2007 永代静雄研究余録 (4)

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 少し以前、小谷野敦(こやの あつし) のブログで、「岡田美知代の生涯」 と題して 「蒲団」 事件を扱っていたことに触れ、凡百の 「蒲団」 論よりは優れているが、浅い書き方だと評した点 (過去ログとしては残してない) について、説明を加えておきたい。
    > 〔「蒲団」 事件で美知代が広島の上下町に連れ戻され〕 仲を裂かれている間、永代と美知代は、雑誌 『新声』 に短いものを投稿しており、一度など二人のものが並んで出たこともあったが、この雑誌が唯一の通信手段だったという話もある。
 例えば、こういう部分。 誤りとまでは言えないのだが、《新声》 という雑誌が唯一の通信手段だったという “話もある” だけで、実際には永代は美知代に匿名で手紙を送っているし、地方文壇誌などにも、永代と美知代が投稿しているものがある。
 “一度など二人のものが並んで出たこともあった” というのは、《新声》 の目次だけ眺めていれば名前が並んで出ることは 2度あるから、内容まで一応チェックして 小谷野先生なりに判断して書いたことまでは想像できるが、 もう少し 《新声》 を読み込んでいたならば、永代も美知代も両者 変名を用いて、並んで登場する例が他にあるらしい、と気づくだろう〔後注。両者 変名を用いて対話していたというのは、いささか筆者の希望的観測だったようだ〕。
 さらに一歩を進めて、永代自身が残したスクラップに目を通していたなら、やはり 《新声》 に載った美知代の 「雪」 という短篇が、実は永代と美知代の合作だった、ということさえ解る (この事実が公表されるのは、今回の私の文章が初めてだから、小谷野先生の理解が浅いというのは、やや乱暴だが)。
 広島の美知代と永代の間に、なぜ、これほどの “通信” が可能だったかと言えば、《新声》 の編集部 に、 千葉亀雄や早稲田系の永代の知友、原田譲二、人見東明、小川未明、若山牧水、安成貞雄らがいたためだろう。 ちなみに 「神戸教会、永代と美知代」の記事で触れた、中山蕗峰の、永代を弁護する文章を書かせたのも、安成貞雄である。
 他にも 「岡田美知代の生涯」 という短文のふしぶしに違和を感じるが、小谷野先生も、自身の研究対象である谷崎潤一郎についてなら、もっと慎重に書いたのではなかろうか。
 その谷崎に関して、かつてブログで 詳細年譜 を連載していたが、大正7年10月、中華民国に旅行する潤一郎の送別会に、永代静雄や安成貞雄も出席していたことに触れている。 この事実は、この Web上の記事で初めて知った。
 潤一郎の弟・谷崎精二は、永代の盟友のひとりである光用穆(みつもち きよし)と親しかったから、送別会に出席すること自体は従来の研究から見ても不思議でないが、大正中期の精二と永代の関係というのは、これまで思っていた以上に深い。このあたりは、知られてないエピソードも多く、今も裏づけ調査中である。
 それにしても永代静雄の人脈に関しては、まだまだ掘り下げられそうだ。
 最近、神保町のオタ氏のブログで、「大東亜伝書鳩総連盟」 について扱っていたのだが、これもまた初めて知った情報だった。 天羽英二という人物が、永代静雄から 「伝書鳩総連盟」 発起人の依頼を受けたという。
 さっそく天羽の日記を読んでみたが、天羽は昭和16年10月まで近衛内閣の外務次官、18年から東條内閣の改造を受けて情報局の総裁になる。 17年当時は、いわば公職を離れた “浪人生活” のはずだが(“東亜研究所の第一特別委員長” には、なっている)、毎日引っ切りなしに多くの訪問客と面談している。
 伊達源一郎 とは親しかったようで、しばしば “来談” の記載がある。 伊達も近衛文麿も、永代と縁があるから、天羽英二に 「連盟」 の発起人を依頼するくらいのことは、確かにあっていい。 昭和19年に没した永代にとっては最晩年の活動ということになるが、このころは健康状態も問題なかったろう。
 永代が昭和期、伝書鳩に熱中したというのは、もともとの鳥好きが高じたものと言われているが、むろん戦前・戦中の鳩は軍事利用が主で、永代の鳩レース参加も最初から全国レヴェルを狙ったものだから、そう呑気な話でも無かった。
 今年の 4月初め、高井戸の 〈SF乱学講座〉 に小生が立ち寄ったときも、永代の鳩舎の話で盛りあがったのだが、まったく、どの時期の活動を追ってみても、話題を提供してくれる人物である。
 リンク先のブログで、この大東亜伝書鳩総聯盟 「創立賛同人」 のリストに名前の挙がった人物は、全て永代静雄、および中山泰昌のツテで、名を連ねたものと考えていいと思う。
