2014 永代静雄入門 (3)

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 明治38年、田山花袋の弟子・岡田美知代と恋愛関係に陥った永代静雄は、同志社の学生の身分を捨て、京都から東京へのぼることとなる。
 この情熱的な行動は、いかにも無軌道に見える。
 上京の理由は果たして恋愛感情だけだったのか? 美知代は後年、手記で次のように書いている。
    永代は上京以前、先生から同情のお手紙を頂き大いに感激しました。勿論それだけが上京の動機の全部ではないが、少くとも動機の最大な因(もと)ともなった。 それはいなみ得ないと思います。自然 先生としても むげに あの際、京都に追い返すわけにも行かなかったし、温情なる恋の保護者たらん事を私達二人に、一旦誓われた言葉もあり、私を訪ねて先生お宅に来る彼を、来るなと命じる程、先生を怒らす馬鹿な彼でもなかった。 〔《みどり》一巻五号(學燈社、昭和33年10月1日発行)所収「手記 私は「蒲団」のモデルだった」〕
 永代の盟友である中山三郎の「花袋氏の作『蒲団』に現はれたる事実」(《新声》明治40年10月1日)という文章にも「恋の保護者なり」という手紙が花袋から送られたことが書かれており、田中純の回想によれば永代自身も、花袋がそういう意味の事を言ったと語っている(『文壇恋愛史』新潮社、昭和30年)。
 内心、花袋としては、かなり迷惑だっただろうが、「保護者」となると約束したのは事実のようだ。しかし、花袋は永代を弟子にもしなかったし、就職の世話をしたわけでもなかった。ただ、美知代の「手記 花袋の「蒲団」と私」(《婦人朝日》一三巻七号・通巻一五〇号、昭和33年7月1日)によると、花袋は“安翻訳の周旋でもして貰えるやうに”紹介状を書こう、と約束したらしいのだが、“如何(どう)した訳か、先生からの紹介状は中々書いても頂けなかった”という。 少なくとも花袋の勤める博文館から永代が仕事を受けた形跡は皆無であるし、その頃、花袋の“教示”で永代が國木田獨歩(くにきだ どっぽ)を訪問した事は書簡から明らかだが、これが就職の斡旋だったかどうかも分からない。 現在ならともかく、当時は紹介状 1枚書けば、けっこうなんとかなる時代だったのだが。実際、花袋は前田晁(あきら)や白石實三(じつぞう)に対しては便宜を図っている。そんなに永代と才能に差があったとも思えないのだが。
 さて、永代と花袋の最初の会見の様子を、美知代は「花袋の「蒲団」と私」で次のように再現している。
    『その事に就いて、まだお礼の御挨拶も申しませんでしたが、先日過分な御手紙を頂きまして、何たる光栄ぞと唯々感泣あるのみで、其上に先生御自身深夜の街のポストに御投函の事を拝見しまして、実(まこと)に感激に堪へません』
    『し、し、併し君、き、き、君のその感激は兎も角だね、君の今度の上京の動機に、何等関係があった訳ではありますまい』
    『……動機は他(ほか)にもありました。併し先生に対する感謝と感激が、その動機に関連した最大なるものだったとも云ひ得ます』
    『……それで君は、東京に出て来て、一体如何(どう)しようと云ふのです?』
    『文学をやり度いと思ひます』
    『文学? 併し君には宗教家たらんとする確乎たる志望が有ったぢゃないですか』
    『先生、私は今その確乎たる最初の志望をなくした。基督(キリスト)教会に於ける異端者です』
    『それは又何故ですか、君のあの、既成宗教に対する新人の悩みなるものも、美知代宛の手紙を読んで知ってます。だが、それ位で確乎たる最初の志望を、捨て去る程の事もあるまいぢゃないですか』
    『処が先生基督教の根本たる三位一体に疑問を持った今の私としては、絶対に駄目なんです』
 花袋は興奮した時など、どもる癖があったようだ。
