永代静雄 略年譜

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    〔以下は日本ルイス・キャロル協会機関誌《MISCHMASCH(ミッシュマッシュ)》18号(平成28(2016)年11月 1日発行)に掲載された大西小生「永代静雄略年譜(Shizuo NAGAYO's chronological record)」に一部加筆したものです (「1、人物の概観」に関しては修正を加えず後注をひとつ加えた)。〕

1、人物の概観

 永代静雄は日本で初めての『不思議の国のアリス』の翻案、『アリス物語』(初出《少女の友》明治41(1908)年2月〜42年3月、単行本 大正元(1912)年)の著者として、アリス・ファンの間では、つとに知られている。また、『アリス物語』と同じく《少女の友》に連載された『黒姫物語』(初出 明治42年7月〜43年8月、単行本 大正3(1914)年)は チャールズ・キングズリーの『水の子 The Water-Babies』の初めての翻案である。大正3年に刊行された『女皇クレオパトラ』にはシェイクスピア『アントニーとクレオパトラ Antony and Cleopatra』の初訳と見られる箇所が多く含まれる。その翻訳者としての着眼の早さは、称揚されて良いものだろう。
 もっとも、いくらか留保条件を付ける必要はある。永代の『アリス物語』は大幅な抄訳で、しかも中盤以降は原典と関わりのない創作である。また、永代による『不思議の国』の翻案のおよそ10年前に『鏡の国』は長谷川天溪によって翻案されていたし(「鏡世界」、《少年世界》 明治32(1899)年4月〜12月)、丸山英観による『不思議の国』の完訳(『愛ちやんの夢物語』明治43(1910)年)は『アリス物語』より先に単行本化された。
 『黒姫物語』は『水の子』の翻案としては飛び抜けて早いものの、主人公である煙突掃除の少年を生まれの悪くない少女に置き換え、ストーリーもほとんど独自の創作である。
 『女皇クレオパトラ』は、プルタルコスやシェイクスピアの翻訳と見れば早いが、基本的には大正3年公開のイタリア映画「アントニーとクレオパトラ」の便乗出版である。
 そうした事情を鑑みれば、永代の翻訳文学史における評価が低いとしても、あまり異は唱えられないのかも知れない。それでは永代の生涯に対する評価は、どうであろうか。
 『不思議の国』の翻訳者であるという以外に、永代には主に4つの評価軸がある。
 ひとつは田山花袋の小説「蒲団」『縁』などのモデルであること。近代文学史上は長く、この点でのみ永代の名は記憶されて来た。特に「蒲団」で悪しざまに描かれたために永代は実人生において被害をこうむったのだが、現在は花袋に批判的な見方も増えたため、相対的に永代の評価は上がっている面もある。とはいえ永代に同情的な意見はあまり聞かれず、充分に名誉回復されたとも言えないものの、本稿ではこの問題に立ち入らない。しかし、花袋の小説に描かれた当時の永代の言動を、日露戦争後の先鋭的な若者の苦悩の例として読み直すことは可能かと思われる。
 またひとつは、横田順彌が多くの著書で言及したSF的奇想小説の作家としての顔。大正元年刊行の『小説 終篇不如帰』が垂直離着陸機の登場する飛行機小説であることを横田が紹介し、古書好きの間で永代作品の紙価を高からしめた。他にも《少女の友》連載の「愛国小説 満朝の花」(大正2(1913)年3月〜12月)などでも垂直離陸機を作品に取り込んでいるが、これは闘う少女パイロットを描いたという意味でも非常に先駆的なエンターテインメントである。こうした通俗作品の現代的な位置づけ、再評価は必要と思われる。
 さらに、文学的活動を終えたあとの新聞研究所長としての業績。新聞記者としての永代は、夕刊紙である東京毎夕新聞を中心に活動していたが、独り立ちして《新聞及新聞記者》という業界誌を創刊し、新聞年鑑を発行するなどした。それらのデータの資料価値は高く、新聞学の上では相応の評価がされている。また、昭和2(1927)年には新聞学校も設立したが、これは発展しなかったもののジャーナリストの養成において画期的な試みだった。
 最後に、伝書鳩の歴史を語る立場からの評価。晩年の永代は雑誌《普鳩》を創刊し、伝書鳩の普及に尽力した。戦前、鳩は新聞社や軍の通信用として広く利用されていたが、鳩に関する専門誌は当時、これのみだったという。実際に自宅で鳩を飼育してレースにも参加し、永代鳩舎と言えば全国的に著名であった。
 以上のように、永代静雄は多面的に論ずることが可能なユニークな人物と言える。
 もちろん文学者としては大成せず、およそ時代を超えるような卓見を吐くこともなかったが、時代の半歩先を読んで行動する能力には長けており、その意味では新聞記者に向いていたし、翻案作品などで先駆的な仕事もなし得たのである。千森幹子は『表象のアリス』の中で永代を保守的な人物と論じており、今日的な視点からすれば頷けないこともないのだが、あとで示すように永代自身は自らのモットーを「飛躍的進歩主義」と考えていた。先ほど挙げたような評価軸を中心に同時代的に捉えてみれば、彼なりに進取の精神もあったことは確かであろう。その詳細を論じる紙幅はないが、後段に掲げる年譜から汲み取っていただければ幸いである。もとより、これまで本格的な年譜が編まれることのなかった人物だけに、今回の年譜も試作的なものに過ぎないが、以後の研究に何らか資するところがあればと思う。これを叩き台としていただくことにして、大方の叱正を待ちたい。