    小野秀雄(東京帝大新聞研究室主任)
    市島謙吉(早稲田大学名誉理事)
    針重敬喜(日本庭球協会理事)
    三上於菟吉(創作家)
    宇野浩二(創作家)
    廣津和郎(創作家)
    相馬御風(文学者)
    小川未明(童話作家)
    羽仁もと子(自由学園々長)
    上山草人(映画優人)
    水谷八重子(優人)
    小川菊松(誠文堂新光社長)
    鶴見裕[ママ]輔(太平洋協会専務理事、代議士)
    内藤民治(国際日本協会書記長)
    松本喜一(帝国図書館々長)
    中山泰昌(南方文庫主幹)
 前に触れた中山蕗峰が、のちの南支調査会・南方文庫主幹の中山泰昌なのだが、他は永代と非常に親しかったわけでもないものの、永代から賛同してくれと手紙を送られても、少しも不思議のない面々だ。
 内藤民治の雑誌 《中外》 に永代静雄も書いていたことは、前に山口孤剣の項で記したことがある。
 中山泰昌は 誠文堂新光社の顧問だったから、同社を創業した小川菊松とは、そうとうに親しい。
 小川は 『出版興亡五十年』 という、古本好きには よく知られた自伝的な出版業界史を刊行しているが、中山は、この本のゴーストライターなのだ。
 坪内逍遙の文芸協会にいた上山草人 、 芸術座出身の水谷八重子など、具体的な つながりは解らないものの、永代と面識程度のものはあった可能性が高い。
 このサイトで以前、大正初期のクレオパトラ・ブーム に触れたさい、永代静雄と “抱月や須磨子に交友があったわけではないが” と書いたことがあるけれども、島村抱月と永代は早くに接触していた。
 永代は明治41年、『さすらひ』 という長篇小説を書き上げ、抱月の序文を もらったものの、出版には至らなかったらしい。 この消息は 〈読売新聞〉 に載っているのだが、「文壇はなしだね」 記者 は、この小説を 花袋の 「蒲団」 に対抗して、永代が美知代との事件をモデルに書いたものと憶測 し、 “今度は花袋が土偶(でく) の役で落される番だ” と、期待している。 しかし永代の側から、花袋を批難する文章を発表することは終生、無かった
 相馬御風が直接、永代静雄を知っていたことも、疑いない。
 安成二郎の回想によれば、兄・貞雄が 〈中央新聞〉 に “記者が一人欲しいと永代に聞き、相馬御風君に話し、相馬君が郷里から光用を呼んだ” といった連繋が、すでに明治期 にある。
 『雪之丞変化』の流行作家・三上於菟吉と、広津和郎 が大正時代、〈東京毎夕新聞〉で永代静雄の部下だったことは、かなり知られた事実だが、意外なくらい、のちのちまで交流が続いていた。 広津は、第二次大戦後、広島に引っ込んで文壇と没交渉となった美知代の居所を知っていた数少ない人間のひとりである。
 広津和郎が〈毎夕新聞〉 時代、永代に命じられて 「須磨子抱月物語」 を しぶしぶ書いたことは、『年月のあしおと』 に詳しい。
 宇野浩二は、もともと広津と非常に親しくて、広津が新聞社をやめた頃には、逗子に二人で間借りして翻訳の仕事を請負っていたくらいだが、その後、険悪な仲になってしまった。
 しかし、穏健な谷崎精二との交流は、両者とも保っている。  永代静雄は、彼らと特別に親密では無かっただけに、絶交する理由も無く、それなりの付き合いが続いていたと見られる。
 永代の人脈に早稲田大学の関係者が多いことは もちろんだが、市嶋謙吉は中山泰昌編集の大著 『新聞集成 明治編年史』(これは研究者間で非常に評価が高い) の顧問の一人でもあった。
 テニス選手だった針重敬喜(はりしげ けいき) は、押川春浪の 《武侠世界》 を編集したことで、古書好きには有名だ。春浪が体調を崩してからは、実質的な編集長だった。
 永代静雄が、明治期 最大のSF作家、押川春浪と出会ったことがあるのかというのは、ひとつの問題だが、横田順彌先生は 光用穆→相馬御風という線から、その可能性を探っていた (『古書ワンダーランド』)。
 しかし、安成貞雄・二郎兄弟の線から考えたほうが、春浪とは、よほど つながりやすいと思われる。
 そちらの可能性に横田先生が言及しなかった理由も、だいたいの察しはつくが… この話は、いずれ場を改めて述べるとしよう。 このサイトで、とは限らない。なにしろ、ここの読者の大半は押川春浪も知らないし。
 横田先生の語る春浪像を知りたいという人は、フィクションだが、つい最近発売されたSFミステリ短篇集 『押川春浪回想譚』 を探してみて欲しい。ジュンク堂クラスの書店でないと見つからないから、最初から ネット注文のほうがよいかとも思う。    〔6月 3日〕

