキャロルが代名詞を混乱させようと努力したにしても、話を都合のいいように限定すれば、ある程度「整合的」な解釈はできる。それが当たり前です。どうにか解釈できたからといって(もっともワイド君仮説の結論が一種のノンセンスでしかないことは最初に指摘しましたが)、それがキャロル本来の意図であるという証明には全くならない。
ワイド君としては最低でも1855年に書かれた‘SHE'S ALL MY FANCY PAINTED HIM’との間に整合的な解釈を示さなければいけない。
「I gave her one, they
gave him two,
You gave us three or more;
They all returned from him to you,
Though they were mine before.」
この部分は枠組みとしてはそのまま受け継がれているわけだから、ワイド君の説が正しければ1855年においても「詩暗号」だったはずです。しかしその時点でタルトの受け渡しなどと関係なかったのは確かですね。
「この詩の意味を解明してみたら意外な事実が浮上して来るかも知れませんが、今の所この楽しみはキャロリアンの方々のために取っておこう」なんてのは、ただの逃げ口上です。われわれはそんな楽しみなどいりませんから、どうぞワイド君が解明して下さい。
多分無理ですけど。
ワイド君が元の詩を参照できるようにしたのはいいことですが、冒頭に「Croft 1855」なんて、ありもしない前置きが付いている。何かと思ったら、海外サイト『Complete Stories of Lewis Carroll』でこの詩の前に置かれている‘STANZA OF ANGLO-SAXON POETRY’の末尾ですよ。英文のひと通り読める方で、そんなことに気づかない御仁は、まさかいませんよね。
こんなことにも気づかない人が「暗号」を解読する? シュリーマンみたいに?
さて、「公爵夫人」(Duchess)は『不思議の国』で初めて登場しましたが、実は『地中のアリス』の段階で「侯爵夫人」(Marchioness)は登場している。これについては私の訳註にも書いてますが、ふつうに考えて全くの別人とは思えない。
少なくともキャロルの思考様式に「侯爵夫人」がいるなら当然「侯爵」もいるはず、なんていう「センス」のなかったことは、このエピソードで明らかです。ワイド君は、
うんぬんと書いて、変な権威づけみたいなこと(別の論理の挿入)で自説を補強してますが、ずいぶん疑わしい論理展開です。次も詭弁の一例です。
> この「耳をぶっ叩く」という表現がまた重要なんだよ。「box someone's ears」は「to hit someone on the ears with hands, esp. as a punishment」ということです。つまりこれは、「ただ耳を叩くのでなくて、犯罪者に対する刑罰」だ
こんな引用の仕方をされてはロングマンさんも大いに迷惑でしょう。この辞書を読んで、punishmentを「刑罰」の意味に取るような人は、ワイド君以外にはいません。と、私が言っても信じないかも知れないから、わかりやすさで定評のあるコリンズのコウビルド英英辞典から引用しましょう。
If someone boxes a child's ears, they hit the child's head and ears because they are angry or as a punishment.
