2014 永代静雄入門 (4)

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 最近、永代静雄に関しては、あまり目新しい論も聞かない(横田順彌先生が《SFマガジン》2013年8月号(54巻8号)から連載している「近代日本奇想小説史[大正・昭和篇]」で、永代の周辺について言及しているくらいか。2014年9月号(55巻9号)では永代がサイキックを描いた『神秘探偵 外相の奇病』を、2015年1月号(56巻1号)ではやはり永代の『天体旅行』を紹介している) のだが、永代の妻だった岡田(永代)美知代のほうは、かなり研究が進んでいる。
 広島大学の有元伸子教授が精力的に論文等を発表しているほか、美知代の故郷、府中市上下町(じょうげちょう)の地元有志が「岡田美知代研究会」を組織して未発表原稿の翻刻などを行っているのだ。
 有元先生の論文では「〈作者〉をめぐる攻防」で、花袋の「蒲団」が美知代の「その月その日」などの掌編に触発されて書かれたという説が卓見である。 この論文については読売新聞で採り上げられたことがあるが、読売は近年、岡田美知代関係の記事を、わりあい多く載せている。
 例えば、『山歩クラブ』というブログに読売記事の引用がある。
    広島県府中市上下町の市民グループが、田山花袋の小説「蒲団(ふとん)」のヒロインのモデルとされる同町出身の作家・岡田美知代の未発表の手書き原稿を活字化する「翻刻」に取り組んでいる。
     現在は、夏目漱石や新渡戸稲造ら明治を代表する人物の名が登場する小説「デッカンショ」を読み進めており、上下歴史文化資料館の開館10周年を迎える今年、2013年10月までに完成を目指している。
     美知代は上下町の豪商の長女で、神戸女学院を中退後、文学を志して上京。田山花袋に師事し、その後、いくつかの短編を雑誌に発表するなどした。
     同資料館は美知代の生家で、未発表を含む200作品以上を所蔵。有志らが2011年、地域の文化を後世に伝えようと「岡田美知代研究会」を結成した。メンバー12人は月1回、資料館に集まり、手書き原稿を読み進めている。これまで「国木田独歩のおのぶさん」「野獣」など3作を翻刻した。
     「デッカンショ」は当時流行した「デカンショ節」を題材にした身辺雑記。400字原稿用紙100枚の作品で、美知代が晩年に書いたとされる。美知代のめい・都子は「万里子」、兄・実麿は「植村孝麿」、夫・永代静雄は「K新聞編集局長」として登場する。
     作中で、「孝麿」が夏目漱石の後任として旧制一高(現・東大教養学部)教授に就任したことを「編集局長」が厳しい口調で批判している。また、漱石は「秋目さん」として「有名な小説坊っちゃんは、秋目さんその人をモデルださうな」「我が輩は猫であるの猫ぢゃないか―秋目さんが教授を」などと触れている。
     同高校長を務めた新渡戸稲造も「古渡戸博士」と記されている。研究会の久保邦子さん(81)は「当時の様子が浮かぶようだ」と感心する。
     田中勇会長は「全集が作れるまで頑張りたい」と言い、美知代の研究をしている広島大の有元伸子教授は「資料としても貴重だし、地元の人が自ら研究しようという気風を持っていることが素晴らしい」と評価する。
    〔2013年4月3日。河部啓介記者「未発表手書き原稿に光を、岡田美知代の小説を活字化」〕
 未発表原稿「デッカンショ」に“夫・永代静雄は「K新聞編集局長」として登場する。”とあり、岡田實麿(じつまろ)が一高教授に就任したことを永代が批判したように書いているが、これは誤り。
 實麿が第一高等学校に招かれたのは 1907(明治40)年9月。永代は、まだ本格的な就職すらしていない頃だ。
 「K新聞編集局長」は、国民新聞編集局長の伊達源一郎と推定できる。伊達は實麿と非常に親しかった。
 永代は回想録「先生を繞〔めぐ〕る数氏と私」(『蘇峰先生古希祝賀 知友新稿』所収)の中で、“家妻〔美知代〕の兄が二人とも同志社で伊達氏と同時代であり、殊に長兄〔實麿〕の方は同期生中の親友で、伊達氏は幾度も広島の山の奥の義兄の家に遊びに来られたほどの間柄でした。 その後、私は広島の家の納戸の中に、「同志社伊達源一郎」と、まぎれもなく氏の筆蹟をとゞめた柳行李を見つけて、氏の少年時代をほゝゑんだ事もありました。”と語っている。
 美知代は親に勘当された形で永代と結婚したのだが、のちには永代も広島の美知代の実家を訪れていたことが、この文章から分かる。ただし、この文章が書かれた 1931(昭和6)年には永代と美知代は、もう別離しているのだが。
 岡田美知代研究会の事に話を戻すと、この会は 2011年5月結成。“メンバー12人”とあるが、例会に参加するのは多くて4〜5名程度。 私も 3度ほどゲストで出席させてもらったが、小ぢんまりとした集まりである。
 会長が「全集が作れるまで頑張りたい」と言ったと書いてあるが、それは相当難しく、記事にするのもいかがなものか。