     これは無論、まだ見つかってないだけの可能性も ある。戦後、美知代の書いた手記によれば “実際 私は『蒲団』以後の先生のお作を、まるきり読んでいませんでした。先生お作 に対して、永代は時々何処かの雑誌に頼まれて、感想を発表したりした話も聞いていましたし、 後々発見した事ですが、私に何のことわりも なく、永代はそれに私の名前を用いていたようでした。”(「私は「蒲団」のモデルだった」) …ということなのだが、 話の流れから言えば『蒲団』 より後の作品の感想だろう。しかし、どっちにしろ、それらしき文章は現在までに見つかってない。 永代美知代の 「『蒲団』、『縁』 及び私」 (大正4年) が、静雄による偽作であったとすれば、なかなかの筆力ということになり面白いのだが。

 11月30日、小谷野 敦こと 猫猫先生 のブログで、先生に贈呈した私家本 について取り上げてもらった。
 当初、拙著 紹介の最後の部分 には、次のように書かれていた。

    〔…前略…〕 今日、授業で行って受け取り、その場で開いたら、大西小生なる人物による、『「アリス物語」「黒姫物語」と その周辺』 という永代静雄研究の冊子で、帰ってきてよくよく読むと、先行研究をしっかり押さえた本格研究である。永代は、田山花袋 「蒲団」 の田中秀夫のモデルである。  まったく 「蒲団」 に関しては、かなり多くの資料が出ているのに、ただ作品を読んだだけで適当な感想を言うやからが多くて困るのである。ヨコタ村上とか。

     で、これが大西氏のサイトである (実は知らなかった)。
     http://www.eonet.ne.jp/~shousei/alice/
 ヨコタ村上とは、『色男の研究』(2007.) で サントリー学芸賞を受けた ヨコタ村上孝之氏で、かつて 『もてない男』(1999.) で名を馳せた小谷野先生の天敵である、という話は、先生自身が広めているようなものだ。
 猫猫ブログでも批判していたが、『色男の研究』 の最終章 (第十一章) には、以下のような誤りがある。
     横山芳子のモデルになった永代美知代が、『蒲団』 が発表されたあとでも、自分がモデルになっていることに気がつかなかったという事実は、田山が、そして、『蒲団』 の主人公が、決定的に、コミュニケーション能力を欠いていた、あるいは、コミュニケーションをすることに関心がなかったことを物語っていよう。
 なるほど、田山花袋 について何も知らない人の文章だ。専門書はもちろん、伝記のたぐいは、全く読んでないだろう。  ヨコタ村上氏が依拠した吉田精一の解説 は、美知代が花袋の恋情に気づいてなかったことを書いたに過ぎない。 この問題 には異論もないではないが、田中純 によれば、花袋が弟子を熱愛していたというストーリーについて美知代自身が、そんなことが実際 あれば 「私がいくら子供でも、それくらいのことは判つた筈です。」 と、発言 している。 花袋自身は、「恋」 だったと書いているわけだが。 いずれにせよ、モデルであることに気づかないわけもなく、雑誌で読んだ当初から 「如何しやう私、書かれちまつたわ」 と、感じていた。
 ヨコタ村上氏にとって花袋の話など は、添え物 に過ぎないのだが、本全体から受ける印象も、「色男というのは、チャランポランじゃないと、なれないんだなあ」 というものだった。
 〔…下略…〕   〔12月26日〕