いかなワイド君でも、この意味は取り違えようがありませんね。これは旧版のboxの項目からの引用ですが、いちおう最新第3版も確認してみると、この説明はearの項目に移っていて、しかもワイド君にとってはもっと都合の悪い内容に改善されていました。
刑罰説を主張するなら、中世のどこかの地域に耳を殴る拷問があったとかの例でも持ち出すしかないでしょうが、私はそんな話は知らないし、少なくとも一般辞書であるロングマンにそんな特殊な意味を載せているはずがない。
公爵夫人に注目するなら、その存在が論理学のパロディだという面も忘れないで欲しいです。わかりやすい話をわざわざ難しくしてしまうあたり、なんだ、あれとそっくりじゃん、てなもんです。ま、今のはただの皮肉でワイド説を否定したものではないですから気にしないように。
「They told me you had been to her,
And mentioned me to him:
She gave me a good character,
But said I could not swim.」
ちょっと英文法の話になりますが、ワイド君は小生がこの部分を伝聞調に訳してないことが、ご不満のようです。面倒ですが読者のために、ちょっと解説しておきましょう。
「描出話法」というのはデンマークの語学者イェスペルセンの生み出した用語ですが、英語ではRepresented speechと言います。他にもsemi-indirect speechだとかsubstitutionary speechだとかindependent form of indirect discourseだとか、いろいろに呼ばれている(笑) 文法家によって命名が異なるのは、用例に様々なパターンがあり、ひと言で説明しにくいものだからでもあります。
日本で特に「描出話法」が定着してるのは、東京帝大に市河三喜というデンマーク語も読める先生がいたからで、大ざっぱに言ってしまえば東大英語学の影響力が強かった、ということです(そういう権威を直ちに否定するほど私は偉くもないし単細胞でもありません。それが絶対のものではないと注意を喚起しているだけです。余談ですが東京外大の岩崎民平も、そういう流れの中において仕事をしています)。毛利可信先生の『意味論から見た英文法』は、イェスペルセンの諸説については批判的ですが、「描出話法」については伝統的学説を受け入れているようです。
この本で学生からの質問という形で示された例文には、
He paused[and wondered]:was he really growing older?
とコロンがついていますが、ふつう「描出話法」の用例にコロンは付きません。何故か?
たいてい地の文から、いきなり内面的な心理描写に移るときに、そういう話法をとることになるためで、いちいち「ここから会話文ですよ」というような記号を付けていては、台無しになるからです(もっともコロンは「前文への付加」というくらいの記号で、ここでは「会話文」を意味しているわけでもないでしょうが)。「描出話法」がそういう性質のものだとしたら、ことさら伝聞調に訳す翻訳伝統も少々疑問だということになります。こういう文体は、近代小説における内面性の創造みたいなことと密接に関わっている。毛利先生の形式的な定義では、こぼれ落ちてしまう点で、ここにも歴史的な視点を加味したほうがいいかも知れません。
ひるがえって、12章の詩のこの部分を「描出話法」として訳したら、深みか何かが出てくるのでしょうか。
誤解のないよう言っておきますが、ここを「描出話法」と定義すること自体が間違いだと指摘しているのではありません。ただ私の翻訳は文章の流れの中で、過去形を現在形に直すことさえ、ためらわないタイプのものなのは流し読みしただけでもわかることで、ここを問題にするくらいなら、もっと問題な部分がたくさんある(笑) あらゆる面で十全な翻訳というのはありえない以上、原文において何が大事かを見定めて訳す必要があるわけで、私の場合、ここではライム(韻)のほうを重視した、ということです。
ワイド君の態度は一見正確さを期しているようでいて、未熟さを露呈しています。難しい単語を使うのが格好よい気がして、深い意味もわからないのに使って失敗してしまう、というもので、これもどこかで聞いたような話です。
「描出話法」と解することで何か重要なことが明らかになっていれば文句はないんですがね。実際のワイド君の仮説を見てみましょう。
> その時推薦状の話題になり「奥様は料理人の推薦状をこう書いてくれますわ。この者の料理の腕前は確かである。特技:金槌 賞罰:前科なし」と調子に乗って女王は公爵に言ってしまったのだ。
こういう解釈は、謎を「解読」したことになるんだろうか? どうみても、ただ「ナンセンス」なだけですが。ワイド君が、これを実はノンセンス詩と見なしているのなら、つじつまが合いますけど。