     日本鳩レース協会会長だった関口龍雄の『鳩と共に七十年』(文建書房、平成7年)には《普鳩》が「当時鳩に関する唯一の雑誌」だったとあるが、藤本泰久氏のご教示によると《普鳩》発刊時点でも〈日本伝書鳩新報〉〈ピジョン・タイムス〉という小メディアが既にあり、その後《日本鳩時報》というライヴァル誌(のち《軍用鳩》と改題)も存在したという。

2、永代静雄の『アリス』翻訳者たちへの影響

 

  永代静雄 略年譜

      嘉永6(1853)年3月2日 長谷川順(永代静雄の父)、生。
      安政6(1859)年7月10日 井上さや(静雄の母)、生。
      明治11(1878)年2月1日 岡田實麿(ミチヨの兄)、広島県甲奴郡上下村(現・府中市上下町)で生。
      明治12(1879)年6月1日 長谷川齋(いつき。のちの永代大圓(だいえん)。静雄の兄)、生。
      明治14(1881)年8月1日 長谷川庸雄(のち上岡姓。大眞と改名。静雄の兄)、生。
      明治18(1885)年4月18日 岡田ミチヨ(以下、美知代とする)、上下町で生。
明治19(1886)年  満年齢 0歳
    2月12日 静雄、長谷川順・さや(きや子)*1の三男として兵庫県美嚢(みのう)郡北谷(きただに)村前田(現・三木(みき)市 吉川町(よかわちょう))に生まれる
明治20(1887)年    1歳
    父の転勤のため、印南群下原に転居。
      明治21(1888)年9月24日 長谷川のぶゑ(信惠。静雄の妹)、生。
明治24(1891)年    5歳
    神戸市内に転居。
明治25(1892)年    6歳
    湊川(そうせん)小学校尋常科入学(4年制)。
      明治26(1893)年9月12日 岡田實麿、同志社普通校入学。
明治29(1896)年    10歳
    同小学校高等科入学。
明治30(1897)年    11歳
      6月 實麿、同志社卒業。
    7月19日 父 順、死亡(戸籍は20日没。満44歳)。
明治31(1898)年    12歳
    7月6日 母さや、妹のぶゑ、近藤政太郎方に付籍となる。
    7月14日 伯父永代義範の養子となり、吉川町の東林寺に移る
      9月 美知代、神戸女学院入学。22日 岡田萬壽代(ますよ。美知代の妹)、上下町で生。
明治32(1899)年    13歳
    2月1日 永代義範、没(55歳)。静雄の兄・大圓が東林寺住職を継ぐ。
明治33(1900)年    14歳
    3月 静雄、大圓と共に「大日本進学会」を結成、東林寺で文芸誌《千代の誉》(ちよのほまれ)を活版印刷。
      明治34(1901)年11月3日 美知代、神戸教会に受洗入会。
明治35(1902)年    16歳
      4月 神戸教会の伝道師、岸田美郎(よしろう)が同志社別科神学科に入学(38年6月30日卒業)。
    10月 永代、神戸に出る。
      この年、成道寺の次兄・大眞、没(21歳)。岡田實麿、米国から帰国後、神戸高等商業学校教授となる。
明治36(1903)年    17歳
    3月8日 神戸教会に受洗入会*2。教会内の会堂守・竹田虎吉方に同居。
    4月 関西学院本科に入学*3
      4月27日 永代大圓、没(23歳)。《千代の誉》廃刊。
      5月10日 中山三郎、受洗入会。同日 岡田實麿、同志社教会より神戸教会へ転入会。
    6月10日 〈教会月報〉44号に永代「蕪辞」を発表*4
    6月13日 永代、一色醒川らと神戸教会会堂で青年共励会主催文学会を行う。聴衆 700名弱。
      7月13日 實麿、最初の妻・登美恵との婚姻届。
    7月29日 青年共励会で永代の感話「妨害に打勝(うちかつ)こと」。来会者13名。
    7月30〜31日 青年共励会、山田地方へ伝道行。西内藤男(天行)伝道師、岸田美郎、永代、横山佐野子ら。
    9月 永代、同志社普通校第2学年へ編入*5。神戸の住所は山本通4丁目 村松吉太郎方。
    11月8日 永代、同志社休業中につき帰神。聖晩餐洗礼式に列席後、京都へ戻る。
明治37(1904)年    18歳
    1月2日 西内藤男の福岡赴任のための送別会「永代氏の送西内氏歌、中山氏の同俳句、朗読あり」。
      1月 中山三郎、原田助(はらだ・たすく)牧師宅に住み込み、神戸教会書記として庶務を嘱托される。
      2月 美知代、神戸女学院退学。上京し、田山家に仮寓。
    4月6日 神戸教会、青年信徒大会を兼ねて春期総会。村松司会、永代・岸田美郎の感話あり。
      4月 美知代、女子英学塾(現・津田塾大学)入学。
    5月28日 同志社神学館で基督教青年会の大文芸会。永代の英詩合唱と「邦語演説(そは唯ひとつ也)」*6
    8月7日 日曜教壇で永代静雄「新国家主義の発展」、他に武田牧師が講演。参会者83名。
    10月19日〜25日 京都で教役者会(嵐山)および日本組合教会総会(同志社神学館)。24日の組合教会信徒大会後、相国寺で永代は中山から美知代が花袋の弟子と聞く。横山佐野子も同席。
明治38(1905)年    19歳
    3月10日 同志社公会堂で有志演説会。及川八樓「雪中の狗児」、永代静雄「涙を要す」他*7
    3月31日 神戸、金曜祈祷会で永代らの感話。
    4月2日 日曜教壇で永代「クリスチヤンの観たる愛国心」講演。参会者58名。
    5月13日 永代、美知代に京都から絵葉書を出す*8。初めての書簡。
    6月19日 美知代宛に書簡。美知代を「かるかや様」と呼ぶ(美知代の筆名)。
    7月6・9日 美知代宛絵葉書。「夏期集会」に参加するよう誘う。
    7月19日 伝道女学校楼上で永代司会による神戸教会新入会員歓迎会。