    猫猫先生様、メールでの谷崎関係の情報、ありがとうございました。

     その後、論戦 になってしまい残念ですが、例えば、大正7年10月の 「谷崎潤一郎氏 渡支 送別会の人々」 の写真 が、 《中央文学》 所載であるという情報 (出典は、年譜に最近 書き加えていただいたわけですが) は、永代静雄と、かの文豪、谷崎潤一郎、芥川龍之介が、そのとき 一堂に会 していたという動かしようのない証拠です。
     私 は以前から、芥川龍之介・菊池寛共著の 『アリス物語』 が、永代の 『アリス物語』 からタイトルをもらっているのではないか、という持論を展開 し、空想のようなものと、これまで無視されて来ましたが、この写真の存在で、芥川 が永代など、知るはずもないだろう、などとは誰にも言えなくなりました。
     残念なのは、作家の格から言って、芥川 や菊池 が、永代の名を挙げる必要が無かった、ということくらいです。  いずれ、紙媒体でも活用させていただきます。

     拙著 には先生との対論で話題 にのぼった点以外 にも、まだまだ穴があります。
     ひとつには、田山花袋と永代は、「蒲団」 の出現後も交流していて、この関係が研究者には、今少し理解できない。
     拙著 にも触れるには触れましたが、永代が完全 に花袋から離れて、儀礼的な付き合い以外を絶つのは 「蒲団」 の発表の 3年後、長編 『縁』 の発表時期が、ひとつの目安となります。
     青い読者 は、このあたりを逆に捉えています。 「蒲団」 がエキセントリックで、『縁』 はオーソドックスな印象を与えるために、前者のほうが単純 に永代にとって大きかったと見えるのでしょう。
     もちろん、「蒲団」 のほうが多くの読者を獲得しているという意味では、そのほうの影響が大きいのですが。
     拙著の、被害者サイドからの抗議という視点は、誰かが一度 は書かなければならないものでしたが、なぜ 「蒲団」 発表の直後 に永代が花袋から離れてしまわなかったかという点に着目すれば、また別の語り口というのが考えられます。
     私家本刊行後 に発見した文献なども含めて、新たに論文の構想を練っている最中です。

     すでに、いろいろと修正 したい箇所もある拙著ですが、2007年という年 は、「蒲団」 の発表から、ちょうど100年が経っており、こういう節目 に拙著を刊行できたのは、偶然に過ぎないながら、それなりの意義があったろうと思います。
     来年、2008年の春ごろになると思いますが、菁柿(せいし)堂から刊行される 〈新編 日本女性文学全集〉 第 3巻 に、永代美知代の作として 「ある女の手紙」 ほかが、大塚楠緒子、岡田八千代、水野仙子、国木田治子らの作ととも に収録される予定です。 第 2巻 の刊行も遅れている現状のようですが、美知代作品の本格的な翻刻 は、今度が最初となるはずです。
     日蔭の花とはいえ、作家としての評価 は、まだ、はじまったばかりかと思います。  草々頓首

      大西 小生 拝   〔12月28日〕

    後注。 結局、私家本発行以後は病気のため、論文は発表していない(2014年3月現在)。 〈新編 日本女性文学全集〉 第 3巻の刊行は2011年1月にまでずれ込んだ。

