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当サイトは週 1回の更新を基本にしているが (アリス関係は大部分、過去に思いついたものを、改めて考え直して書いているに過ぎない)、研究の中心は 永代静雄 のほうへ移したいというのは年頭、トップページにも書いたとおり。 だが、永代というのは、一般的に言って 「無名」 の人物なだけに、いざ調べてみると、謎だらけだ。 その謎のひとつが、無名時代の吉川英治との交際である。 先週、吉川英治記念館の学芸員の方とメールのやり取りをしたのだが、その結果が、 『草思堂から』 というブログ (草思堂、は吉川英治の号。英治が青梅市の旧宅につけた呼び名でもあり、現在、邸内に吉川英治記念館が建っている) に掲載された。 別に内容的に行き違いというほどのものは無いのだが、こうして書かれてみると、やはり立場の違いというのは避けられないな、と感じる。
晩年の岡田美知代が、「吉川英治に障子貼りをしてもらったことがある」と述懐しているが、永代静雄・岡田美知代夫妻と吉川英治との間には、どのようなつながりがあったのだろうか?
「吉川英治は川柳も作っていたのよ」と聞いたことがある。また、「吉川英治には障子貼りをしてもらったことがあるのよ」と、話されたことがあった。 美知代の夫、永代静雄氏が東京毎夕新聞の編集局長の時代、吉川英治先生も毎夕新聞にお勤めだったそうである。 私は、それを聞いたとき、天下の吉川英治先生にも、そんな時代があったのかと、大変驚いた記憶がある。そして、そんな吉川英治を、若き日の秀吉と同じだなと思ったりした。 しかし、永代静雄は大正 9年には毎夕新聞を退社しています (「蒲団」関係の文献には大正 8年退社とありますが、これは不正確)。 これに対し吉川英治は、ご承知の通り、「自筆年譜」に依ると大正11年入社です。
それと川上三太郎の正確な入社時期が、大正 9年の何月か、お解りにならないでしょうか。 こちらは、美知代自身の文章や、田山花袋の小説 「蒲団」 に関した論文を、ある程度、読みこんだうえで、美知代が 「障子貼りを してもらった」 とまで言うからには吉川英治との関係そのものは疑えない、という前提から出発している。 私からすれば、原博巳氏が 「川上三太郎」 というマイナーな存在について聞き知っていたという時点で、永代夫妻と吉川英治の関係は、証明されたようなものだ。
> 特に≪障子貼り≫の件に関しては、謎です。 もちろん、記念館の学芸員として、積極的に情報を発信されている方が書いてしまえば、いわば公式に認めた形になりかねないから、不用意には書けないことだが。 私はもともと、吉川 は永代邸を 1、2度、訪問した程度だろうな、というふうに考えていた。 片岡氏のブログには触れてないが、永代は毎夕新聞社の元理事 兼 社会部長、新聞編輯長。同僚とは言っても、川上三太郎は 永代に命令される立場だった。 想像力を駆使するまでもなく、吉川英治は、たぶん新入社員のころ、川上三太郎か誰かに連れられて永代邸を挨拶回りにでも伺った、という可能性がいちばん高いのだ。 永代夫妻と吉川英治のつながりが、どの程度のものかを気にしていたのは、どちらかと言えば片岡氏のほうで、吉川英治と安成二郎の関係に注目したのも片岡氏である。 吉川英治が、その名を高からしめた 『鳴門秘帖』 を 〈大阪毎日〉 に連載中、安成二郎が担当したという話を片岡氏から聞いて、 これは案外、永代から新聞記者仲間に吉川の名前が広まって新聞連載に結びついた可能性もあるかもな、などと、あとから考えてメールしたりしたが、この仮説は、まぁ成立しがたい。 安成二郎を通さずとも、毎夕退社後、新聞研究所を主宰した永代には、人脈的に それが可能だが、積極的に売りこんだのなら誰かの証言が残るだろうし、消極的に噂話のレヴェルで広めたなら、まずもって証明できまい。 原博巳氏の書いた論文は、「蒲団」 を研究している人にとっては、基本文献といっていいが、さて読もうとすると、広島県外では国会図書館か近代文学館くらいにしか所蔵がないから、あまり知られてない。ここで紹介することには意義があるだろう (吉川英治については余談のようなもので、他にも美知代に関して重要な指摘が いろいろなされている)。 逆に言えば、田山花袋の研究者には、吉川英治のエピソードも知られていたわけだが、おそらくは毎夕新聞への入社時期がネックとなって、今まで深く考えられることが無かったと思われる。