    7月20日 関西学院講堂でYMCAの第17回「夏期学校」開校(〜26日)*921日 金子卯吉、岸田美郎、永代らが内ヶ崎作三郎と会談(初対面)。22日 赤心吐露会、150余名参加。 24日 午前中摩耶山に登り運動会。夜、文学会および親睦会。これに美知代も出席。
    7月28日 青年共励会主催、青年警醒演説会(3夜)。この日は永代が司会。29日 青年警醒演説会、永代「猶一を欠ぐ〔ママ〕」・岸田美郎「我要求する宗教」。30日 日曜教壇で、同じ演説。参会者78(男55/女23)。
    8月1日 霊性修養会*10、須磨青年協会本部で発会式。永代、岸田ら海釣りで遊ぶ。
    8月15日 霊性修養会で青年演説会。永代静雄「余が憧憬する宗教的生活の内容」。
    8月22日 永代司会の研究会、「救とは何ぞや」という題で感話、祈祷。
    8月29日 霊性修養会閉会。永代司会で感謝祈祷会。
    9月10日 神戸教会不究館で評議員会。永代静雄を岸田卒業後の神学生候補者に選定。
    同日 美知代、神戸を発つ。上京の途次、永代と膳所などで旅行し問題となる。
    10月6日 永代、上京。
    11月 芝区(現・港区)新幸町に下宿。
      12月28日 中山三郎上京。金尾文淵堂に勤務する。
明治39(1906)年    20歳
    1月1日 永代、美知代宛葉書。銀座街鉄で越年したことを記す。
    同日 《新声》に紫津夫「夜の声」、「こだま」発表。以後《新声》に作品掲載続く。
      1月20日 美知代、父・胖十郎に連れられ上下町へ帰る。
    3月18日 永代、花袋に原稿を送る。紫津夫「沈黙」。
    4月1日 《新声》に美知代「雪」。永代との合作。
    4月10日 早稲田大学予科へ入学
    5月13日 中村春雨の渡米送別会に本郷教会の内ヶ崎作三郎、小山東助らと共に出席。
    春頃 《新潮》の誌友会で千葉龜雄の講演「徳川時代の文学」を聴く。
    8月1日 《新声》に永代「九十九里ヶ浜」。「誌友消息」に近況。体調崩し静養。
      10月14日〜24日 田山花袋山陰旅行。15、16日と上下町に滞在。
    10月29日 永代、学費滞納のため早稲田を「除籍」。
    晩秋 佐藤緑葉、草津温泉が永代の皮膚病に特効があると考え「草津の知人Kの許へ紹介してやつた*11」。
明治40(1907)年    21歳
    2月 前橋の〈群馬新聞〉で活動。23日〈上毛新聞〉入江雪瀧・〈上州新報〉吉田松郷と前橋教会で文芸会。
    3月13日〜16日 〈群馬新聞〉にモウパッサン作、紫津夫訳「幸福」。
    5月26日 藤岡緑野(みどの)教会の同盟青年会主催公娼反対演説会で弁士を務める。
    6月3日 高崎教会会堂で、公娼問題に関する演説会で弁士。
    6月8日 前橋教会、桐生町の矯風演説会に出演。
    6月29日 安中教会の公娼問題矯風演説会。演題は「矯風運動と青年」。
    7月3日 美知代宛に前橋市活瞑会館で書簡。「秋より同志社神学生となるべし。」
    7月7日 前橋教会で永代の送別会。来会60余名*12
    8月16日 永代、妹のぶゑと神戸の小島写真館で写真撮影。
      8月23日 岡田登美恵(實麿妻)、没。9月 實麿、一高教授に栄転。
    9月1日 《新声》に「五人の心」。上毛孤児院で信仰を取り戻した前後の話。
      同日 《新小説》に田山花袋「蒲団」発表
    9月下旬 永代・中山、東京九段中坂上(なかざかうえ)・長谷川武七の写真館で2人の写真を撮影。
      10月1日 《新声》に中山蕗峰(三郎)「花袋氏の作『蒲団』に現はれたる事実」。
    10月15日 《実業之横浜》に紫津夫「若い人」・岡田美知代「夢現(ゆめうつゝ)」。
    12月末日頃 永代、友人と百草園(もぐさえん)で年越し*13
明治41(1908)年    22歳
    2月11日 《少女の友》創刊号に須磨子名義で「黄金(きん)の鍵」掲載。『不思議の国』初訳(8月号以降「アリス物語」の通題〜42年3月)
    2月頃 中山三郎と京都の古社寺、〈大阪日報〉在社の安成二郎を訪ねる。中山は永代より先に帰郷。
      3月 中山、獅子吼書房を起こす。同月末 美知代、上京。
    4月 大阪九条の大琳寺で短歌会。会者は永代、安成二郎、花岡桃崖ら7名。「大阪に於ける新短歌会が公開的に開催せられた最初のもの*14」。
      4月15日 美知代の「侮辱」が《女子文壇》臨時増刊(4年6号)で天賞。
      4月 岡田實麿、東洋大学講師(英語)となる*15
    5月15日 《新潮》8巻5号に「解放」。
    永代は神田錦町河岸の印刷所の2階、旅行新聞社に勤めていた頃、甲賀町の停留所で花袋と会う(時期不明)。
      9月4日 美知代、懐妊のため、中山三郎の策で九十九里浜(千葉県長生郡本納)へ失踪。
      10月14日〜42年2月14日 花袋、新聞〈日本〉に『妻』連載。
    12月3日 〈読売新聞〉に永代の長篇『さすらひ』が島村抱月の序文で来春出版予定との記事が載る(安成二郎執筆)。花袋はここから永代の居所を探り出し、中山と面会。牛込柳町多摩川館に中山と同居(?)していた永代に面会を求める葉書を出す。
    12月 永代と安成二郎、徳田秋聲を訪問*16
    12月31日 永代と美知代、牛込区原町3丁目11番地の新居に移る。中山が家を探し、安成二郎が所帯道具を調える。
明治42(1909)年    23歳
    1月1日 田中穂積とともに永代ら約30名の早稲田出身者が〈東京毎日新聞〉に入社(実際には前年末)
    1月8日 田山花袋夫人・里さ(太田玉茗妹)、永代を訪問。
    1月9日 永代、井上哲次郎を訪問。
    1月14日 美知代、形式的に田山家の養女となり、永代に嫁ぐ
    1月中旬 石島薇山と中山を媒酌人として結婚披露の通知状を出す。
    1月20日 『新島襄言行録』内外出版協会〈偉人研究〉第55編。初の単行本。