 3月16日、謹呈本として、小谷野敦 『リアリズムの擁護』(新曜社) が届いた。
 これに収録されている評論のうち、最も長いものは 「岡田美知代と花袋 「蒲団」 について」 で、唯一の書き下ろし作なのだが、 付記に “本稿は成稿の後一年近く発表の場が見出せず、本書に収めることに決めた直後、大西小生氏より私家版の研究書を戴いた。” とあるように、 1年くらい前に書き上げたあと、あまり手を加えてないようだ。
 拙著で修正した従来の研究文献の誤りを、そのまま引き継いだようなところも多い。
 例えば 105頁、永代静雄に友人の中山三郎が、田山花袋の弟子に岡田美知代という女性作家がいる、と教えた話は、 “明治三十六年十月” のこととして書かれているが、もともとが中山の記憶違いで、明治37年10月が正しい。 これは当時、神戸教会が発行していた月報などの資料から、確定できる。
 中山三郎の筆名が 「蕗律(ろりつ)」 となっているのは、もちろん 「蕗峰(ろほう)」 の間違いだ。
 “翌三十七年夏、神戸に帰省中の永代に会いに行った時、永代から広島へ帰省中の美知代宛の手紙の投函を託されて驚いたという。”(106頁) としているのも、明治38年の話だ。
 永代から美知代へ送った最初のハガキ は、明らかに明治38年 5月のもので、これは永代が 「蘇渓(そけい)」 という筆名を名乗っているのが、その時期しかないことで、やはり特定できる。 中山が手紙を託されたのは、それ以降の話。
 ただ従来は、最初の永代のハガキについても 37年とする説があった。拙著では、それが 38年のものだとする理由を簡略に書いただけだったので、いずれ、もう少し詳しい形で論じたほうがよさそうだ。
 できれば独立した 『「蒲団」 論』のような、単行本の形で。 〔とりあえず、この補記を参照のこと〕
 永代静雄が 「同志社神学部」 すなわち神学校 にいたというのも、「同志社普通学校」 の誤りであることは、このサイトの補訂表 にも書いているが、 岡田美知代との恋愛が始まった時期、偶然にも神学校へ移ることを教会側が決定した。 それに対する反発や迷いが、美知代を追うような形で、永代の上京した理由のひとつになっている。  これは拙著で、初めて展開した議論である。

 120頁、永代の結婚前の就職先が 〈東京毎日新聞〉 で、〈東京毎新聞〉 とする従来説が誤りと書いてくれたのは、まぁよいとしても、124頁 “大正二年(一九一三) に永代 は東京毎日新聞 に再度入社し” と書いたのは、誤りとしか言えない。  このときは 〈毎夕新聞〉 に入社した、という従来の説明で正しいのだ。
 それに入社時期は、大正 2年でなく、大正元年の可能性が高い (永代静雄 編纂 『日本新聞社史集成』)〔こちらも参照〕。
 “七年に社会部長、八年に編集局長となるが十一月に退社” とあるが、大正 3年、広津和郎を部下にしたときには、すでに社会部長である (『年月のあしおと』。 《文章世界》「文士録」 などから確実)。
 正確には、その後 2度、毎夕新聞社を離れたりもするのだが、最終的な退社時期も大正 8年でなく、9年であることは、このサイトにも書いたことがあるし、拙著 73頁 にも少しだけ書いている。
 このあたりは、小谷野先生が過去の研究に従ったに過ぎないと言えるだろうが、美知代の、のちの夫である花田小太郎が、永代静雄と同じく昭和19年に亡くなったように書いているのは、奇妙だ。 拙著 31頁に指摘したとおり、花田氏の死去は昭和 32年であり、美知代の 「蒲団」 に対する主な反論が、ずいぶん時を隔てて、昭和 33年以降 に書かれている理由のひとつは、このためもあると捉えられる。
 やはり 124頁で、美知代が昭和16年、“日米戦争勃発のため帰国 し、庄原の妹の許に住んだ” というのも、帰国 したのは日米開戦の前、3月頃だし、妹は庄原 に住んでいたわけではないから、正確とは言いがたい。  こういう議論の本筋でない部分の、細かい違和まで指摘しているとキリがなくなるが、隠された事実を探求するという姿勢の、この一冊の中でもメインに当たる評論にしては、ずさんな感じはする。
 109頁、美知代作品として紹介されている 《文章世界》 創刊号に載った 「戦死長屋」 は、ペンネーム・栞(しおり)女史の住所が京都となっており、栞女史=美知代かと言えば、その可能性は低い。 花袋研究の第一人者・小林一郎先生の説らしいけれど、根拠がよくわからず、作風も美知代とは違う。
 119頁、永代静雄作品が 《少女の友》 に “(明治)四十四年” まで載っている、というのも (これは今田絵里香の論文を紹介した箇所だが)、大正 2年 12月まで 「愛国小説 満朝の花」 が連載されたことを指摘しなければ、嘘だろう。  この雑誌の発行元・実業之日本社を “実業乃日本社” と書くのも、どうかと思うし、画家の川端龍子を “実業乃日本社専属の挿絵画家” と説明するのも、川端本人が後年そう書いていたはずではあるが、「アリス物語」 連載当時は 〈国民新聞〉 での仕事が本職という感じだから、事実と相違する。
 あまり瑣末な点ばかり言うのは小生も面倒なのだが、間違いは間違いとして指摘して置かないわけにいかない。特に岡田美知代については、作家的 に優れた作品を残してないということで軽く見られるためか、誤りを含まない文献を読んだためしが無い。 永代静雄に至っては、永与静雄とか、ナガシロシズオとか、名前自体を間違っている 「論文」 や 「研究文献」 が多いのだから、その内容のほうも推して知るべきだ。
 小谷野論文の主要な論点は、日露戦争の頃の美知代の書簡が、花袋に対する恋文のように見える、ということで、これ自体は小林一郎先生が 『『蒲団』を めぐる書簡集』 (1993.) で展開した論を踏襲して、わかりやすく書いたものに過ぎない。
 この点は小谷野先生とも、かつてメールで議論して、私からは、花袋の側 は確かに心が騒いだろうと書き、戦時だから高揚した文章であることも不思議でないし、少なくとも女学生同士なら日常的 にエキセントリックな文章を書くことは珍しくなかったろう、とも書いた。 花袋 には自分から永代へ心が移ったとみて恨む心があった、という点は、むしろ通説的で、おそらく花袋研究者の誰もが(書かないにせよ) そう考えていると思うから、拙著にはあえて触れてないが、私も否定はしない。
 出色なのは花袋の短篇 「拳銃」 についての解釈だが、美知代が花袋について 「水臭い」 と書くのを、花袋の妻 (がモデルの人物) が変に思うあたりは、たぶん事実に基づいたストーリーだろう。 しかし、美知代自身にとっては 「水臭い」 という言葉は、口癖のようなもので、花袋や、その妻が感じる違和については、頓着 してなかったというのが実態に近いと思う。
 美知代は年齢的にも上の花袋の妻 に対して、失礼なくらい偉そうな態度を取ったりすることが、まれにあるのだが、端的に言って、お嬢様育ちだから、そうなった に過ぎない気がする。 晩年まで、マッチも自分では擦れない体質だったのだ。 永代のような極貧生活を送っている者には、人一倍 同情するのだが、それも現実的な身分差のような感覚が、むしろ希薄だったせいではないか、という気さえする。
 花袋の妻 は、美知代に対して警戒心や嫉妬があったと思うが、美知代の側 は、仮 に嫉妬を持っていたとしても、無自覚か、それに近い程度のものだったろうと、私は今のところ考えている。     〔2008年3月17日〕