ただ、英治の親友の川柳家・川上三太郎が、英治より前に東京毎夕新聞社に勤務しており、数ヶ月ですが永代と同僚だったことがあるので、そこに糸があるかもしれません。 それに、こうした小発見を公開することで、川上三太郎 (川柳の歴史にあってはキー・パーソンと言える) に詳しい人から、何かの情報が得られないとも限らない。 ちなみに永代の正確な退社時期については、わざわざ東大の情報学環まで足を運んで確認した。
作家と女弟子とその恋人の関係を描いたこの作品は、実際の田山花袋自身の女弟子とその恋人との関係をモデルにしています。 その女弟子が岡田美知代、その恋人が永代静雄です。 2人は仲を裂かれたり、結婚したり、離婚したり、よりを戻したりという関係でしたが、最終的には破局しています。 美知代は形式上、田山花袋の養女となることで永代と事実上の婚姻生活を送っていたから、いったん別れたといっても正確には 「離婚」 と呼べない。 もっとも、これは片岡氏の誤解でなく、こういうふうに書いている概説に従ったまでだろう。Wikipedia の永代の項にも、そう書いてある。 二人は離れたり、くっついたりを繰り返したに違いないんだから、本質的な間違いとも言えないが、正式に永代の籍に入ってからの美知代と永代は、基本的に争ってない (これは 『解題「女皇クレオパトラ」』 を執筆中、美知代のエッセイなどを整理していて、偶然に気づいた事実だ。 本当のところ、大正期の美知代の雑多な作品を年代順にキッチリ整理した人は、まだ存在しない。 ひとつには大半が生活費稼ぎの “雑文” のようなものだから、データベース化したところで 「文学史」 に貢献すると一見、思えないので精力を傾ける研究者がないためだが、有りていに言って作品を入手すること自体も、困難なのだ)。
もともと、永代の 「奇想小説」(主として大正期に書かれた) の可笑しさに惹かれた小生としては、明治期の 「蒲団」 に関する恋愛事件そのものは、どうでもよかったんだが、 世間に誤解の多いことを感じる機会が増えるにつれ、だんだん放って置けない気持ちになって来た。 アリスの注釈が一段落したら、小説「蒲団」 に関してだけは、一般読者向けに連載で詳述しようかと思う。 この作業も、いったん始めるとなると、3ヵ月やそこらでは終わるはずもないんで、あんまりヴォランティアとしては やりたくないんだが(笑) このサイト自体も漸次更新するものから長期間残すことを前提としたものに改造中だが、「蒲団」 の解説も、少なくとも10年以上は残せるものにしなければ、やる意味もない。 印刷した研究誌のほうは、別に残したくなくたって、残ってしまうんだけどね(笑) 〔2007年3月11日〕 → このコメントについて、『草思堂から』 の記事 (3/14) で、フォローしていただいた。 ありがとうございます。
谷孫六は吉川英治を東京毎夕新聞に推薦した人物だが、もともと永代静雄に認められて大正2年、毎夕新聞に入った (ブログ『定斎屋の藪入り』を参照のこと)。 その谷は毎夕で出世して、大正10年には副社長兼支配人になっている。 なお、谷孫六とは『草思堂から』 の2007年3月14日の記事でも指摘されていた、矢野錦浪と同一人物である。 また、難波英夫『一社会運動家の回想』によれば、永代は難波を毎夕新聞に誘っており(その回想によれば、難波が毎夕で編集局長を つとめたのは大正15年。ユクノキ氏の『雀隠れ日記』参照)、 永代が退社後も ずっと毎夕と太いパイプを保っていたことが分かる。 これらの例から考えて、永代が退社後に新米の吉川英治に障子貼りをしてもらったことは不自然ではない、と言えるだろう。 〔2014年 7月 9日/12日〕 〔→ Home に 戻る〕 〔→ 研究余禄 index へ〕 〔→田山花袋記念文学館訪問のページへ〕 |