    3月20日 長女・千鶴子生。美知代の「ち」と静雄の「づ」から惠美孝三が命名。
    春 同居していた中山、本郷へ転居。永代夫妻、四谷へ移る。〈中央新聞〉社長大岡育造、小野P不二人を主幹兼編輯局長として〈二六新報〉より招聘。〈二六〉時代の同僚、安成貞雄の推薦で永代も〈中央新聞〉へ移籍。文芸兼家庭部長・惠美光山(孝三)。社会部長・堀紫山。のち、若山牧水も入社。
    6月13日 〈中央新聞〉に匿名で「老嬢の告白」連載(〜8月11日)*17
    7月1日 「黒姫物語」連載開始(〜43年8月)。チャールズ・キングズリー『水の子』の翻案。
    8月20日 《秀才文壇》臨時増刊9巻18号に永代「崖下の家」。安成兄弟がモデル。
    8月22日 田山里さ、永代を訪問*18
      11月 美知代、水野仙子と共に代々木初台に同居(これ以前に永代と別れ、一時田山家に仮寓)。
    12月20日頃 永代、光用穆ら小野P一派が〈中央新聞〉を連袂辞職*19。同月初め、若山牧水も退社(病気のためか)。以後〈中央〉は政友会機関紙となる。
明治43(1910)年    24歳
      1月17日 千鶴子、太田玉茗(三村玄綱)の籍に入り「三村千鶴子」となる。
      2月1日 水野仙子、花袋の推薦で《中央公論》25年2号に「お波」を発表。
      その原稿料で、美知代と千鶴子と共に福島県飯坂温泉で1ヵ月ほど静養。
      2月12日 丸山薄夜(英観)『愛ちやんの夢物語』内外出版協会より刊行
      3月 美知代と仙子、太田玉茗の建福寺(埼玉県羽生)に1ヶ月滞在。
      3月29日 花袋、〈毎日電報〉に『縁』連載(〜8月8日)。
    3月1日 若山牧水の《創作》創刊号に散文詩「断崖の獣」。この年いっぱい同誌に永代の詩や評論が載る。
    4月20日 永代、初台に美知代の荷物を取りに現れる*20。美知代と富山市山王町へ移る。
      5月1日 《趣味》5巻5号に薄田泣菫「雨の日」。作中の「浦井時夫」のモデルは永代静雄。
    6月6日 永代〈富山日報〉「入社の辞」。
      6月8日 丸山薄夜(英観)訳『懸賞小説 動物の同盟罷業』内外出版協会。
    8月16・25日 永代方美知代宛、實麿書簡。水害見舞への返礼など。
      9月1日 美知代、《スバル》2年9号「ある女の手紙」で花袋を非難。以後、筆名は永代美知代に。
      12月1日 《中央公論》25年12号に永代美知代の代表作「一銭銅貨」。
明治44(1911)年    25歳
    1月1日 〈富山日報〉社員名簿で上段筆頭、惠美孝三。下段筆頭、永代静雄。
      同日 《新潮》14巻1号「文士の放恣なる実際生活を女性作家はどう見て居るか」に水野仙子らの談話。
    3月5日 富山市で長男・太刀男、生。
      同日 《少女の友》4巻4号に永代美知代、水野仙子、山田邦子らの少女小説。
    3月下旬 大阪の〈帝国新聞〉創立事務所で結城禮一郎と初対面。
    4月8日 〈帝国新聞〉創刊。永代は惠美孝三とともに入社。薄田泣菫、画家・森田恒友も同僚。
    6月30日 千鶴子、脳膜炎のため死亡(満2歳)。
    夏 永代夫妻、別府温泉で休養。学生時代の田中純に会う。
    7月中旬より明治村(現・宇佐市)で『都会病』の翻訳を進め、9月 別府へ戻る。
      9月 結城禮一郎、薄田泣菫ら〈帝国新聞〉を連袂退社(永代はこれ以前に退社)。
    冬 別府温泉に招待した森田恒友が、太刀男を葉書2枚にスケッチ。
    帰京後、〈日本週間新聞〉の記者になったとする説あり。
明治45年/大正元(1912)年   26歳
      1月1日 花袋、《早稲田文学》第74号に「幼きもの」。千鶴子の死を描く。
    1月3日 永代一家、花袋宅を年賀に訪問。
    3月 惠美光山を顧問として京橋に大勢社を創業*21。以下の〈問題叢書〉三編を刊行。
    3月31日 堀江歸一(慶応教授)『緊急経済論策』。
    4月10日 光山惠美孝三『国家と宗教政策』。
    4月14日 武富時敏 述(永代静雄編)『制度整理要論』。
    9月 渡米。サンディエゴより美知代宛に葉書。
      9月1日 《家庭パック》1巻5号に美知代の小品「虫干」。萬壽代がモデル。
    この頃、永代、〈東京毎夕新聞〉に入社。7月以前に木村政次郎社長が小野P不二人を招聘。半年後、小野Pが「中央新聞時代の幕僚永代静雄を説き落して社会部長として入社せしめた*22」。
    11月25日 湘南生名義で『小説 終篇不如帰』を紅葉堂書店より刊行
    12月25日 永代静雄の名で『アリス物語』紅葉堂書店より刊行。序文・星野水裏。
大正2(1913)年    27歳
    1月20日 湘南生『逗子物語』紅葉堂書店(不如帰小説叢書)。
    3月1日 《家庭パック》2巻3号にマークツエーン作、永代静雄訳「恋の女神(ヴ井ナス)像」。
    同日 《少女の友》に「愛国小説 満朝の花」連載。第二革命期の中国を舞台に少女パイロットが活躍(〜12月)
    4月1日 《婦人評論》2巻7号 永代訳「小説『珠数の曲』 (ザ・ローザリー)」(〜5月。全3回)。
    夏 栃木県那須温泉へ逗留*23
    12月20日 ルネ・バザン原著、永代訳『都会病』北文館より刊行。序文・馬場孤蝶。
大正3(1914)年    28歳
      2月1日 《ニコニコ》37号に永代美知代「新カーテン、レクチユアー」。《ニコニコ》誌、初登場。
    2月10・12日 シーメンス事件による民衆暴動で〈東京毎夕新聞〉も標的となる。
    5月1日 『黒姫物語』三芳屋書店より刊行。序文・新渡戸稻造。
    8月1日 《中央公論》29年9号、安成二郎「東京十二新聞の社会部長」に「ニユースは作るべきもの」寄稿*24
      同日 《少女世界》9巻8号、永代美知代「地獄の御飯のたべられる/湯の宿から」。別府からの通信。