 美知代は「蒲団」作中の田中秀夫の描写(特に話しぶり)と比較させるために、これを書いている。50年前の事件であり、ここに書かれているのが事実そのままだったかどうかは疑問符が置かれるだろうが、“既成宗教に対する新人の悩み”といった箇所は、同時代資料からも類推することができ、むしろ美知代の記憶の良さに感心させられる。
 この美知代の回想によると、永代の上京は 10月6日。この日の朝に電報が届いたという。美知代の手元には当時の資料など無かったはずだが、田山家に残っていた書簡から上京の日は 10月3日以後、10日以前と特定でき、おそらく美知代の記憶は正確だろう。その記憶力には驚かざるを得ない。
 美知代は、“秀夫は神戸教会から送られた特殊保助生で、将来牧師たらん志望を抱いて神学部に籍を置き、感話に説教に、時々副牧師代理位はつとめた青年だと云ふ”とも書いているが、前回までの話で述べたように永代は“神学部”の学生では無かった。 また、神戸教会から給付金を受けていた形跡は無い。同志社の学資は「神戸YMCA中興の祖」と呼ばれている村松吉太郎という貿易商(「蒲団」作中では神津(かうつ)と名付けられている)が面倒を見ていたようだが、これは私的援助だろう。
 神戸教会から直接援助を受けて同志社神学校に通ったのは岸田美郎(よしろう)という教会の伝道師だった人物で、当時の〈教会月報〉を見ると毎月“岸田氏手当”が計上されている。 前回「ウィキペディアの永代静雄」でも書いたとおり、岸田吟香の甥、正確に言うと吟香の弟で岡山の実家を継いだ助三(すけぞう)の四男だった。 38年6月30日に同志社の全科を卒業し、帰神したが、9月4日にはアメリカへ留学するため神戸を発つ。
 〈教会月報〉七〇号(38年10月10日発行)によれば、9月10日、神戸教会不究館で評議員会が開かれ、岸田卒業後の“神学生候補者”に永代静雄が選定された。
 つまり、永代が素直に牧師をこころざし、同志社の神学生になっていれば、教会から給付金が得られたはずであるが、これを蹴って、いきなり上京したわけである。
 広島の上下町に帰省していた美知代は、この 9月10日、神戸の兄・實麿(じつまろ)の家を発つ。そして上京の途次、永代と膳所などで旅行して問題となることは、これまでにも書いた。
 永代のキリスト教への疑念は、美知代との恋愛が理由となった事は充分、考えられるが、それより前、岸田美郎が同志社を卒業したことで、自らが神職を選ぶか否か、現実的に考えなければならなくなった結果、引き起こされたと思われる。 もちろん、こうした事情は美知代も花袋も知りはしないから「蒲団」には描かれてない。しかし、このことは永代の心理を追う上で、かなり重要ではあるまいか。 永代は、もともと“普通校へ入学の志望”で同志社に入った(〈教会月報〉四六号、36年9月10日)。おそらく、神学校に籍を置く事には、最初から躊躇があったわけだ。
 永代としては内心の疑問を押し隠し、教会から学資を得て、そ知らぬ顔で同志社を卒業する事もできたはずだが、それは良心が許さなかったのだろう。
 花袋が美知代の父母に宛てた手紙など読めば、確かに当初は永代と美知代の「恋の保護者」たらんと務めていたように見えるが、その内容は、永代があと数年、同志社に学び、そののち美知代との結婚を考えてくれれば良かったというようなものだ。これは良識的な大人の見解と言える(のちには永代を悪く書くようになるのだが)。
 しかし永代にとって同志社に卒業まで籍を置くという事は、牧師になる以外の道を放棄するというに等しかった。
 永代は自らの意志を教会の関係者に打ち明けたらしい。美知代の「花袋の「蒲団」と私」によると、“教会の会員(メンバア)から、そして個人的知り合ひの信者から、思ひも掛けない餞別を貰った”という(“半年か五ヵ月”くらいの生活費に相当したとか)
 ところで、花袋の「保護」を受けられるという希望以外の“上京の動機”とは、どんなものがあったのだろうか?
