対極の人(The antipathies)
antipodesを間違えて言ったもの(発音は antipathies( と かなり似ている)。
antipodes の一般的な意味は「地球の反対側。正反対」。論理的には互いにそういう位置関係にある2地点をいう。古典的には、地球の裏側の大陸や、そこに住む人々を仮想してそう呼んだ。
19世紀以降(the)Antipodes がオーストラリア・ニュージーランドを指すことを考え合わせなければ、以降のアリスの独白は理解しづらい*。
この部分は何か奇矯な造語によって訳すのが通例になっていて、たいてい「対蹠(地」
(慣用読みではタイショ。蹠(が向かい合わせの土地)という漢語表現をもじるのだが、注釈なしでは通じない**。
antipathy「反感」自体は造語ではないのだから、訳文でも普通の語でシャレとわからせるべきだ。
宗方あゆむ訳(1992.)では「あべこべ」を「つべこべ」と言い間違え、
音(だけでなく原語の意味も反映させた名訳だが、
これでは今度は単語がやさし過ぎ、難しい言葉を使おうとして失敗したという本来の性格が出ない。
私は、ノンセンスの原則に反するようだが、音より意味を重視したほうが、読者に面白いのではないかと思う。
例えば単に「反対者」くらいの訳でもOK。
「地球の反対側の人」を言おうとして「意見の異なる人」を意味してしまったのだと、読者が悟ってくれるのが望ましい。
この取り違えに、この先アリスが出会う「なじめない」キャラクターたちへの予感をみる説は、うがち過ぎではあるが、
しかし antipodes から直ちに antipathies を連想するような(しかもそれを文字に定着してしまう)キャロルの心性というのは考えられる。
いずれにせよ、ここは哄笑を呼ぶ場面でなく、むしろ知的な感じのジョークだから、訳語も、そうあるべきだろう。
* 『不思議の国』が刊行された1865年、全フランスで人気を博していたジュール・ヴェルヌの『月世界旅行〔De la Terre a la Lune〕』にも巻末近く「対蹠地」の語が使われている。
W.J.ミラー〔Walter James Miller〕による『詳注版 月世界旅行〔The Annotated Jules Verne:From the Earth to the Moon〕』(1978.)の注釈は、そのまま『不思議の国』にも当てはまるだろう。
“地球探検の最後の偉大な時代であったヴェルヌの時代には、この「対蹠地」Antipodes という言葉に、人々は愛すべき異国的な響きを聞き取った。
この言葉は、「足が逆さまについた」という意味のギリシア語に由来していて、つまり「対蹠地」の住民たちは「我々に向いて足をつけている」人々ということになる。
一八〇〇年、英国の水夫たちは英国グリニッジからちょうど経度で百八十度 ― すなわち地球をちょうど半周 ― 行った地点、ニュージーランドの南東方向に、岩だらけの無人島の集まりを発見して、これに「アンティポディーズ」群島という名前をつけた。
ヴェルヌがこの文章を書いていた時分までには、地球の真反対側にあるオーストラリア領の地域を指すのに、この言葉がよく使われるようになっていた。
〔27章 注7。高山宏訳、東京図書、1981.→〈ちくま文庫〉1999.〕”
未知の大陸「対蹠地」への言及は、紀元前 6世紀のアナクシマンドロスあたりから、はじまっている。
もともとのギリシャ語では「対蹠地」を antipous といい、その住民「対蹠人」を antipodes と区別するらしいが、pous も「足」なら、-podes も pes「足」の転化という。
** 当初、拙注に“「対蹠人」という言葉に至っては『アリス』翻訳本以外に存在しないのではないか?”と疑問を呈していたが、読者の方から、例えばアウグスティヌスの『神の国 〔De Civitate Dei〕』にも「対蹠人」という言葉が使われている、というメールをいただいた。
そこでは“対蹠地”に人が住めるか、という古くからの問題が論じられているが、中世哲学の基礎を築いたこの古代の教父は、人間が逆さに歩いたり、大地の反対側に水が溜まるはずもなく、そんなところへ絶対に人は住めないだろうと考えていた〔16巻9章〕。