    9月10日 『女皇クレオパトラ』奈翁会より刊行(国会図書館所蔵本には25日発行と記載。実際には6日頃発売)。多くの部分でシェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』の初訳。
    9月 廣津和郎、父・柳浪の口利きで〈毎夕新聞〉社会部に入り、永代の部下となる(〜4年2月)。
    11月15日 ドーデー作、永代静雄訳『画家の妻 附録 盲皇帝』秋田書院より刊行。
大正4(1915)年    29歳
    3月29日 〈読売新聞〉「よみうり婦人附録」に永代と美知代の離婚を報じる「閨秀作家/破鏡の嘆/芸術に生きんとする美知代女史」。中山の回想によれば破局の理由は永代が岡田萬壽代に恋したため。
    4月17日 永代静雄訳『独逸工業の発達』実業之世界社〈新知識叢書〉刊行。
      5月4日(国会本15日) 花袋『日本一周 中編』。回想「備後の山中を経て三次へ」を含む。
    5月16日 松崎天民〈東京毎夕新聞〉入社(〜5年2月)。
    7月14日 神戸より美知代宛永代静雄書簡。すでに復縁している。
    夏 東京各紙の社会部長団が別府へ招待される。〈時事新報〉千葉龜雄、〈国民新聞〉大竹博吉、〈報知新聞〉長井柳夢と同席。
      9月1日 《新潮》に永代美知代「『蒲団』、『縁』及び私」。
大正5(1916)年    30歳
    1月1日 《廿世紀》3巻1号「当世文士細見」(一)で永代静雄、永代美千〔ママ〕代の住所は四谷舟町35。
      同日 《ニコニコ》60号に永代美知代「今様閨語」。
      1月10日(国会本13日) 安成二郎『貧乏と恋と』実業之世界社。永代静雄と光用穆の跋文。
    1月15日 大判雑誌《イーグル》創刊(イーグル社創業)
      6月7日 大杉榮、伊藤野枝宛書簡で《イーグル》誌のゴシップに言及。
    8月23日 『大ナポレオンの妻』実業之日本社より刊行。
    11月9日 大杉榮、伊藤野枝との三角関係から神近市子に刺される(葉山日蔭茶屋事件)。永代、事件を佐藤緑葉に伝える。
大正6(1917)年    31歳
    1月1日 絵雑誌《幼年の友》9巻1号から「フシギナ クニ」連載(〜3月)。4月「フシギナ杖」、5月「フシギ ナ ネズミ」、6月「ナガイユメ」掲載。永代『アリス物語』のリライト作品
    同日 《日本少年》12巻1号にSF軍事冒険小説「飛行式潜航艇 怪頭号」(〜6月)。8年まで同誌に連載。
    3月19日 美知代、正式に永代の籍に入る
      6月15日 花袋『東京の三十年』博文館。
      10月1日 《中央公論》32年11号に廣津和郎「神経病時代」。社会部長の「齋藤」は永代がモデル。
      10月10日 岡田萬壽代、八谷(やたがい)正義と結婚。
      11月28日 永代美知代『花ものがたり』科外教育叢書刊行会。
大正7(1918)年    32歳
      2月 谷崎精二、牛込区弁天町に妻・郁子と住む。永代夫妻が媒酌人となった精二の結婚はこの頃か。
    3月1日 《中外》2巻3号に「比較的上出来」。
    10月7日 中華民国に旅行する谷崎潤一郎の送別会が鴻の巣で開かれる。発起人は佐藤春夫、上山草人。出席者に赤木桁平、江口渙、久米正雄、芥川龍之介、吉井勇、田中純、安成貞雄、瀧田樗陰、里見ク、永代ら。
    10月30日 『天体旅行』自学奨励会より刊行(大正8年、髟カ館からも刊行)。学習書だがSF。
大正8(1919)年    33歳
    3月1日 葛西善蔵『子をつれて』新潮社から出版。本郷の燕楽軒で出版記念会。出席者は徳田秋聲、上司小劍、武林夢想庵、中村星湖、相馬泰三、谷崎精二、秋庭俊彦、廣津和郎、福永挽歌、舟木重雄、安成二郎、中村武羅夫、生田春月、加藤武雄、水守亀之助、光用穆、永代ら。
    6月24日 〈東京毎夕新聞〉を退社し〈東京毎日新聞〉に入社。9月〈毎夕〉へ復社。
    8月15日 高木角治郎 編『伊香保みやげ』伊香保書院。永代「小さな想出」収録。他の執筆者は谷崎潤一郎、上司小劍、芥川、徳田秋聲、馬場孤蝶、前田夕暮、田山花袋、松崎天民、木下尚江、谷崎精二、正宗白鳥ら。
大正9(1920)年    34歳
      3月15日 楠山正雄訳『不思議の国』家庭読物刊行会/精華書院より刊行。
    9月4日 永代、〈東京毎夕新聞〉辞任*25。光用穆も同じ頃〈毎夕〉記者を辞し永代に従う。
    10月23日 《新聞及新聞記者》新聞及新聞記者社、初号発行。同社住所は小石川原町91。
      10月25日 倉橋惣三監修『幼児に聞かせるお話』内田老鶴圃に「アリス物語」。
      大正10(1921)年8月1日 鈴木三重吉《赤い鳥》に「地中の世界」連載(〜11年3月)。
大正11(1922)年    36歳
    1月 新聞及新聞記者社を新聞研究所と改称、京橋区南鍋町に事務所を構える。
    1月2日〜 新聞紙法に則った日刊〈新聞研究所報〉を発行。
    11月1〜8日 新聞学講座開設。参加者234名。
      この年、光用穆の肺患が悪化、大正12年前半は入院生活を送っていたか。
大正12(1923)年    37歳
    新聞研究所、大正13年版〈日本新聞年鑑〉発行。以後、毎年刊行。中山泰昌(三郎)が《出版内報》創刊。
      4月17日 母きや子、没(63歳)*26
      12月8日 ストウ婦人原著、永代美知代訳『奴隷トム』誠文堂〈愛の学校叢書〉第2編。
大正13(1924)年    38歳
    5月1日 《改造》永代静雄「今の新聞経営者の悩み」
      7月23日 安成貞雄、没(39歳)。
    10月 永代、吉川町・天津(あまつ)神社神宮寺神官の墓地に父母の墓を建立。
大正14(1925)年    39歳
