あれもやりタシこれもやりタシ、ひとの気をヒク、心はカケル、そして最後にワラワレる
(Ambition,Distraction,Uglification,and Derision)
addition (たし算),subtraction (引き算),multipication (かけ算),dvision (割り算) の もじり。
拙訳は このくだりを人生の比喩として、それなりに意味がつらぬかれているとみる( Reeling and Writhing 「よろめき、のたうち回る」ことで始まる、というのも意味ありげに見えなくもない)。
中でも注意すべきなのは multiplication と Uglification が、あまり似てないことだろう。まるで意味のない駄ジャレであれば、もっと別の単語を使えたのではないか。
いや、Uglification という語が用いられたこと自体は、続く注にあげる美術批評家 ラスキン との関係から説明できるかも知れないが、
ここでは むしろ、あとの展開が重要で、アリスは beautify や prettier は知っていても Uglification 「醜化」 などは、まさに思いもよらないのである。
それはそうだろう。 アリスは偶像なのだから!
ここに少女を 「聖化」 するキャロルの意思を見ることは可能だろうが、それ以上に気になるのは、そのように醜くなることを知らないのは愚かだと糾弾してやまないグリフォンの存在(!)である。
なお、グリフォンは会話の中で、Uglification を、 uglifying → uglify と、やさしい言葉にすり換えていくのだが、そのあたりの呼吸も従来の 「……算」 「……算」 という型の訳では変形のしようがなく、日本語に移せなかった。
以上、述べたことは全くの私見だが、このくだりは従来、あまりに無頓着に訳されている。拙訳の出来はともかくとして、うわついた翻訳は避けたほうがよい部分と思う。
追記。 拙注 は2002年末のサイト開始当初から載せていたもの (2001年執筆) だが、
2004年の 《仁愛(大学研究紀要》 3号 所収の西村則昭 「 「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ ―あるストリート・ファッションをめぐる魂の現象学の試み―」 (23-37頁) に、興味ぶかい訳文が掲載された。
グリフォンは,両手の爪をあげて,おどろきました.「uglifying を きいたことがないなんて!」.彼はさけびました.「でも,beautify (美化する) ぐらいなら,知ってるよね」.
「えぇ」 と,アリスは自信なさそうにいいました.「それはね,つまり,なにかをかわいくすることよ」.
「それなら」 と,グリフォンは続けていいました.「uglify ってなにか,知らないっていうんだったら,きみは ほんとうにお子様 (simpleton) だね」.
simpleton を 「お子様」 と訳 したのは非常に巧いと思うが、ミスリーディングを誘うというか、やや我田引水の訳 でもある。
ここで 「醜化する」 というのは,意味のない,単なる言葉遊びであろうか.児童期の観点では そうかもしれない.
しかし 「思春期」 の観点からみると,そこにある 「意味」 が認められるであろう.
思春期に突入した,とくに感受性のするどい子は,心身の奥底からたちあらわれる 「性」 とか 「悪」 によって,「子どもの私」 が汚され,
突き崩されていくような感覚をもつ.「子どもの私」 の汚染,それが 「醜化する」 の意味としてたちあらわれる. 〔中略〕
ロリータ服が好きだといった,ある中学三年の女子は,恋愛には積極的な方であったが,性の交渉には反感をおぼえていた.
それで 「付き合い」 がうまくいかないことがよくあった.彼女は私に,「そういうこと,嫌いな女の子もいるでしょ!」 と,きっぱりいった.
そのとき傍らには女友達がおり,その子は彼女に,「そのうち嫌でなくなるって!」 と,わけ知り顔でいった.
しかし彼女は同意することなく,思いつめた頑なな表情のままだった.
アリスが、ロリータ系と呼ばれるファッションを好む女子の “偏愛するイメージのひとつ” だという前提での議論である。
西村 は京大出の臨床心理士で、実地 にスクール・カウンセラーも務めており、このあたりは論文中でも出色の部分ではあるのだが、
作品論ならキャロルの視点に徹して語るべきで、思春期の受け手の心理を語りたいなら、作品解釈とは明瞭に区別 して論じるべきだろう。
受容の問題と作品そのものの読解とを、西村は無理に混同 してしまっている。
もっとも、こういうレトリックは精神分析系のテクストにはありがちで、西村個人に限ったものではないが、
他の部分では キャロルについて “対人関係に不器用なこの男が,唯一,リラックスした時間をもてたのは,思春期前の少女たちといっしょにいるときだったという.”
などと、西村の論 にとって必要ないゴシップも書いている (実際のキャロルの日記からは、かなり社交的だったことが読み取れる)。
しかも、そう書いたすぐあとに “彼は思春期前の少女に 「異性」 としての魅力を感じるひとだったらしい.” とも書いているが、
魅力は感じていても かまわないと思うが、はっきり 「異性」 として意識 していれば、リラックスなどできないだろうに。
ちなみに、先の 「醜化」 についての引用部分の前段は、次のようなものだ。
〔マルキ・ド・サドを論じた Thomas Moore の〕『ダーク・エロス』 にはエピグラムとして,『不思議の国のアリス』 の一節が引用されている.
サドとアリス. 『アリス』 に,無害な 「児童向け」 の おとぎ話しか見ない 「大人」 には,まったくもって むすびつかない この両者.
しかし,「深み」 を見通す,魂の感性を多少とも もつひとならば,この両者,どこか深部でつながっているよう直感されなくもないだろう.
このエピグラムをみたとき私は,わが意を得たりと思った.
深いどころか、ありがちな、もっとも安っぽい 「解釈」 に感じる。
ありがちだからこそ、中学生の心理分析に応用も可能、と書くべきだろう。
ミシェル・フーコー流に言うなら、現代 は 「性的な言説こそが真実の言説だと見なされる」 時代だ。
もっと言えば、性的でなくとも、ネガティヴなイメージを持つものと からめて論じれば、「真実」 らしく見える。そういう心性を、たいてい誰もが持っている。『アリス』 に児童向けの お伽話しか見ないことが、さげすまれかねない時代だ。
私から見れば西村も、多くの論者と同様、その罠に はまっているに過ぎない。
しかしキャロルが、ここで simpleton という語を選択 したのは、simple の意味を生かしたものであることは確かだろう。
つまり、beautify や prettier は知っていても Uglification を知らないのは 「単純」 だ、という含みである。
私には逆説的に、大人 (キャロル) の視点から見た子どもの 「単純」 さへの憧れが、ここに示されているように感じられるが、これは私流の 「解釈」 なので、どう捉えるかは読者次第である。
(最終更新 2016年 2月11日)