 さて、このサイトに対する文句 で、よく聞かされるものに、細かい話が多すぎるというのがある。
 もちろん、わざわざ、こんなことを言って来るのは、中高生 (もしくは中高生レヴェル) の読者が多いんだが。
 読んでくれとは誰も頼んでないわけで、自分にとって意味があると思える部分を読んでくれれば、それでいい。 そんな部分は無い、という人は、読まなければいいだけだ。
 しかし、細かい情報を確定していくことが、実証研究 にとって重要だ、ということは、一般論として特 に学生諸君 は頭の隅に入れて置いていいだろう。
 例えば、永代静雄 に関して、私家本紹介のページに 「最初の本格的な就職先は 〈東京毎夕新聞〉 でなく 〈東京毎日新聞〉 である。」 といったマイナー情報を載せて置いた。
 この点は拙著で、さらに細かく解説しているが、ほとんどの読者にとっては、それが何なの? というような情報だろう。
 しかし、つい最近、千森幹子教授の調査 により、丸山英観 が、永代と同時期、〈東京毎日新聞〉 に入社していたことが、明らかになった。
 『「アリス物語」「黒姫物語」 と その周辺』 でも、永代静雄と丸山英観の間 に、多少のつながりがあったのではないかと仮説を立てていたが、 この私家本に目を通された方も、ここはちょっと、こじつけに近いものが含まれていると感じられたかも知れない。
 国会図書館に長く勤めていた方が書いた小冊子 『国立国会図書館の児童書』 に、丸山英観が黒岩涙香の 〈万朝報〉 にいたとあるため、 私は そちらの類縁を探っていたのだが、調べるほどに、丸山自身が 〈万朝報〉 に在社した可能性は低い、と思わざるを得なくなっていた。
 千森教授が、丸山英観の ご令孫のもとを訪ねておこなった聞き取り調査で、そのあたりの疑問が氷解した。
 調査の詳しい話は、4月頃に教授が論文化される予定。