 その点は拙著『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』を読んでもらいたいのだが、明治38年7月、永代は関西学院で開かれたYMCAの夏期学校で、早稲田の教師・内ヶ崎作三郎(うちがさき さくさぶろう)と初めて対面している。 内ヶ崎と言えば、永代に『不思議の国のアリス』の原書を貸した人物だ。
 この夏期学校は永代と美知代が親しくなる きっかけになったことでも重要なのだが、岸田美郎も もちろん参加しているし、他にも例えば辻忠良という早稲田の哲学科の学生が参加している。 この人は、のちに牧師となるが、まずは無名の人物と言っていいだろう。佐藤緑葉は、辻から永代を紹介された。内ヶ崎は当時、弓町(ゆみちょう)本郷教会で活躍しており、辻もその教会に属している。 内ヶ崎が編集にたずさわった教会の機関誌《新人》には、永代も小説「闇の光」を寄せるなどした(明治38年12月)。
 キリスト教の教義に疑問を抱いた永代だが、上京後も教会の人脈に頼って生きていかざるを得なかったのは確かだ。
 永代は早稲田の予科に入ったものの学資が続かず、また皮膚病などをわずらって、半年ほどで早稲田を除籍となる(在籍 39年4月10日〜10月29日)。
 草津温泉で療養した永代は、明治40年2〜3月、前橋の群馬新聞で活動。5〜6月には群馬各地の教会で公娼反対・矯風演説の弁士を務める。
 この時期、永代は前橋の上毛孤児院(現上毛愛隣社)に関わり、信仰心を取り戻したのである。 永代は留岡幸助の雑誌《人道》二六号(40年6月5日)に、匿名の“SN生”で同孤児院の概観を紹介している。 もっとも、《新声》一七編三号(同年9月1日)所載の「五人の心」を読むと、孤児院と関わりつつ、キリスト教徒以外とも広く交際していた事がうかがえる。
 『伊香保みやげ』(伊香保書院、大正8年)収録の「小さな想出(おもひで)」によれば、この時代、永代は黒龍会の内田良平や、 社会運動家の木下尚江(なおえ)とも接触しており、群馬放浪も単なる都落ちではなかったと言えそうだ。 こうした事は早稲田時代についても言えて、永代は予科に短期間、籍を置いただけなのにも関わらず、佐藤緑葉、若山牧水、安成貞雄(やすなり さだお)といった親しい友を得ている。
 美知代に宛てて、“秋より同志社神学生となるべし。”と同志社復学の希望を述べた書簡を出したのは 40年7月のこと。前橋教会で送別会を開いてもらい、神戸に向かった。
 しかし、同志社に戻る事はできなかった。同年9月1日発行の《新小説》に「蒲団」が掲載されるが、これ以前に復学の話が壊れていたかどうかは分からない。
 「蒲団」が果たして どの程度、読まれていたかにも疑問はあるのだが、少なくとも永代の周辺人物には読まれており、この小説が広まる事により、美知代の処女を奪ったと書かれた永代は教会の中にも身の置き所を無くした、とは考えられる。

 以上のような話は、大部分『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』に書いたままでしかないので、以下は永代の神戸教会の先輩、岸田美郎の話をしよう。 脱線のように思われる方もあるか知れないが、その時代の空気を知る上では有効なはずだ。
 岸田は前回紹介した「同志社学生名簿」によると明治9年10月9日生まれ。明治19年生まれの永代とは歳が離れているが、親しい友人だった。
 桜井乾一郎(けんいちろう)の「牧師の婦系図」(昭和36年3月25日識)という回顧録によると、“岸田は当時岡山県下でも数える程しかいない高等小学校〔原文のママ〕を卒業し、余程の秀才であったとみえて、落合の小学校で教鞭を執っていたのが教会に近付く縁となり、 後 兄の太郎氏と共に神戸に出て その頃日中貿易の機関誌として、吟香の発刊していた漢字新聞の編集に関係していたが、その間、中山手通りの神戸教会にセッセと通ったものである。”とのこと。そこで原田 助(はらだ たすく)牧師に才を認められ、同志社に通う事になったわけだ。
 桜井は前橋教会の牧師などを務めた人物だが、岸田が岡山 落合(おちあい)教会の津島種二郎 長女・とみ(富子)を娶ったのに対し、桜井は その末子・清野と結婚している。つまり、義弟に当たる**
 話を戻すが、《同志社校友会報》一四号(明治37年6月27日)によれば、岸田は基督教青年会の会長を務めており、同志社では信者として精力的に活動していた事が分かる。
 この時代、岸田は「男女交際論」を唱えて、物議をかもした。これが少し興味深いので、内容を紹介しよう。
