2007 永代静雄研究余録 (5)

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 前回の永代静雄余録で、永代と島村抱月一派のつながりに多少、言及したけれども、つい最近、実は 岡田美知代から 「カチューシャの歌」 の作曲家・中山晋平 に宛てた手紙がスポットライトを浴びている。
 といっても現在のところは研究者など一部に注目されているのみで、Web上には この程度のデータしかない。

    「カチューシャの歌」「ゴンドラの歌」「てるてる坊主」 などで知られる大正〜昭和時代の作曲家・中山晋平(なかやましんぺい) が 田山花袋(たやまかたい) の弟子・岡田美知代から受け取った手紙が晋平の親族宅で発見された。  明治四十年(1907)十月二十五日付の便せん 2枚で、師の小説 『蒲団』 を評価する内容だという。 [信濃毎日新聞]
soap bubbles
 中山晋平と言えば国民的作曲家のひとりで、“シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ” とか “黄金むしは金持ちだ” とか、“證城寺の庭は” といった野口雨情の詩につけられた曲は、今も、誰ひとり知らない者は無い。
 抱月・須摩子の芸術座の公演で歌われた 「カチューシャの歌」 は、その中山晋平の処女作だ。
 明治40年と言えば、晋平は抱月の家で書生をしていて、まだ東京音楽学校にも入学していない。もちろん、全く無名の時代である。
 美知代から晋平への手紙は、厳密には “再発見” された、というべきだろう。 晋平の養子であった故・中山卯郎(うろう)氏の作った年譜には、晋平と美知代に文通があったことを記していたのだが、晋平の研究者にしか知られず埋もれていたのを、 晋平の地元、長野県在住の児童文学者・和田登氏が発掘、手紙の現物を確認して、群馬の田山花袋記念文学館などと連絡を取り、研究を進めたのである。
 和田氏は童話作家として長いキャリアが持っているが、近年は晋平研究の第一人者であると言っていい。
 十数年前、晋平の子ども向けの伝記を “郷土出版社” から刊行したことがあるが、一昨年は初めて大人向けの 『小説中山晋平』 を出し、 昨年は、戦後 サトウハチローが詞を書き 晋平が作曲しながら全く忘却された 「憲法音頭」 についての著書を出している (これは晋平の研究書というより、憲法問題の本だが)。
 脚本を担当した映画 「中山晋平物語」 は、この 5月29日、長野市で完成披露会が行われたばかり。 この映画は (有)長野映研が撮影を手掛け、長野市松代町出身の松井須磨子を 同市の声楽家・宮川有美さんが演じたという、ご当地映画だ。 今年は、晋平生誕 120周年に当たるらしい。
 〈信濃毎日新聞〉 では、4月から和田登氏の評伝 「唄の旅人 中山晋平」 を連載中だ。
 その第 1部 「一通の手紙」 に、美知代と晋平の手紙のやり取りが、描かれている。
 ただ、やり取りといっても、美知代の手紙は “殆(ほとん)ど三年越しの御無沙汰(ごぶさた)” という書き出しで、晋平と特別に親しかったわけでは無い。
 “抱月先生に師事遊ばされた”というような晋平の動向を、信州中野出身の文学少年で、晋平の幼なじみだった新木徳貞(あらき とくさだ) から聞いていたことが、文面から解る。
 新木徳貞は、ちょうど美知代が花袋に入門した明治37年に信州で 《精華》 という同人誌をやっていた。 これはすぐに廃刊となり、新木は早稲田に入学する。
 永代静雄も、神戸へ出る明治35年末まで、郷里の播州吉川(よかわ)で 《千代の誉(ちよの ほまれ)》 という同人誌を編集していたが、その頃は地方文壇隆盛の時代で、日本各地でそういった同人誌が生まれては、消えていた。 余談だが、この 《千代の誉》 には東洋大学創立者・井上円了 が毎号、寄稿していたらしい。
 現在では地方文芸誌というのは、その土地の同人以外の作品は、まず載らないものだが、明治末には地方文士のネットワークのようなものがあり、日本各地から寄稿があった。 新木徳貞と美知代が知り合ったのは地方誌なのか、中央の投稿雑誌なのか、未だ不明だが、このあたりも花袋記念館の方が現在、調査中と思う。 新木のように中央文壇に知られず埋もれる人は多いわけだが、逆に言うと、そこそこ文名のあがる人物は、たいてい誰もが若い頃から、こういう活動に関わっているから、文士がお互い無名の時代に知り合っていた例というのは、案外、珍しくないのである。
 晋平宛の手紙で目を引くのは、美知代が花袋文学のお薦め作品を “何と言っても新作 『ふとん』 でせう” と、自分がモデルとなったことには触れず、語っている点だ。
 「蒲団」 は明治40年 9月の 《新小説》 に載ったばかりだが、美知代自身は、この小説の元になった事件で永代との仲を裂かれ、まだ広島に居るのだから、自身がモデルの小説を 晋平に推薦する態度には、驚かされる。
 これには、いろいろ理由が考えられよう。まだ 「蒲団」が出てから日も浅く、自分は広島に こもっているため、外部の好奇の目からは守られており、心理的余裕を持てたのかも知れない。
 一方で、10月末なら、発表直後の 「蒲団」 が各誌で好評を得たことも知っているはずだから、師である花袋への信頼と、モデルとなった自分への自負が回復したのかも知れない。
 新木徳貞や中山晋平は 文学修行における後輩、くらいに美知代は考えていたはずだから、多少強がって見せる面もあるだろう。
 美知代の視点で見た場合に、「蒲団」 という小説には嘘が多かったが、おそらく美知代は これを、小説はフィクションで事実と本来、関わりが無い、と思い込む理由にした。 美知代は晩年に至るまで、花袋を “イエス様の次に偉い人” と呼び、“すべては先生の芸術のため” と語っていたが、 この感覚は、やはり明治40年10月、《新潮》 に美知代が “横山よし子”名義 (「蒲団」のヒロインの名) で書いた文章と、びっくりするくらい一貫性がある。  この文章で、美知代は、姉妹とも思った友人から絶交状を送られたりしたが、泣いて怨めしく思ってみても、これは “芸術” だから仕方がない、“花袋先生を不徳義呼はりして” 事実を雑誌に書くと手紙をくれた親友もあったが、“それは私の本意ではないから” どうかよしてくれと頼んだといい、花袋自身としか見えない小説の主人公の告白については “馬鹿々々しい、そんな事があって堪るものですか” と一蹴している。 “花袋先生は聞えた真面目な正しい方で、斯う申しては失礼ですけども、今の文壇には まれに見る御人格です。” と、なんと花袋のほうを弁護したのだ (「『蒲団』について」)。
 その信頼は、一時、花袋が芸妓遊びを頻繁にするようになった頃には ゆらぎ、花袋を批判した小説を書くことにもなるのだが、このことも裏返せば、美知代が かなり純情な視点で花袋を見ていたことを証明するものだ。
 その後、美知代が 「蒲団」 の内容に反駁した文章が いくつか存在するが、よく読めば その批判の対象は、永代静雄が悪しざまに書かれたこと、永代と美知代との間に、あたかも最初から肉体関係があったように書かれたことが事実に反するというに過ぎない。
 そういう美知代の、男性に対する “奥ゆかしさ” と、単純過ぎると感じられる、一徹な文学という “芸術”への信仰が、後世には理解しがたく、却って憶測を生むはめになるのである (最近も、美知代は自分がモデルであることに気づかなかった、などという奇抜な 「蒲団」 論があったようだが)。