    後注。 「『不思議の国のアリス』の翻訳者丸山英観再考―『不思議の国のアリス』と山梨―」(山梨県立大学地域研究交流センター編 《やまなし地域女性史研究プロジェクト》 2007年度研究報告書、2008.所収)。
 永代の最初の就職が、〈毎夕新聞〉 でなく 〈毎日新聞〉 というのは、拙著に明記したとおり田中英夫氏の発見だが (本当は田中先生と書きたいが、それを言うと必ず 「先生はやめて下さい、ただのオッサンですから」 と返されるので、先生呼ばわりはやめて置く)、 その研究は知る人ぞ知るという種類のものなので、拙著によって 〈東京毎日〉在社の重要性が、千森教授に伝わったのである 〔追記。 もっとも、千森教授の『表象のアリス』(法政大学出版局、2015.) 200頁では、永代について “『アリス物語』執筆中は、毎朝新聞の記者であった。”と誤記しているところを見ると、重要性が伝わっているかどうかは心許ないけれど〔2015年 4月29日〕〕。

 私は中継ぎに過ぎないから、研究者として名を残す必要もないが、総体として 「事実」 に近づければ、それでいい。
 前 に書いたが、小谷野先生発信の情報で、芥川らの 『アリス物語』 が、永代静雄の 『アリス物語』 から、タイトルを引き継いだ可能性が高まったことに加え、 『不思議の国』 の初の完訳者と見られる丸山英観も、永代静雄と接触したことが ほぼ確実となれば、永代の翻案が、今まで思われていた以上に、のちの翻訳者 に影響していた点 は、もはや疑えなくなった、と言ってしまってよさそうだ。
 さらに拙著では、永代の 『黒姫物語』 が田山花袋周辺の作家たちを、『女皇クレオパトラ』 が島村抱月周辺の作家たちを刺激した可能性も追求している。  これらは、『アリス物語』 が後代の 『不思議の国』の翻訳に影響したという説より、よほど信憑性が高い。
 ここまで来ると、もはや小さな話でもあるまい。  細かい事実の累積で、話が広がっていくのである。
 少なくとも翻訳文学史というジャンルの上では、永代の存在を、まるきり無視ということはできなくなって来ている。 ほとんどマイナスの評価以外なかったような出発点から、よくぞ ここまで漕ぎつけた、と自分では感心するけどね。
 もうひとつ、嬉しいニュースがある。
 坪内祐三氏が、今年、松崎天民の研究を 「完成させる」予定という。
 早耳情報なので、どういう形になるか、まだよく判らないが、坪内氏は以前 《ちくま》 でも天民について連載しており、薄めのアンソロジーも出版していて、どちらも楽しめた。
 教科書的な文学史しか知らない読者 には、天民って誰? くらいなもんだろうが、なかなか面白い人物である。 坪内氏に書いてもらえれば、読書人の間で知名度が全く変わって来るので、ありがたい。
 天民が 〈毎夕新聞〉 で永代静雄の部下だったことは、古書好きにだけは、知られていようが、実 は岡田美知代の神戸女学院時代を探る上でも、天民がキー・パーソンなのだ。 このことは、かなり以前にも触れたが (過去ログとしては残してない)、いざ 論じるとなると、天民が どういう人物かから説き起こさねばならないから、煩雑になってしまう。
 天民については坪内祐三氏の、これこれの文章を参照されたい、で済ませられれば、ものすごく助かる。
 永代静雄も松崎天民も、もちろん客観的 には群小作家 に過ぎないわけだが、そういう群像 に注目することで、文学史のちょっとした読み替えもできる。
 パラダイム転換 は些細な矛盾点の読み替えから、などというと大それた考えに過ぎるが、実 は拙著 には、そういう隠しテーマもあった。   〔2008年 1月14日〕

    後注。 坪内祐三著 『探訪記者松崎天民』(筑摩書房)は結局、2011年12月刊。 《ちくま》 での連載(1996.4.〜1997.3.,2001.3.〜2002.2.,2010.4.〜2011.7.)を まとめたもの。


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