 といっても〈同志社評論〉(〈同志社新聞〉の前身)に投稿されたという岸田の「男女交際の道を開け」は見ることができなかったのだが、 〈同志社新聞〉五号(明治37年12月1日)の吉田清吉「岸田君の男女交際論を駁す」と同六号(同年12月15日)の岸田による「男女交際論の駁論に答ふ」から、その内容を知ることができる。
 吉田清吉によれば、岸田は男女の交際を“危険の犠牲を出すも之を顧みず革命的に断行せよ”と述べたらしい。
 しかし誤解の無いよう書いておくが、岸田は「自由恋愛」を鼓吹したわけではない。
 例えば“男女の教場共同論、食堂共同論”が自分の言う“男女交際の一部に該当”すると述べており、今日からすれば当たり前の話ではあるが、男子の同志社普通学校・神学校と同志社女学校が画然と別れていた時代にあっては開明的な議論だった。 この程度の提案が当時あまり賛同を得られなかったことは〈同志社新聞〉四号(37年11月15日)「文芸会を観るの記」という記事に“理想は理想としてあくまで尊ぶべしだが岸田君の云ふようにわざわざ男女両校の生徒が集ると云ふのも変なものではないか。”などと書かれていることからも分かる(ちなみに、この青年会文芸会は岸田が司会者)。
 また、岸田の論は“男女は公に交際すべく、私に交際すべからず。”“監督者の許可なくして交際すべからず。”“同伴者なき時は交際すべからず。”など、厳しい規律を付した上での男女交際を目指していた。
 この場合の“監督者”は主として教師であり、年長学生がその補助者であると言う。
 「教師の監督」については吉田清吉も“父母の監督に劣れり”としていたが、岸田は教育を重視したもののようだ。
 “東京辺の堕落書生”を引き合いに出して“危険”をうんぬんする向きには、彼らは“無制裁、無規律の下宿屋に生活”しているのに対し、同志社の学生は“規律制裁ある学校の寄宿舎に生活して、殊に道徳的修養に最も力を用ふる者”だから、同列に論ずるべきでは無いとする。岸田は当時、寮長を務めていた。
 永代静雄も、こうした話題が真面目に論じられる校風の中で生活していたのだ。
 一方で岸田は“青春男女の間に恋愛の生ずるは是(これ)極めて自然”と言い、“恋愛の生じたる男女が遂に結婚するに至るは極めて当然”とも言い、仮に失恋したとしても“人生の辛酸を増し、意義を深からしめ、道徳の発展、品性の陶冶に資する”から、どちらにしても“危険”のうちに入らない、とするあたり、その楽観的な理想主義が表れている。
 岸田の反論と同号に掲載の「岸田君に対する対駁論を読む」という小論では、“精神の独立”があれば“父母教師の監督何か必要あらん必竟無用の長物のみ”とし(ただし“独立”がなければ“交際は勿論否定すべし父母も監督すべく教師も監督すべし”と言うが)、“精神の独立を完ふ(まっとう)”する時代は到来すると信ずる、と書いており、今日から見れば この感想がいちばん共感を得るかも知れない。
 こうした議論が当時どのくらい広まったかだが、〈同志社新聞〉三号(38年2月1日。号数は38年以降、新たに打たれた)の櫻洲「新聞社日誌」に“岸田さんの男女交際論ですかハアあれは随分花を咲かせましたよハ………”と回顧しており、 その前段に同紙は“案外の成功で女学校も取つて呉れるし 毎月二百と見積つたのが毎月五百づヽ摺つても足らない事さへあつたです”とあるので、少なくとも同志社の学生はおそらく全員この新聞を読んでいたと考えられる。
 永代と美知代の恋愛が本格化するのは岸田の留学後だが、もし日本にいれば、この事件に対し どのような態度を取っただろうか。 教師の監督も無い恋愛で、なかんづく同伴者もいない旅行などは完全な逸脱行為と映ったはずだ。もしかすると学寮での“制裁”の対象になったかも知れない。 永代が同志社を飛び出したのは、やはり美知代との恋愛が大きな理由となっていたと思われる。
 ところで、米国に留学した岸田だが、実はそのまま牧師となる道は歩まなかった。
 この点、もし永代が同志社を卒業していれば違った展開もあったろう、と想像をたくましくしてみたくなる。
 ニューヨークのユニオン・セオロジカル・セミナリーという神学校で学んだ岸田は、在学中、信仰に根本的な疑問を感じ、明治40年暮れに神学校を去った。
 44年3月5日に帰朝した時には、新たな思想(岸田自身によれば新たな“宗教”)である「人類主義」を身につけていた。
 これは、モダニズムの立場から神を否定し(キリスト教以外の既成宗教も否定)、神の代わりに「人類」に至上価値を置くという信条である。