    12月8日 本郷燕楽軒で安成二郎『子を打つ』の出版記念会。堺利彦、高畠素之、江口渙、徳田秋聲、廣津和郎、葛西善蔵、加能作次郎、三上於菟吉、宇野浩二、三宅やす子、中條百合子、岡田三郎、今井邦子、千葉龜雄、結城禮一郎、土岐善麿、小野秀雄、宮田修、永代ら。
    12月10日 岡田實麿執筆の学習書『最新 英文解釈の基礎』を永代静雄が発行(発売 研精堂)。
大正15年/昭和元(1926)年   40歳
      1月 中山泰昌、出版内報社を独立させる。
    7月23日 安成貞雄三周忌。宮田脩、佐藤緑葉、野依秀一、猪股電火、永代らが出席。
    10月15日 《新聞及新聞記者》創刊7周年記念号、新聞研究所の陣容は、所長永代、主幹光用、編集部長中村勝治、同幹事中村誠、調査部長氏家司治、総務部長金子清吉、同次長佐藤十三、同次長宮村富男、供給部長松村吉太郎、他。
    この年、美知代、永代と別れ《主婦之友》記者として太刀男を連れて渡米
昭和2(1927)年    41歳
    4月 日本新聞学院設立。10日 築地武蔵野女子学院講堂で始業式。澤柳政太郎らの奨励の辞、田中義一政友会総裁、床次竹二郎政友本党総裁、岡田良平文相、濱口雄幸内相、若槻禮次郎首相、村山龍平、本山彦一、光永星郎らの祝辞、坂口二郎、馬場恒吾らの答辞、徳富猪一郎(蘇峰)の講話。11日から築地本願寺構内で授業(夜学)*27。1年間の専門教育機関で、翌年40名程の卒業生を送り出した。
    11月15日 〈同志社新聞〉No.14に「自由時代―明治三十七八年頃の思ひ出―」。
      11月18日 菊池寛・芥川龍之介共訳『アリス物語』興文社〈小学生全集〉刊
    この年、大河内ひでと結婚。太刀男、結核のため単身帰国、岡田の親類縁者を経て永代に引き取られる。
昭和4(1929)年    43歳
    1月1日 《実業之日本》32巻1号に「御大礼と新聞の争覇戦」を寄稿。
昭和5(1930)年    44歳
      5月13日 田山花袋、没(58歳)。
    6月 新聞研究所の所員たちと満鮮旅行に出る。立川飛行場を出発、京城、奉天、大連などを回る。
昭和6(1931)年    45歳
    7月15日 『綜合ヂャーナリズム講座 第十巻』内外社に「新聞トラスト論」。
    10月31日 妹のぶゑ の2男・山田博二の遭難追想録『憧れの山へ』(山田惣太郎編輯・発行)に跋文。
    11月3日 『蘇峰先生古稀祝賀 知友新稿』民友社に「先生を繞る数氏と私」を寄稿。
昭和7(1932)年    46歳
    5月10日 太刀男、結核のため没(21歳)。在所は東京府荏原(えばら)郡大森町(現・大田区)5775。
    12月10日 永代を所長として満蒙研究所設立。
昭和8(1933)年    47歳
    1月16日 坂口二郎を訪問。満蒙研究所の理事となることを頼み、許諾を得る。
    2月13日 大蔵公望の研究室を訪問。
      8月16日 岡田胖十郎、没(美知代の父。80歳)。
    この年より伝書鳩を飼い始める。
昭和10(1935)年    49歳
    4月18日 《普鳩》中央普鳩会、第1号発刊
      昭和11(1936)年 帝協(全国規模の鳩の協会)結成される。
昭和13(1938)年    52歳
    8月10日 永代静雄 編纂『日本新聞社史集成 上巻』新聞研究所。
      昭和14(1939)年2月15日 岡田ミナ(美那)没(美知代の母。80歳)。
昭和15(1940)年    54歳
    4月10日 〈東京朝日〉相談役小西勝一氏の本社葬に際し、弔問。
    この年、新聞研究所、情報局より解散を命じられる。〈日本新聞年鑑〉昭和16年版は発行された。荏原区(現・品川区)豊町に移る。
      昭和16(1941)年3月頃 大戦を前に美知代、米国より帰国。約4ヶ月横浜港へ足止め。7月下旬か8月上旬 広島市大手町の親戚筋の岡田六一方へ。
昭和17(1942)年    56歳
    3月10日 天羽(あまう)英二へ大東亜伝書鳩総聯盟発起人の依頼。永代と近衛文麿に繋がりがあったのはこの頃か(天羽は昭和16年10月 近衛内閣外務次官を辞職。のち大蔵公望の依頼で東亜研究所の第一特別委員長。昭和18年 東条内閣の改造で情報局総裁に)。
    6月 関口龍雄を中心に大東亜伝書鳩総聯盟を設立。全国の著名人100余名の創立賛成。
    6月27日 大東亜伝書鳩総聯盟、第1回役員会開催。理事長は陸軍大佐・長谷榮二郎。事務局長常任理事に永代。関口は常任理事。
      5月下旬 美知代、八谷家のある庄原市川北町へ移る。6月30日 八谷萬壽代、札幌で死去(45歳)。
昭和18(1943)年    57歳
      8月18日 岡田實麿、没(65歳)。
      10月12日 光用穆、没(56歳)。
    11月16日 伝書鳩総聯盟事務局参事下平英輔、同 黒川光之の入隊に際し、永代宅にて送別会。
    12月17・20日 総聯盟、役員会。長谷理事長、永代事務局長は退任。新理事長は関口(代行という形)。
    12月 《普鳩》廃刊。全103号。
昭和19(1944)年    58歳
      4月5日 伝書鳩総聯盟で《普鳩》の後続誌として《東亜鳩界》を発行。
    6月9日 美知代を除籍、18日 ひで入籍。
    8月10日 腸チフスにより陸軍軍医学校にて没。葬儀は新聞関係者約20名が出席。鳩界からは関口と阿部亀吉が出席。中山泰昌と関口が弔辞。戒名(法名)静光院釋善導居士。
      昭和20(1945)年11月25日 大東亜伝書鳩総聯盟解散。
      昭和32(1957)年1月7日 美知代の夫、花田小太郎、没*28。初秋、原博己(「岡田美知代の素顔」などの著者)が美知代を初めて訪問*29
      昭和33(1958)年12月25日 中山三郎(泰昌)、没(74歳)。
      昭和43(1968)年1月19日 美知代、没(82歳)。
      昭和49(1974)年4月30日 安成二郎、没(87歳)。