 さて、晋平宛の手紙発掘の報を知らされた花袋記念館では、所蔵の書簡を調べ、晋平から美知代に宛てた最初の手紙も残されていることを発見した。これは文字通りの、新発見だ。
 なぜ収蔵されている書簡について今まで解らなかったかと言えば、中山晋平が 「中山かへで」 というペンネームを用いていたので、女性からのファン・レターと思われていたためらしい。こういう盲点は、まだまだあると思う。  自省も込めて言うのだが、美知代や永代は文学的に大した業績を残さなかっただけに、活躍の幅や人脈についても、せいぜい この程度だろうという予断が生じ、全体像を見えなくさせてしまっているのだ。
 今後、和田登氏の連載では、晋平と新木徳貞とのつながりや、晋平と抱月とのドラマが語られるだろうし、花袋記念館の学芸員の方も、研究を まとめられるだろう
 先週は、中野市の中山晋平記念館や、群馬の花袋記念館との電話やメールのやり取りで費やされ、ほとんど他のことをする余裕が無かった。
 生活のための仕事が無ければ、小生自身の研究も進むのだが。
 ともあれ、島村抱月と永代との関係は、安成貞雄・二郎兄弟を通じた形でしか考えてなかったのが、新たに、美知代 → 晋平 → 抱月、という視角が加わった。 永代の友人は、たいてい美知代とも親しくなっていることが解っているが、その逆のパターンもまた真、と言うことができるのかも知れない。    〔6月18日〕

     《田山花袋記念文学館研究紀要》第20号(2007.3.) に 「中山晋平の岡田美知代宛書簡について」 は載っているが、 その後も晋平や新木徳貞と美知代のつながりについては研究しておられたようだ。
    後注。 和田登著 『唄の旅人 中山晋平』(岩波書店、2010年2月刊)に〈信濃毎日新聞〉の連載 は まとめられた。

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