それでなんとなく決めこんでたんだ、イギリスなら、どこの海岸へ行ったって、着替え用の馬車が いくつも海につっこみ、子どもたちは木のスコップで砂をほってるし、貸しロッジがずらりとならんでて、その裏手には鉄道の駅があるもんだって。
（ and had come to the general conclusion that，wherever you go to on the English coast，you find a number of bathing-machines in the sea，some children digging in the sand with wooden spades，then a row of lodging-houses，and behind them a railway-station. ）
bathing machine は、直訳で 「水浴機械」 などとも訳されている。
ヴィクトリア時代の絵葉書などには多く見られるようだが、注の多くついた日本語の訳書が 写真やイラスト入りで紹介しないのは不親切だ。
こういう場合は、まず 『Google』 で 「イメージ検索」。
最近は Wikipedia にも項目が出来ている （英語版）。
唯一、イラストの入っているのが、1990年の 柳瀬尚紀 によるリライト （集英社〈少年少女世界名作の森〉） だった。
その注釈は柳瀬氏でなく編集部で作成したものだが、それによると “ヨーロッパに はじめて海水浴場ができたのは、一八世紀のなかごろ” で、 “海水浴専用馬車は、個人用の小さなロッカールームのようなもの” とある。
着替えている間 に、馬が更衣室ごと浅瀬 に運んでくれるというわけだ。
山形浩生の訳注、“むかしは水着になったところが見えるとイヤラシイとみんな思ってたから、タンクみたいなものに入って、それでそれごと海に入れてもらった” というのは、誤解 しているのだろう。タンクごと、というのも妙だが、着替えの場所であって、水着姿を隠すためのものではない。
キャロル協会員・宮垣弘氏のサイト 『不思議の国より不思議な国のアリス』−「＊４a アリスは泳げたか？」 には貴重なイラストを含めた紹介がある。
木のスコップは当時の海辺で、ふつうに見られるものだった。
関矢悦子は『シャーロック・ホームズと見る ヴィクトリア朝英国の食卓と生活』（原書房、2014.）に、
R・ジェフリーズ〔Richard Jefferies，1848-1887.〕『オープン・エア〔The Open Air〕』（1885.）の一節を引用する。
ママは娘やおちびさんたちと水浴びをするために浜に下りて行く。〔中略〕
（子供たちの）木製のスコップは大忙しだ。ときにはかれらはそのスコップで頭の叩きっこをする。ときには海水の入ったバケツを妹の上っぱりめがけて からにする〔220頁〕
〔Mamma goes down to bathe with her daughters and the little ones；〔……〕
wooden spades are busy；sometimes they knock each other on the head with them，sometimes they empty pails of sea-water on a sister's frock.〕
また、関矢氏の著書には《ロンドン・マガジン》1900年7月号から“海辺で木製のスコップとバケツで遊ぶ子供”の写真が掲載されている〔図版105。221頁〕。
seaside が 「避暑地」 であることは前の注で触れたが、キャロルの時代には、海辺でのリゾートは、すでに有閑階級だけのものとは言えない。
角山栄・川北稔 編 『路地裏の大英帝国 ―イギリス都市生活史』（平凡社、1982.→〈平凡社ライブラリー〉、2001.） 8章 「リゾート都市とレジャー」 には以下のようにある。
最上の衣服を身につけ、楽隊を先頭にした労働者とその家族は、一八四〇年代の夏のランカシャー鉄道路線における ありふれた光景になった。
一八四八年八月には、遊覧列車がブラックバーンから西海岸の有名な海水浴場ブラックプールに一二〇〇人の人を運んだ。多くは海水浴場をまだ見たことがない人びとであった。
「料金は往復一シリング、最悪の環境にあるものには切符は与えられるかあるいは割引き料金で売られた。 〔下略〕」
鉄道網の発達による大量輸送が、時代を変えたのである。海水浴場の近くには必ず 「鉄道の駅」 があった。
そこにあったのは 「家族の休日」 であった。海水浴場を埋めつくしたのは、子供たちを自分の手で養育している人びとであった。
むしろ海水浴場の主役は子供たちであったのかもしれない。
こうした海辺の活気ある光景は、キャロルの心象に何らかの影響を与えずにはいなかったろう。
ノンセンス詩 『スナーク狩り』 第 2発 〔Fit TH E Second 〕 に、キャロルは、正体不明の怪物スナークが、この水浴機を大のお気に入りで、いつでも それを引き回している、と書いている。
その記述からは、キャロル自身は水浴機を、海浜の美観を損なうものと考えていたことも読み取れる。
河合祥一郎 編集の 『スナーク狩り』（高橋康也訳。新書館、2007.） 33頁 には、《Punch》 から 「海水浴更衣車」 のイラストを載せている。
その説明 によると、この 「可動式更衣室」 というのは “床は湿り、海藻の匂いがし、いい思い出を持つ人は少ない。
ギルバート＆サリヴァンのオペレッタ 『アイオランシー』 などにも海水浴用更衣車への言及がある” とのこと。
下のイラストは、アルベール・ロビダ 『20世紀』（朝比奈弘治訳。朝日出版社、2007.） 第 3部 VI （430頁） に登場する 「自家用更衣室」。
未来予測 SF なので、快適そうな進化した姿で描かれている。
ロビダの作は 『開巻驚奇 第二十世紀未来誌』 として、明治16年 に早くも邦訳が出ている。
原書 も 1883（明治16）年発行。実際の出版 は 1882年末だったらしく、翻訳までのタイムラグが たった 1年であることに驚かされる。
（最終更新 2015年 3月 9日）