私が変なとこを強調して論点をずらしていると思わないでもらいたいですね。
泳げないと言った、という部分は1855年のヴァージョンにはない、新たに書き加えられた箇所なんだから、ワイド君の仮定が正しければ、こういう部分でこそ筋の通った「意味」が現れて来なければおかしい。
「a good character」が前科のないことを連想させたり「the matter」が訴訟を連想させたとして、それが重要でしょうかね? 裁判シーンなんだから、むしろ当たり前なんじゃないですか? キャロルとしては『不思議の国』で詩を再利用するさいに、それなりにシチュエーションに合わせる必要があったわけですから。
キャロルがこの詩にパズルを仕組んだという、ワイド君の説の補強にはなりえません。
どうでもいい部分に「二重の意味」を見つけて喜ぶあたり、これも9章冒頭で新法則を発見したと思って有頂天になるアリスを思わせる。
なんだかキャロルが笑いの対象にした似非論理学を、ワイド君はひとりで引き受けてるみたいです。
「Him, and ourselves, and it」
のitを、望まれない不倫の子として「豚に似た赤ん坊」に比定するところや、
「Don't let him
know she liked them best,」
のthemをタルトと解釈するなどは、面白いと言えば面白いですが、しょせん仮説が正しいと前提した上で読まなければ、意味の生じない仮定に過ぎません
(itにそういう用法がありうることは最近のベストセラー『“it”と呼ばれた子』のタイトルだけ見てもわかることで〈こぼれ話〉1を苦労して読むまでもない。themを「彼ら」でなく「それら」と訳した前例もありますから、要するに仮説が正しくなければワイド君の話に見るべき創意はないことになります)。
>「学際的」という言葉は知っている似而非「知識人」は多いけれど、「学際的実践」をしている本物の「知識人」はいない
この一節が誰のことを言っているのか特定できません(少なくとも「学際的」などというインチキな用語が大嫌いで、まず使うことのない小生のことを指しているわけはないでしょう)が、文脈から判断すればワイド君自身は「学際的実践」をしている本物の「知識人」ということのようです。「学際的」などという言葉を持ち出す人に、本物の知識はないことを、小生も再確認しました。
私としては、ワイド君がご自分の得意分野に専心されることを望みたいですね。書道とかギリシャ語とか。そういう分野では嘘を書いても私はわかりませんし(笑)
でなければ、いっそミシェル・ド・ノートルダムの「謎詩」の解読に進まれるのもいいでしょう。驚くほど単純な「論理計算」と「意味論的解釈」の応用で、いろいろの解答が得られますよ。それを解くに値する「暗号」と見さえすれば。聖書の中から二千年間、誰も気づかなかった真実を探り出すことだってできる(笑)
そうすればサイトの読者も増えて信奉者も多くなり、ワイド君は「lonely」じゃなくなり、一石二鳥ですよ。
ただし、これはワイド君の翻訳によれば、「先決問題要求の虚偽/論点となっていることを真と仮定して論を進めること」に該当すると思われます。
なら、先にいっぺん自分のほうを疑ってみてからはじめたほうがいいとは思います。
「論理と詭弁」の実例集に関して言えば、ワイド君の文章より、よほどツッコミがいがありそうですが、私のサイトで扱いたい内容でもないので、特に意見は述べません。
私なら、こう訳すみたいな考えは浮かぶけれど、いい訳があれば教えて欲しいなんていうのは甘えでしょう。そんなことは執筆者にとって益があるだけで、読者にとっては時間の無駄です。誤りを指摘するだけなら、指摘する側にも多少の快感がありますが(笑)
ただひとつだけ、この訳のままではマズイというのを指摘しておくと、
"Of course you'd argue that positive discrimination is a bad thing. You're white."
「積極的差別はよくないことだと貴方は勿論おっしゃいますわよね。白人ですものね。」
positive discriminationが「積極的差別」とは! これまた中学生レヴェルの翻訳です。これでは読者に逆の意味にとられてしまう。というよりワイド君自身が、おそらく文意を誤解してるのでしょうが、「論理と詭弁」のオリジナルを書いた方の全体の論調を把握していれば、まず間違えるはずのない部分。英語力以前に、日本語として訳していておかしいと思うのがふつうだ。
もちろん誤訳自体は誰にもあることで、私も人のことは言えた義理でないけれど、日本の論理教育をうれえる方がこのありさまでは、本当にお先真っ暗ですね。(2003.4.)
追記。「描出話法」(Represented speech)についてはイェスペルセンの『文法の原理』邦訳が出版されたので、それを参照されたい(安藤貞雄訳。下巻、21章「直接話法と間接話法」)。 (2006.7.)