2014 永代静雄入門 (2)

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 誰もが今では何か分からない事があると、すぐ頼るのがウィキペディアである。当サイトの読者も、永代静雄って誰? と思ったときに、まずウィキを参照したかも知れない。

    永代 静雄(ながよ しずお、1886年(明治19年)2月12日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、 日本の小説家、新聞記者。田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン横山芳子の恋人である田中のモデル。別名義に湘南生。

    兵庫県に生まれ、伯父の養子となり永代姓となる。牧師となるため関西学院に入学、神戸教会に所属するが、同志社の神学部に移る。 花袋の弟子となっていた岡田美知代と恋仲になり上京するが仲を裂かれ、新聞記者をするが、1909年、美知代の妊娠により結婚。 同年離婚して関西に戻るが、再び上京して美知代と出奔、各地を転々とするが、最終的に美知代とは別れ、毎夕新聞に勤めたのち、新聞研究所を設立する。 この間、『不思議の国のアリス』の日本での初訳を行ったほか、主に湘南生の名義で大衆小説や少年向きSFを多く執筆した。 主な作品に、徳富蘆花の『小説 不如帰』のSFパロディである『小説 終篇不如帰』など。

    1933年(昭和8年)ころより伝書鳩研究に専念し、雑誌『普鳩』を発行した。

    『蒲団』での静雄像は歪められていると、後年美知代は書いている。

    参考文献
    横田順彌『快絶壮遊[天狗倶楽部] 明治バンカラ交友録』 教育出版 1999年

    〔後記。ウィキペディアの永代の項は2020年 4月頃に大幅に書き換えられた。〕

 実に、ざっくりした紹介だ。いきなり“伯父の養子となり”なんて書いてあるが、兵庫県美嚢郡(みのうぐん)北谷村(きただにむら)前田、現在の三木市(みきし)吉川町(よかわちょう)に長谷川順・さやの三男として生まれた、くらいは書いても良さそうなものだ。ちなみに母の名は位牌によれば、きや子である。
 伯父・永代義範の養子となったのは 1898(明治31)年7月。父は前年の7月に亡くなっている。
 “牧師となるため関西学院に入学、神戸教会に所属するが、同志社の神学部に移る。”とあるが、神戸教会に受洗入会したのは 1903(明治36)年 3月 8日。 関西学院本科に入学したのは同年 4月で順序が逆だ。もっとも、このあたりの正確な時期を記した一般向け資料は現在のところ存在しないから、間違っても仕方ない 〔後記。 2016年に「永代静雄 略年譜」を発表した〕。 関西学院の予科に通っていた可能性も無いではないが、神戸教会に籍を置かなければ、学費の調達は難しかったろう。
 大塚英志氏が『「妹」の運命 萌える近代文学者たち』(思潮社)に“関西学院に入学、神戸教会に籍を置くが同志社の神学部に移った。”などと書いているのはウィキを引用した可能性が高い。
 前回「大塚英志の描く永代静雄」の頁でも書いたが、永代は同志社普通学校に通い、神学校には属さなかった。ましてや関西学院に通った頃、牧師になる意思があったかどうかは大いに疑問だ。
 前回は研究者なら同志社社史資料センターで〈同志社新聞〉を参照して欲しい、みたいなことを書いたけれども、ちょっと不親切だったので、同紙の画像をアップして置こう。 個人情報保護がかまびすしい現在、名簿をネットに載せる事は問題が無いでもないが(大学によっては古い名簿でも自由に閲覧できない)、明治期に同志社に在籍したことが故人(およびご子孫)の不名誉・不利益にはならないと考えて公開する。

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 「普通学校」の「第四年級」に永代の名前が見える。その行末には 1904(明治37)年まで〈同志社新聞〉を編集していた及川八樓(おいかわ はちろう)の名があるが、及川が主宰していた頃の同紙には永代の寄稿が多かった。
 早稲田では予科にしか籍を置けなかった永代だが、同志社では4年まで進級していた。入学した 1903年 9月に第 2学年に編入されたのだ(関西学院には半年しか学ばなかったわけだが)。佐藤緑葉(りょくよう)は永代を“同志社の中等部に居た”と書いているが(『若山牧水』)、これは明らかな誤り。
 名簿の「第三年級A組」筆頭には、ずっとのちに早稲田総長となる阿部賢一の名も見える。 阿部は“彼〔永代〕は同志社で上級生をなでまわり、尚専門部の神学生に於ても遙かに群を摩していた”と回顧している。
 「第三年級B組」の終わりのほうには同志社総長となる湯淺八郎もいる。
 続いて「神学校」の名簿。