 桜井乾一郎は、岸田がオーギュスト・コントの実証主義に溺れ、“帰朝の際は「人類主義」と言う得体の知れない人生哲学を土産として持ち帰り親類一同を失望させた。”と述懐している(前掲「牧師の婦系図」)。 一方で、“岸田は一種の風格があり兄弟中一番秀れた人物であったと思う。茶の間で話をしていると必ずその周囲に一種の雰囲気を漂わし、柔か味と温か味で相手を包摂して仕舞う様で、この兄をもう一度日本の教壇に立たせ、日本教化の第一線に就かせたらと感じた。”とも書いている。 牧師だった桜井からすれば、岸田の心変わりは残念なものだったろうが、「人類主義」はそれほど奇矯な思想ではなかった。
 この主義について岸田は 44年4月9日〜5月7日の4回にわたって講演を行い、ユニテリアン弘道会の《六合(りくごう)雑誌》三六五〜三六八号(同年6月1日〜9月1日)に その速記録が載っている。
 どんな議論を展開しているか、数ヵ所ピックアップして紹介しよう。
    宇宙人生を説明するには神が無いと何うも説明が出来ない。兎に角神と云ふ考を立つて説明しなければならぬと云ふことを云ふ人もあるが、自分の分らない所の、知らない所の想像的のものを置いてそれを以て説明したところで説明はならない。 説明と云ふものは元来自分が明かに知つて居るところのものを土台として未だ知らざるものに推及ぼして行くのであるが、此議論は之を逆に行くのであるから議論として立ち難い困難を持つて居る。
    或人は神は無限絶対であると云ふやうなことを申す。大変偉らさうな言葉に聞えるが能く考へて見ると無限絶対と云ふ言葉は空しい言葉であつて、何等の内容を持つて居ないと云ふことは少し考へて見れば能く分る。 〔中略〕 無限と云ふ言葉は限りがないと云ふことであるが、其中に何を含んで居るかちつとも分らない。つまり我等の生活とは没交渉のものである
    スペンサーは神様は knowable の天地に居らずして unknowable の世界に居るとしたけれども斯う云つて仕舞つて見ると、或人が批評をした様にスペンサーと云ふ人は神様を殺しはしなかつたけれども、再び己れの宮の中に顔を出すことの出来ないやうに追払つて仕舞のであるから実際に於ては無神論と同じである。 〔中略〕 かゝる神様は単に神秘的の存在であつて少しも宗教的若しくは道徳のものではない従つて之を拝んで何等の交渉も起らず感化を蒙むることも出来ない。
    全体人を愛するのは其自身に目的であるか或は神を愛する手段としてゞあるか、其辺が〔キリスト教では〕明白でない。それから神も人を愛し玉ふと共に人が人を愛することをも望み玉ふと云ふのであつて見れば人を愛することを神も人も勉めて居るとも見へる。 さらば人を愛することが最後の目的で神は此目的を達する道具の如きものであるかと反問すれば、基督教徒は無論然りとは答へ得ない。此欠点は人間以外に神と称するお化けの如きものを置いて、之れに至上権を与えるからであつて、此困難を脱却するのは人類主義の外はないと思ふ。
 全編が、こういう小気味のいい文章で成り立っている。
 ただ自然崇拝に関連して、“人類は自然を制〔ママ〕服し利用するの権利を有して居るので、此点は神道と大に異つて来なければならない”などと語っているのは時代的限界で、文明による開発を楽天的に捉えていることが分かるが、それも含めて明治末から大正期にかけての思想のひとつの形として評価できる。
 桜井乾一郎は前掲の文章で、“岸田は兄弟一の秀才で、その明晰な頭脳を以て当時の学界の流れを逸早く把んだのであった。事実同窓の後輩には他日倫理教(エセカル・カルト)の教祖として名をなしたフェリクス・マドラーの如きが出たのである。”と述べているが、倫理運動のフェリックス・アドラー〔Felix Adler, 1851-1933.〕は岸田より25歳年上で“後輩”ということは、あり得ない。 しかし、岸田が当時の先端の理論を吸収していた事は確かなようだ。
 岸田の著作としては、近代デジタルライブラリーに『人類主義と教育(中等教育私見)』(英文社、大正12年)という小冊子が入っているが、これ以外にまとまった作品は残してない。 美郎の次男である八藤(はっとう)雄一氏によると、毎年年賀状に年頭所感として「主義」を補強する随想を書き、近親知人に送っていたというが、これも残ってはいないらしい。
 その後の岸田は教育事業にたずさわり、『人類主義と教育』によれば大正9年7月、英文社という中等学校を大阪市西区川口町のプール女学校(現 プール学院)内に創設したという。 同11年6月には西区泉尾町(現在の大正区)に同社が移転。12年の時点で在学者は250名ほどだったという。
