後記。 前段は、京都の組合教会信徒大会が明治37年10月に開かれているから、永代から美知代に送ったハガキはそのあとのもので、37年でなく38年 5月13日 に書かれたという話だった。
この 1年の違いは伝記的には重要で、従来の37年説というのは永代と美知代が早くから親しかった、という前提で物事を見る立場に由来している。
当然、38年9月に永代と美知代が琵琶湖畔でデートした時などは、交際開始から 1年以上経ち、2人はねんごろになっていたと想像できるわけだ。
しかし実際には、5月に初めてハガキが送られ、9月の旅行までには7月24日に関西学院の夏期学校で顔を合わせたきりである。
拙サイトをわざわざ読むような方ならご存じの通り、田山花袋の小説「蒲団」では 2人の間に肉体関係があったように書かれているが、美知代自身は否定している。
小谷野敦氏のように美知代の弁明を、てんから信じない人もあるし、今日では早々と婚前交渉があったところで別に問題でもないから、私も強硬に主張するわけではないが、経緯を整理してみた限りでは美知代の話には信憑性があると思えるのだ。これは、また場を改めて語ろう。
ここでは最初の手紙が本当に38年のものか、という点に的を絞って検証したい。
まず京都の日本基督組合教会の大会というのは神戸教会の〈教会月報〉だけでなく、同志社神学校・普通校・専門学校で学生が出版した〈同志社新聞〉の三号(明治37年11月 1日発行)にも記事がある。
37年10月19日から25日までの間に、嵯峨野で組合教会教役者第11回総会、同志社で日本組合教会第21回総会が催され、問題の信徒大会は24日夜、同志社公会堂に於いて開かれた。36年の秋には、京都もしくは神戸で、このような大会は無い。
実は〈同志社新聞〉には永代自身の書いた21回総会における演説会と信徒大会のレポートも存在する (奈賀世志圖男「活人剣」)。
安部清蔵、海老名弾正、小崎弘道、綱島佳吉、宮川経輝の演説、説教の様子が語られ、原田助(はらだ たすく。当時、神戸教会牧師。明治40年から同志社社長)が「信徒大会宣言書」を捧げた、とある。
以上、述べて来たような大会の話は、これだけでも38年説の傍証になるが、拙著『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』 には書いていない。
拙著に書いたのは、最初の手紙が明治38年のものだという、もっと決定的な証拠だ。
そのハガキで、永代静雄は“蘇溪”というペンネームを用いている。
このペンネームが、38年の一時期にしか使われてないものなのである。
小木曾旭晃(こぎそ きょっこう)が主幹を務める地方文芸誌《新文藝》に、永代の作品が載っているのだが――
《新文藝》 一〇号 (明治37.11.15.)永代僊溪「独嘯」(長詩)
《新文藝》二巻三号(明治38. 2.10.)永代僊溪「乱れ曲/(赤誠一片、木曾愛兄に贈る)」(長詩)
《新文藝》二巻五号(明治38. 4.10.)永代蘇溪「狂?」〔小説〕
《新文藝》二巻八号(明治38. 7.10.)永代磨溪(蘇溪改)「批評家の態度」(評論)
見たとおり、ハガキが38年5月のものなら、ペンネームは、ぴたりと一致する。
この雑誌は、岐阜県図書館にコピー誌が残っている。 小木曾の『地方文藝史』(教育新聞発行所、明治43年)に永代静雄の名前が載っていたところから発掘した。
ちなみに長詩というのは原本の記載だが、俳句・短歌の短詩形文学に対して言ったもので、現代詩という意味。さして長いものではない。
初期に於いて永代は僊溪(せんけい)というペンネームを使うことが多かったのだが、なぜ短い間、蘇溪を名乗ったのか?
すぐにその名前をやめた理由は、宮川経輝も蘇溪の号を使っているからだろう。
その蘇溪の号は友人たる徳富蘇峰と、原田助の号・溪鹿から採ったのではないか。
あるいは永代も同じ考えでペンネームを選んだのかも知れない。宮川から直接ペンネームをもらったわけではあるまい。
ともあれ、美知代への最初のハガキは明治38年5月、ということで、この問題には決着がついたと言えるだろう。
〔2014年7月13日。最終更新2017年6月4日〕
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