近代人キャロルは、こうしたアウグスティヌスにはじまる中世的な世界観を、ノンセンスの笑いに転化したのだと言えるかも知れない。
アウグスティヌスは ずっと時代が古いプリニウスの『博物誌』に対して反駁を試みたように思われるが、プリニウスのほうが、いわば引力の法則について、より“論理的”に考えていた。
理論的には地球の表面にくまなく人類が住んでおり、互いに足を向け合っている。〔中略〕彼らが踏んでいる土地はいずれの方向からも中心にあるわけだ。ところが、
一般の人々は問う。どうして反対側にいる人々は落ちないのかと。 反対側の人々がわれわれが落ちないことを いぶかるのは不合理だとでもいうように。
学問のない大衆にも受け入れられる中間説は、地球は松かさに似た不規則な球形をしているが、それでもまわり全部に人が住んでいる、というものだ。
だが、地球そのものが宙にぶら下っていて、われわれもろとも落下しないという いまひとつの不思議が起るとき、この説が何の役に立つであろうか。 〔2巻65章161。中野定雄・中野里美・中野美代訳『プリニウスの博物誌 I 』雄山閣、1986.〕
こうした思考は無論、ギリシャ哲学に由来する。例えばプラトンは『ティマイオス』で“宇宙の中心”に地球を想定して(それについては断定を避けているが)、次のように書いている。
もしも宇宙の中心に、何か均衡の取れた固体があるとすると、〔中略〕
もし誰かが、その中心の固体のまわりをぐるぐる歩くとすれば、そのひとは、何度も自分自身の対蹠点に立って、宇宙の同じ部分を、「下」と呼んだり「上」と呼んだりするでしょう。
つまり、宇宙の全体は、いま言われたように、球形なのですから、そのある場所を下と言い、ある場所を上と言うのは、分別ある者に出来ることではないのです。 〔63a。種山恭子訳、岩波書店、1975.〕
『博物誌』は地域による星座の見え方の違いから地球は球形と説明し、船の帆柱が海の向こうへ沈んでいく例から海面を平坦と考えたがる“大衆”を批判して見せた (水滴が球形であることから地球の海も球面を持つと説明したのは、表面張力と引力の問題を混同しているが、当時としては巧い理屈づけだ)。
プリニウスは地球を宇宙の中心と考えて疑わず、地球の物は水蒸気のように外へ広がる性質を持っているが、星々の力は中心たる地球へ集中し地上のものを押さえつけていると考えた。
もっとも、星は海から生まれると思っていたあたりが素朴な古代人だが、実際の「対蹠地」については“大地を取り巻く海があって大地を二分し、われわれから世界の半分を奪っている”から不可知である、とした。
このことは海洋への畏怖を感じさせる。
プリニウスより ひと世代上の地理学者ストラボンは、当時知られた世界のうち最も東方のインド族と西方のイベリア族を、ある意味でお互いが相手にとっての「対蹠人」である、と言っている〔1巻 1章13項。飯尾都人訳『ギリシア・ローマ世界地誌 I 』竜渓書舎、1994.〕。
ただ、一般に「対蹠人」の用例に、語釈の文章や別立ての注がつかないものは少なく、「頭が下部についている怪物」をそう呼んだ例もあるほどで、訳語として安定しているかに疑問が無いではない。
おそらく「対蹠地」「対蹠人」の問題に最も通じているのはヨーロッパの古地図を研究しているような人かと思うが、詳しい方があればご教示を請いたい。
改めて言うまでもなく、もともとの拙文の主旨は、難し過ぎる単語を翻訳に使うのは考えものだ、他の語を探す努力をしてみてもいいんじゃないか、という程度の意味だったが、
考え直してみると古い単語には、その言葉が背負う歴史が透けて見えやすいという利点もあって捨てがたい。
では、ここを「対蹠人」をもじった言葉で訳せば、一般読者がそういう含蓄を感じてくれるかといえば、それは望めないわけだが。
拙注後半部についても、サイトを読まれた方から次のようなメールをいただいた。
はじめまして。
突然のお便りですが、「対蹠」を「反感」と言い間違える部分は、アリスの予感というより、夢の中ですから、言い間違えてしまったばかりにそういう展開になっていってしまうという構成(と共にジョーク)なのではないでしょうか
そう考えるとアリスの言動がその後の成り行きを決定しているように見えるところがほかにもあるのです
