2007 永代静雄研究余録 (3)

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Kobe church
 5月13日、永代静雄の初期の活動を跡付ける調査のため、神戸教会 を訪ねた。
 永代静雄と岡田美知代は、神戸教会の縁で知り合ったのである。
 といっても、神戸女学院(教会とは密接な関係にあった) に学んでいた岡田美知代は、上京して田山花袋に弟子入りしているし、永代は永代で、神戸教会の有力者に学資を出してもらい京都の同志社に通ったから、単純に教会でお互いを見初めたというような話ではない。
 小説 「蒲団」 については、随分これまで研究されているが、本当のところ永代静雄と美知代が、いつ出会ったかさえ、正確には判ってない。
 例えば、永代から美知代への最初のハガキだろうと思われるユリの花を あしらった絵ハガキが残っている (「蒲団」 にも 「須磨の浜で、ゆくりなく受取った百合の花の一葉の端書」 という形で出て来る)のだが、これは裏側の書面だけが残っており、ハガキの表書きは剥離してどこかへ散逸してしまっていて、明治何年に出されたものか判らない。
 といっても、ふつうに事実関係を整理していけば、明治38年のものとしか考えられないのだが、現在もっとも詳しい研究書である 『『蒲団』をめぐる書簡集』(〈田山花袋記念館研究叢書〉第二巻、1993.) では、38年に美知代が広島の上下町へ帰省中であることから、37年のハガキという推測も載せている。 しかし最初に出したハガキなのだから、美知代が帰省中などとは知らないのが当然だ。  逆に37年と考えると(詳しい説明は別の機会にしたいが)、田山花袋の家から その妻の姉の家へ引っ越したばかりの美知代の消息を、永代が熟知していることになり、不自然 極まりない。ちなみに、この引越しも花袋が日露戦争に従軍したことが直接の原因と推定され、「蒲団」 から想像されるような、花袋の妻の嫉妬によるものとは考えにくい。
 おそらく永代の絵ハガキは東京から、改めて美知代の下へ送られたのだろう。花袋が小説に 「須磨の浜で」 受取ったと書いたのは、当時、神戸にいた兄・岡田実麿の家で、帰省途中の美知代がハガキを読んだからではないかと思われる。もっとも、その後、神戸教会主催で行った須磨の 「霊性修養会」 で、永代と美知代が直接、会っていたとすれば、その出会いを織り込んだ表現とも考えられなくはない**
 しかし、どうして38年のものを 37年に繰り上げるような誤解が生じたのだろう?
 ひとつには、永代の友人・中山蕗峰が、「蒲団」 の発表後、小説中で悪しざまに描かれた永代を弁護する目的で書いた文章に、 “たしか三十六年の秋も十月のこと、僕が 京都のさる大会 へ出席” した翌日、永代に、教会員で田山花袋の門に入って修行している女性作家の志願者がいるという話をした。 そのとき永代は “『さうかい、あれがさうだったかい』 と言った丈けで、まだ互に相知ってはゐなかったと思ふ。” と書いたことが問題を呼んだのかも知れない 〔原文、促音は大文字。明らかな欠字は補った〕。
 この言い方だと、永代は美知代と言葉をかわしたことは無いにせよ、顔と名前は知っていたと考えられる。
 しかし、京都の大会というのは明治37年10月に開催されたもので、36年というのは記憶違いだ。
 これは今回、神戸教会に足を運んで、一次資料によって確認した。
 ユリの絵ハガキは 「五月十三日」 に書かれたもので、内容から見て、永代が中山から美知代の話を聞かされる以前に出されたとは、考えられない。 つまり、38年 5月13日のものである。  まぁ永代がすでに美知代を深く知っていて、中山の前では そらとぼけて見せたんじゃないかとか、そういうことまで疑い出せばキリがないが、「蒲団」 事件全体の流れを見る限り、あえて勘繰らなければならないような点は無いと言っていい。
 文学関係では、勘繰れば勘繰るほど正しい研究になるとでも思っている人がよくいるが、そういうのはロクな結果にむすびつかない。 ふつうに考えてみて筋道の通る解釈が成り立ったときが、正しいのである。
 京都の大会が 37年というのは中山の別の回想には書かれていて、花袋記念館の方々も よく知っておられたはずなのに、妙な誤りが併記されてしまったのは残念だ (ハガキの翻刻資料では慎重に、単に年代不詳としているが)。
 この一点だけでなく、神戸教会の資料から、永代や中山、岡田実麿らの周辺について、正確な消息が得られることは大きい。 ただ、資料自体は、そう多くないのだが、教会での閲覧時間が 1、2時間しかとってもらえないから、作業がはかどらない。 牧師や伝道師といった教会に従事する人は驚くほど出張が多く、いつも行事に追われている感じだ。  来週、もう一度、訪問して、関係資料のコピーを取り終える予定。   〔5月20日〕