    *1 さや、は戸籍。きや子は位牌による。
    *2 神戸教会〈教会月報〉41号(3月10日)「報告」欄。『『蒲団』をめぐる書簡集』などでは明治35年に入会していたとするが、35年の〈教会月報〉に永代の消息はない。本年譜で神戸教会関係の記事は、ほぼ〈教会月報〉による。
    *3 同志社『生徒学籍簿 明治三十六年四月改正(明治三十七年十月迄)(五冊の三)(M-O)』に「三十六年四月ヨリ関西学院本科一学年修業中」とある。関西学院の名簿には永代の名は残ってない。
    *4 洗礼時の気持ちを書いたものとする『『蒲団』をめぐる書簡集』の解釈は疑わしい。〔後記。洗礼から3ヶ月経ち教会内での活動も担うようになってからの述懐なので、こう評したが、大まかな意味では入会当時の気持ちを書いていると言えるかも知れない。〕
    *5 同志社『生徒学籍簿』(注3に同じ)に「三十六年九月第二学年/第二期え〔ママ〕入学」とある。従来説では神学生とされているが、神学校でなく普通学校の生徒だったことは〈同志社新聞〉8号(38年5月1日)「同志社学生名簿」により明らか。
    *6 《同志社校友会報》14号、6月27日。
    *7 〈同志社新聞〉6号、3月15日。
    *9 〈基督教世界〉1143号、7月27日発行。
    *10 この会には美知代が参加した可能性はほとんどなく、重要度は低い。
    *11 緑葉「田山花袋について」《東国》1巻1号、上毛新聞社、昭和21年。
    *12 〈上毛教界月報〉106号、8月15日。
    *13 《山鳩》48〜50号(明治41年4月〜8月)「武蔵野横断記」。
    *14 《上方》26号(昭和8年2月1日)、花岡桃崖「大阪短歌界の揺籃時代」。会場については《八少女》1巻2号(明治41年4月29日)、桃崖報「▼雨滴会(大阪)」による。
    *15 東洋大学井上円了記念学術センター『東洋大学人名録 役員・教職員 戦前編』平成8年。
    *16 安成二郎『花万朶』同成社、昭和47年。
    *17 有元伸子「『中央新聞』掲載の推定・永代美知代作品「老嬢の告白」」(《内海文化研究紀要》41号、平成25年)によれば、静雄と合作の可能性もあるが、執筆の主体は美知代であるとする。
    *18 23日付白石實三宛、永代静雄書簡。
    *19 光用穆「中央新聞時代」(《創作》16巻11号、昭和3年12月)。
    *20 山田邦枝子〔ママ〕『姿見日記』(女子文壇社〈女子文壇叢書〉第2編、大正元年)、「丘の家の日記」。この資料には20日とのみ書かれ永代の訪問したのが3月の可能性も残らないではないが、美知代が初台の水野仙子と山田邦子(邦枝)との家を離れたのは小林一郎『田山花袋研究』の年譜では「建福寺から東京に帰り一週間経ったある日」。
    *21 〈読売新聞〉3月12日。
    *22 永代編纂『日本新聞社史集成』昭和13年。従来の資料では大正2年に〈毎夕〉に入社したとするものが多いが、永代「先生を繞る数氏と私」(『蘇峰先生古稀祝賀 知友新稿』昭和6年)に大正元年に入社したと明記されている。
    *23 永代美知代「地獄の御飯の食べられる/湯の宿から」。
    *24 広岡卓三『永代静雄伝』以来、多くの資料で大正7年毎夕新聞社社会部長、8年編集局長とするが、遅くとも大正3年には社会部長である(おそらく大正7年社会部長としたのは《中外》2巻3号(大正7年3月)所載の永代「比較的上出来」の肩書きからだろう)。
    *25 《新聞及新聞記者》1巻1号による。従来の研究では8年11月に社を辞めたとなっているが正確ではない。
    *27 〈国民新聞〉4月12日。
    *28 墓碑銘による。11月没とするのは誤り。
    *29 原氏への取材による。『晩年の岡田美知代』などでは昭和34年、「岡田美知代の素顔」では33年としていた。