 その頃には新たな中学校の設立を構想していたようだが、これはおそらく頓挫し、昭和 2年には東京に移って慶應義塾普通部(現在の高等学校)の英語教師となる。
 この教職は昭和19年まで17年間続けており、岸田は20年8月14日に没しているので、晩年は ほぼ慶應の教員として過ごしたと言ってよい。
 その慶應時代、生徒から求められ、岸田は英語の授業を放り出して「人類主義」を熱弁、かなり人気があったらしい。 美郎の長男・壮一(故人)は慶應医学部卒業だが、在学時、普通部出身の同級生から「お前のおやじの熱弁がよかった」と再三、聞かされたという(八藤雄一氏による)。    〔2014年 9月27日/10月18日〕


     中山蕗峰(三郎)の「花袋氏の作『蒲団』に現はれたる事実」には、永代が神戸教会と同志社を“泣く泣く捨て”た理由を次のように書いている。

      時も時、秀夫は有志の推薦で、学資を教会の神学生養成費から享くることとなつた矢先で以て、こんな事件を仕出かしたのだから、義理から云つても責任から云つても、秀夫の立場は全く無くなつた。 所謂教会的道義は恋の自由な天地に入ることを制扼してしまつた。一躰教会などいふものは人の罪を仮借なく酷に攻めて許さないもので、この三方〔同志社、教会、村松吉太郎〕の板挟みになつた秀夫が懊悩痛苦は実に甚しいもので、殆ど生死の境を往来してゐたといつてもよい。 そして彼は到底彼女との恋を全うしては、将来伝道界にも立つ訳に行かないと悟つて、遂に教会の支給を斥くる決心をしたのである。 その申訳として、自分は将来伝道者として起つべくあまりに汚れてゐるから、教会の補助を享けたくない、併しもし自ら好む所に適かしめんには、資を投じて東京に遊ばしめよと、元の神津某〔村松〕に申込んだのが第二の失策、事は我から破れて同志社にも居難くなり、さればとて神戸にも帰られず、同情ある友人の慫慂を幸ひ、志を決して第二回の上京を企てたのである。

     美知代の回想では上京は 1度切りのように受け取れるが、中山の この文章によれば永代はまず花袋のもとを謝罪と釈明のために訪れている。 しかし、ここは小説「蒲団」に影響されたらしくも取れるし、2度も上京する金銭的余裕があったのかは疑問だ。
     永代が村松に東京での遊学費を出させようとしたのは事実とすれば無謀だが、中山の話は、永代が教会の会員から“思ひも掛けない餞別を”もらったことと矛盾する。 私は実際の永代には、もう少し選択の余地があったのではないかと思っている。恋愛のみに悩んでいたわけでもなかろう。
     当時、神戸教会に属し原田牧師宅に寄寓していた中山の発言には信憑性があるが、ここは明治38年12月28日、やはり教会を去って上京した中山自身の体験が重ねられていると見るべきだろう。 のちに書かれた中山の手記――大部分は《駒澤短大國文》10号(昭和55年)の清田啓子「資料紹介 花袋「縁」中の一モデルの証言」で翻刻されているが、以下は省略されている箇所である――によれば、 中山がその頃 淡路にいた病詩人・一色醒川(いっしき せいせん)のもとを訪ねたりした事が、「教会のある青年は神戸女学院の一女先生と淡路へ旅行して二泊も三泊もして来た」等の噂になり、原田牧師宅に居づらくなったという。 この“女先生”とは青年教会員たちに「マザー」と呼ばれていた西山庵(いほり)で、年齢も“十五六も上”であり、“人に怪しまるゝ程の事”は全く無かったという。 中山は同じ文章で、こうした噂によって“不謹慎のものが捏造されるわけである。こゝらが、人の罪を表面から罪とし得ない、キリスト教的陰性の一現象とも云へよう。”と評している。 もっとも、永代と美知代の肉体関係にも、こうした“捏造”を疑ってみるという事は無かったようだ。   〔10月18日〕
    ** 津島種二郎自身は無名の人物だが、その次女・米子と結婚した近藤良董(よしただ)は桜井によると“旧約聖書を全巻通じて日本語で講解を書いた”最初の人物で(〈現代新約聖書註解全書〉の著者でもある)、聖書学界の碩学。 四女・定代の嫁いだ黒澤良臣(よしたみ)は熊本医科大学長、国府台国立病院長などを務めた精神医学者。 特に黒澤は著名人と言えるが、桜井が岸田を“兄弟一の秀才”“兄弟中一番秀れた人物”と呼ぶのは彼ら英才と比較してのことで、岸田家の兄弟と比較しての事では無いようだ。   〔10月 5日〕
 

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