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 神学校の生徒は別科・撰科生を含めても29名しかいない。少数精鋭だった事が分かる。
 名簿の中で目立つ名前は まず高畠素之だが、“夭折文士”平尾不孤(ひらお ふこ)こと平尾徳五郎の名前があるのも注目される。
 永代の回想に登場する人物には、岸田吟香(ぎんこう)の甥で神戸教会の先輩である岸田美郎(よしろう)、留岡幸助の親類でのちに中央報徳会の幹事を長く務めた上野他七郎などがいる (ついつい留岡幸助をウィキに繋いでしまったが、留岡が武家の子供に怪我をさせた時と、家出してキリスト教会に逃げ込んだ時は別だろう、とか突っ込みどころはある)。岸田美郎については、そのうち、このサイトに書くかも知れない。

 ウィキの記述に戻ろう。
 “仲を裂かれ、新聞記者をするが、1909年、美知代の妊娠により結婚。” 妊娠の発覚のあと本格的な就職をしたという順序だが、ここは別に誤りとも言えない。永代は 1907(明治40)年初め群馬新聞で活動しているし、その後 1908(41)年頃、旅行新聞社に勤めたとされている。 永代自身は自らの新聞歴を東京毎日新聞が最初としているが、美知代と家庭を持つために仕事を探したのだろう。といっても 1909(42)年 1月 1日(実際には前年末)、早稲田の出身者が集団で就職した際に、永代も列に加わったものと見られるが。結婚通知を出したのが就職のあとなのは確かである。
 ウィキの永代の項だけ読んだ人は、仲を裂かれたのに、なんで妊娠したんだ、と疑問に思うかも知れないが、このあたりは「岡田(永代) 美知代」の項で補完できる。

    岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(明治18年)4月15日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、日本の文学者、雑誌記者。田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。

    広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)に豪商の長女として生まれ、1898年(明治31年)9月神戸女学院に入学するが、文学への志深く、1904年(明治37年)2月退学して上京、 1905年(明治38年)、花袋に師事、4月女子英学塾(現・津田塾大学)に入学する。上京の途次、既知の永代静雄と京都で会い親密な仲になる。静雄との関係が花袋に知れて帰郷するが、 その後『蒲団』が発表される。再度上京して永代との間に長女千鶴子を儲け、1909年(明治42年)1月花袋の養女として永代と結婚。長女を産んだのち11月いったん永代と別れるが、 翌年4月再びともに富山へ行き1911年(明治44年)3月長男太刀男出産。この間、いくつかの短篇を雑誌に発表する。花袋の『妻』、『縁』にも登場する。 「ある女の手紙」は花袋への意趣返しの意味を持つ美知代の作品である。

    1926年(大正15年)、永代と別れ、「主婦之友」記者として太刀男を連れて渡米、花田小太郎と再婚するが、花田は結核のため単身1927年(昭和2年)帰国。 1944年(昭和19年)、戦争のため帰国。実妹万寿代の嫁ぎ先の広島県庄原市に住んだ。〔下略〕