夢ってなんかそんな風に部分的な脈絡でつながっていくところがあると思うので、キャロルもそのへんを計算したのではないでしょうか
それにしてもキャロルというのはどこまで考えても考え過ぎと言い切れない作家ですね
訳者(大西小生)の回答は次のとおり。
メールでのご指摘、ありがとうございます。
精緻な議論のためにまず少し弁解しますと、拙註の「予感」という
のは、作中人物アリスの予感ではなく、その取り違えが“読者に”
先の展開を予感させる、というくらいの意味で書きました。
文章がまずくて、申し訳ありません。
物語の構造を「言い間違えてしまったばかりにそういう展開になって
いってしまう」と“読む”ことは確かに可能ですし、隠喩のようなものと
してテクスト自体を批評する材料にすることは可能です。
その構成をキャロル自身の積極的意図と考えることは、拙註のように
キャロルの心性を何か暗いもののように捉える解釈よりも好ましい、
と言えるかも知れません。
ただ、私個人の意見としては、やはり少し うがち過ぎかと思います。
というのは例えば逆に、ここでアリスの発言がなければ、のちの展開が
変わっていたか、と言えば、そんなことはありえない、と思うんですね。
私も、7章はじめにアリスの発言がのちの展開を引き出すという註を
『コンピュータの向こうのアリスの国』から引用していますが、ここでは
アリスの言動がなければ、続く展開が変わってしまう可能性が大きい。
第1章の段階だとアリスの発語がどうあれ、アリスが奇妙な登場人物たち
に翻弄されつつ渡り合っていくという展開は、変わりようがない、いわば
既定の筋書きだったはずです。
antipodes→antipathiesの地口に、特に重要な契機があるかのように示唆
するのが“正しい”か、となると疑問が生じるゆえんです。
このシャレだけを取り出せば、この部分と、のちの物語の関係性は希薄で
まさに「夢判断」のような、連想上のつながりに過ぎません。
そこで、そういう先の展開を読者に匂わせるものとして、キャロルがこういう
地口を用いたかどうか、というレヴェルの問題になるかと思うのです。
またメールにある「アリスの言動がその後の成り行きを決定しているように
見えるところがほかにもある」というのが、どういう部分を指しているかに
よって、貴説の信憑性も変わって来るかと思います。〔下略〕
これに対し、折り返し次のようなレスをいただいた。
お返事のメール受け取りました
確かにおっしゃる通り、きっちりとそういう構成を取っているかという意味では別にそういうことはないと思います
ただ言い間違いのジョークはジョークとして、実際の夢の構造を連想させることをキャロルが気がついていて、本人もそれを面白く思っていたのではないかな、と思ったのです
ですから計算したという言い方はちょっとまずかったかもしれません
たとえばほかにどんなところが、というのも、「小さくなりたい」と思ったから、そうなる理由としての飲みものが現れるとか(現実の世界ではそんなの理由にはなりませんから)、アリスにとっては白ウサギは白ウサギ以外のなにものでもないので、名前も白ウサギだとか、axisからaxesを連想して(間違えたの公爵夫人ですが、アリスの夢の中の登場人物ですから)「首をはねよ」の女王につながっていくとか、ほかにもいろいろあるものの、それぞれは単なるナンセンスとか、ファンタジーのお約束事とか、お返事にもあった先を連想させる記述という捉え方のできるものなのですが、ただそれに加えて夢ならではの展開といったものはキャロルの意識の中にもあったのではないかなと思ったのです
ですがもちろんそれがまず設計図としてあったとは思いません
なにしろはじめは思いつきで語りつつ作っていったものですし
ただ登場人物も名前がまずあって、それに準じた性格で現れるというのも、アリスの中途半端な物知りを反映しているようで面白いと思うのです
おそらくもっと綿密な考察を期待していたと思われるのでまことに申し訳がないのですが、キャロルはそんなことも考えていたのかな、と思うとアリスがより面白く(僕には)感じられたので、感想をうかがってみたかったのです
ていねいなお返事をありがとうございました