     これは執筆者・ 小林教授の 『田山花袋研究 -博文館時代(一)-』(1978.) では、明治38年と見ているように読めるが、 『田山花袋研究 -博文館時代(二)-』(1979.) の年表では、明治37年説を採用 している。 この誤り は 『神戸女学院百年史 各論』 (1981.)にも引き継がれている。
    ** その後の調べで、美知代は須磨の 「霊性修養会」 には参加していない可能性が、かなり高まった (ほぼ確定)。 参加したのは、摩耶山 のふもと、関西学院 原田の森キャンパスを主会場 に行われた夏期学校である。詳しくは 拙著 『「アリス物語」「黒姫物語」 と その周辺』 を参照のこと。
 

picture postcard(lily)

“同じ神戸教会に籍を列(つら)ねたる わが微(ちい)さき名 識(し)り玉ふやいなや。”という書き出し。 中央右に“五月十三日”とあり、左に“京都蘇溪”と署名されている。消印は読めない。『『蒲団』をめぐる書簡集』によると白百合の花は“自製画”(カラー)。 横田正知〈日本文学アルバム〉24『田山花袋』(筑摩書房、1959.)より転載。この本が出た時点では、表書きは まだ剥離しておらず、美知代も健在だった。

 

 後記。 前段は、京都の組合教会信徒大会が明治37年10月に開かれているから、永代から美知代に送ったハガキはそのあとのもので、37年でなく38年 5月13日 に書かれたという話だった。
 この 1年の違いは伝記的には重要で、従来の37年説というのは永代と美知代が早くから親しかった、という前提で物事を見る立場に由来している。  当然、38年9月に永代と美知代が琵琶湖畔でデートした時などは、交際開始から 1年以上経ち、2人はねんごろになっていたと想像できるわけだ。
 しかし実際には、5月に初めてハガキが送られ、9月の旅行までには7月24日に関西学院の夏期学校で顔を合わせたきりである。
 拙サイトをわざわざ読むような方ならご存じの通り、田山花袋の小説「蒲団」では 2人の間に肉体関係があったように書かれているが、美知代自身は否定している。
 小谷野敦氏のように美知代の弁明を、てんから信じない人もあるし、今日では早々と婚前交渉があったところで別に問題でもないから、私も強硬に主張するわけではないが、経緯を整理してみた限りでは美知代の話には信憑性があると思えるのだ。これは、また場を改めて語ろう。
 ここでは最初の手紙が本当に38年のものか、という点に的を絞って検証したい。
 まず京都の日本基督組合教会の大会というのは神戸教会の〈教会月報〉だけでなく、同志社神学校・普通校・専門学校で学生が出版した〈同志社新聞〉の三号(明治37年11月 1日発行)にも記事がある。
 37年10月19日から25日までの間に、嵯峨野で組合教会教役者第11回総会、同志社で日本組合教会第21回総会が催され、問題の信徒大会は24日夜、同志社公会堂に於いて開かれた。36年の秋には、京都もしくは神戸で、このような大会は無い。
 実は〈同志社新聞〉には永代自身の書いた21回総会における演説会と信徒大会のレポートも存在する (奈賀世志圖男「活人剣」)。
 安部清蔵、海老名弾正、小崎弘道、綱島佳吉、宮川経輝の演説、説教の様子が語られ、原田助(はらだ たすく。当時、神戸教会牧師。明治40年から同志社社長)が「信徒大会宣言書」を捧げた、とある。
 以上、述べて来たような大会の話は、これだけでも38年説の傍証になるが、拙著『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』 には書いていない。
 拙著に書いたのは、最初の手紙が明治38年のものだという、もっと決定的な証拠だ。
 そのハガキで、永代静雄は“蘇溪”というペンネームを用いている。
 このペンネームが、38年の一時期にしか使われてないものなのである。
 小木曾旭晃(こぎそ きょっこう)が主幹を務める地方文芸誌《新文藝》に、永代の作品が載っているのだが――

 見たとおり、ハガキが38年5月のものなら、ペンネームは、ぴたりと一致する。
 この雑誌は、岐阜県図書館にコピー誌が残っている。 小木曾の『地方文藝史』(教育新聞発行所、明治43年)に永代静雄の名前が載っていたところから発掘した。
 ちなみに長詩というのは原本の記載だが、俳句・短歌の短詩形文学に対して言ったもので、現代詩という意味。さして長いものではない。
 初期に於いて永代は僊溪(せんけい)というペンネームを使うことが多かったのだが、なぜ短い間、蘇溪を名乗ったのか?
 すぐにその名前をやめた理由は、宮川経輝も蘇溪の号を使っているからだろう。
 その蘇溪の号は友人たる徳富蘇峰と、原田助の号・溪鹿から採ったのではないか。
 あるいは永代も同じ考えでペンネームを選んだのかも知れない。宮川から直接ペンネームをもらったわけではあるまい。
 ともあれ、美知代への最初のハガキは明治38年5月、ということで、この問題には決着がついたと言えるだろう。
〔2014年7月13日。最終更新2017年6月4日〕

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