 美知代が花袋に師事したのが 1905年になっているのは、どういう意味か、よく分からない。当然、弟子になる事を許されて上京したのである。津田英学塾入学も 1904年 4月だ。
 永代と“親密な仲”になったと言われているのは、ウィキの記述では不明瞭だが 1905年 9月の事、「蒲団」には“京都の夜汽車、嵯峨の月、膳所(ぜぜ)に遊んだ時には湖水に夕日が美しく射渡って、”と、嵯峨で同宿したように書かれているが、美知代は後年、“嵯峨の月”を見ていないと否定している(「私は「蒲団」のモデルだった」等)。 永代が琵琶湖畔、膳所から出したハガキが残っており、膳所で過ごしたのは確かなようだ。美知代の弁明には疑いもかけられているが、この時点で肉体関係が無かったと訴えていることは書いて置かねば不公平だろう。
 何故、すぐに訴えずに後年、手記で語るなどしたかは引っかかるところだが、「蒲団」発表直後は師である花袋を弁護する事に終始したし、いったん帰郷して再上京したあとは、あっさり妊娠し、父からは勘当同然で“田山みちよ”という形で永代と結婚しているから、文句を言える立場では無くなっていたのだろう。 (ただ、ウィキの永代の項には“『蒲団』での静雄像は歪められていると、後年美知代は書いている。”としているが、永代の書かれ方に異議を唱えているのは、「蒲団」発表直後から。 ただし最初に異議を唱えた「小夜子」という小説は公表されなかったのだが、1915(大正4)年の「『蒲団』、『縁』及び私」以来、この主張に関しては晩年まで一貫している。)
 そうして結婚したものの 1年経たないうちに最初の破局を迎えたのだが、ウィキにも書かれているとおり、すぐに復縁する。 この間、美知代は花袋の新たな弟子・水野仙子と代々木初台(はつだい)に同居した。再上京から結婚、破局したのち復縁するまでの様子は花袋の『縁』に詳しい。
 永代の項に戻ると、“美知代と出奔、各地を転々とするが、最終的に美知代とは別れ、毎夕新聞に勤めたのち、新聞研究所を設立する。” 美知代と最終的に別れたのは 1926(大正15)年。 東京毎夕新聞入社は 1912(大正元)年。新聞研究所の設立は 1922(大正11)年、その前身の新聞及新聞記者社設立は 1920(大正9)年だから、ウィキの記述は、ざっくりし過ぎている。
 “この間、『不思議の国のアリス』の日本での初訳を行った”とあるが、この間、というのが、また ざっくりしている。1908(明治41)年から翌年にかけての事だ。 ウェブ上には何故か“『少女の友』の第1巻第1号から第10号までに連載”という記述がコピペされているのだが、拙サイト「『不思議の国』邦訳書誌」にあるとおり、2巻 4号までの連載である。 ウィキの『不思議の国のアリス』の項には“『アリス物語』は12回の連載”とあるが、 これは楠本君恵『翻訳の国の「アリス」』(未知谷)の誤りを引き継いだもの。拙著『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』には連載は13回、続いていると書いているが、これも誤りで(笑) 正確には全14回の連載だった。 いずれにしろ、創刊当時の《少女の友》に これほど長く続いた連載は ほかに無く、読者もしくは編集者の間で好評を博した事がうかがえる。
 再びウィキの永代の項に戻ると、以下の記述は横田順彌先生の発見に負うものなのだが、“主に湘南生の名義で大衆小説や少年向きSFを多く執筆した。”――こんなことを横田先生は言ってない。 湘南生名義の作品は、『終篇不如帰(しゅうへん ほととぎす)』と『逗子物語』の 2作だけだ。どちらも徳冨蘆花の『不如帰』の続編である。『終篇不如帰』が“SFパロディ”だとは横田先生も言っているが、永代にパロディの意思があったかは微妙。少なくとも笑わせる事を意図して書いたわけでは無い。 ただ、この小説に垂直離着陸機が登場するのを先生が紹介した事で、永代の名前が古書好きの間で一気に広まったのである(湘南生の正体が永代である事も、先生の発見)。
 “参考文献”に『快絶壮遊〔天狗倶楽部〕』を挙げているが、もっとも詳しく書かれているのは先生の『古書ワンダーランド @』(平凡社)だろう。『終篇不如帰』の内容について知りたければ、『近代日本奇想小説史 明治篇』(PILAR PRESS)を読むべし。
 永代は“少年向きSF”を多く書いたわけでも無くて、SFらしいSFは 1917(大正6)年《日本少年》連載の「飛行式潜航艇 怪頭号」くらい。 1913(大正2)年《少女の友》連載の「愛国小説 満朝の花」にも垂直離陸機が描かれているが、中国の革命という時事問題を小説化したもので、SFという感じは薄い。 これに 1918(大正7)年刊行の学習書『天体旅行』を加える事ができようが、まあその程度である。『アリス物語』のようなファンタジーや、サイキックの活躍する探偵小説もあるから、横田先生の言う“奇想小説”というくくりでなら当てはまる小説もそこそこ増えるが。
 最後に“1933年(昭和8年)ころより伝書鳩研究に専念し、雑誌『普鳩』を発行した。”という部分。誤りでも無いが、《普鳩(ふきゅう)》の創刊は 1935(昭和10)年だ。
 美知代の項の誤りも指摘して置くと、1927(昭和2)年“結核のため単身”帰国したのは花田小太郎でなく長男の太刀男。
 美知代が米国から帰国したのは、開戦前、1941(昭和16)年である。
 ともあれ、ウィキペディアを全面的に信用する事は、やめたほうがいい。
 これを読んだ誰かがウィキの内容を修正してくれると嬉しいのだが。小生自身がやると、余計な事、いっぱい書きそうだしな。    〔2014年 8月10日。最終更新2021年 5月 1日〕

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