  主要参考文献

広岡卓三(卓巳)『永代静雄伝』さつき句会、昭和34(1959)年頃
小林一郎『田山花袋研究 ―博文館時代(一)―』桜楓社、昭和53(1978)年
小林一郎 監修「第8回特別展 ―もう一人の『蒲団』のモデル―永代静雄展」パンフレット、館林市教育委員会、平成3(1991)年
館林市教育委員会文化振興課 編『『蒲団』をめぐる書簡集』〈田山花袋記念館研究叢書〉第2巻、館林市、平成5(1993)年
原博巳(博己)「岡田美知代の素顔 ―田山花袋『蒲団』のモデル」、《梶葉》Y号、「梶葉」刊行委員会、平成10(1998)年7月
田中英夫《孤剣雑録》120号、平成15(2003)年8月
ブログ『神保町系オタオタ日記』 http://d.hatena.ne.jp/jyunku/

横田順彌『古書ワンダーランド @』平凡社、平成16(2004)年
横田順彌『近代日本奇想小説史 明治篇』PILAR PRESS、平成23(2011)年
千森幹子「『不思議の国のアリス』の翻訳者丸山英観再考 ―『不思議の国のアリス』と山梨―」、山梨県立大学地域研究交流センター編・発行『やまなし地域女性史研究プロジェクト 2007年度研究報告書』平成20(2008)年3月
千森幹子『表象のアリス テキストと図像に見る日本とイギリス』法政大学出版局、平成27(2015)年

大西小生『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』ネガ!スタジオ〈シリーズ永代静雄作品研究〉1、平成19(2007)年
大西小生『復刻版 愛国小説 満朝の花』ネガ!スタジオ〈シリーズ永代静雄作品研究〉2、平成14(2002)年
大西小生『解題「女皇クレオパトラ」「大ナポレオンの妻」』ネガ!スタジオ〈シリーズ永代静雄作品研究〉3、平成18(2006)年

   〔2017年 8月10日。最終更新 2022年 8月10日〕

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