 私も美知代の未発表作は、ぜひ活字にして有元先生の解説付きで出版して欲しい、と希望を述べた事はあるが、「国木田独歩のおのぶさん」が《内海文化研究紀要》40号(2012年)に掲載された以外は活字化されてない。 上下歴史文化資料館の守本さんは、私が全集の発行を望んでいたが無理、というような事をおっしゃっていたが、私もさすがに美知代の全集などという無謀な事は口にしない。有元先生も美知代の傑作集みたいなものは何とか出せないかと模索しておられたが。 上下資料館では、未発表作の翻刻自体は、もう終わっているようだ。 (その後、《内海文化研究紀要》44号(2016.)に「〈資料翻刻〉永代美知代「デツカンシヨ」(1)」が、 同誌45号(2017.)に「「デツカンシヨ」(2)」が、 《表現技術研究》12号に その解説が掲載された。)
 これが群馬の田山花袋記念文学館だったなら、とっくに翻刻作品が紀要に載っているだろうが、上下歴史文化資料館では学芸員もいないし、予算も付かない。 ハードカヴァーの本でなくとも、なんとか紀要体の出版物くらいにはして欲しいものだが。
 そんな上下町では、しかし事あるごとに美知代を顕彰しているので、今では美知代の名を子どもでも知っている。
 最近の読売新聞には、こんな記事もあった。
    「尚武コン!」で恋つかめ ◇府中・上下町で合コン企画
     白壁の美しい町並みで知られる府中市上下町で26日、「第9回じょうげ端午の節句まつり」(実行委主催)が始まる。今回は期間中の5月17、18日に「合コン」イベント「尚武(しょうぶ)コン!」を初めて開く。男女が昭和初期の着物姿で散策し、同町出身の作家・岡田美知代(1885〜1968年)に夫があてたラブレターを探すなどして仲を深める。
     「尚武コン!」は端午の節句に使われる「菖蒲」に、男児の立派な成長を願う「尚武」をかけ、岡田美知代や地元に伝わる民話などに触れ、上下町に親しんでもらおうと企画した。
     同町内の交流スペース「上下スタイル」に集合して着物に着替えて自己紹介。町内を歩き、岡田美知代に夫の永代静雄がハートを描いて思いを伝えたはがきのある場所を探す。「探し物が見つかる」と言い伝えのある「霊神さん」に「愛が見つかるように」とお参りし、カフェで連絡先交換などを行う。
     県内在住の20〜40歳(学生不可)が対象で両日とも男女各5人を募集。参加費5000円(着付け、飲食代込み)。〔下略。2014年4月25日〕
 だが、夫である永代静雄の名前は、そんなに知られてないようである。
 今年(2014年)10月18日から翌年1月31日まで、上下歴史文化資料館で「永代静雄 〜岡田美知代との日々〜」という企画展が催されているのだが、永代について何も知らず立ち寄った人に、とにかく名前だけでも知ってもらおうというコンセプトで紹介がなされている。
 それはいいのだが、多くもない掲示物の中に、10箇所以上の誤りがあるのには失望した。
 私は10月19日、つまり企画展が始まった翌日、「上下白壁まつり」の日にお邪魔したのだが、スタッフの方たちは皆さん忙しそうで(祭りの日でなくても観光案内その他に忙しいようなのだが)、落ち着いて研究する暇は無いのだろうなと実感した。
 ただ、掲示物の誤りは、永代が“同志社大学の神学部”にいたとか、“明治37年(1904)5月 浅井家にいる美知代に京都から絵はがきを出す”とか、“大正2年(1913) このころ東京毎夕新聞に入る”とか、“大正7年(1918) 毎夕新聞社社会部長となる”とか、従来の資料の誤りを引き継いだものではあるが、いずれも私が岡田美知代研究会に出席して誤りだと説明していたものばかりだから、失望したのだ。活字化した資料もお渡ししたのだが、やはり大学の先生にでもならないと、発言を重視してもらえないらしい。
 神学生問題と、永代が初めて美知代に出した絵ハガキの問題は、このサイトの読者には繰り返す必要もあるまい。
 永代は先に挙げた「先生を繞る数氏と私」の中に“大正元年に東京毎夕へ入社しました私は”と明記している。もちろん本人の証言だからといって鵜呑みにはできないが、元年というメモリアルな年だし、間違いの可能性は少なかろう。
 “永代は大正七年同紙の社会部長に、翌八年編集局長となったが、”と書いたのは、永代の故郷、吉川町(兵庫県三木市)の郷土史家・広岡卓三の『永代静雄伝』だが、この記述はその後、無批判に小林一郎執筆の『日本近代文学大事典』「永代静雄」の項など多くの資料に引き継がれている。 しかし、《中央公論》1914(大正3)年8月(29年9号)の安成二郎「東京十二新聞の社会部長」に永代が登場する事から、遅くとも大正3年には社会部長になっていた事が分かる。この出世のスピードは当時としては珍しくない。 おそらく大正7年社会部長としたのは《中外》1918(大正7)年3月(2巻3号)所載の永代静雄「比較的上出来」の肩書きからではなかろうか。
 だが、そういう話は言わば私の新説だから採用されなくても仕方ないのかも知れない。また、誤りだけなら直せば済む事なのだが、“最終的に美知代とは大正15年に離婚し、毎夕新聞に勤めた後新聞研究所を設立しました。”だの、“主に「湘南生」のペンネームで小説やSFなどを執筆しています。”だの、ウィキペディアのコピー記事が多いのも、頭が痛いところだ。 当然、私の「ウィキペディアの永代静雄」の頁などは読んでないらしい(存在はお知らせしているのだが)。
 掲示の誤りは教えて欲しいと言われたので、明らかな誤りについてはメモして渡したが、こういう微妙な誤りはいちいち指摘しなかった。
 それだけではない。この企画展に際して、私は資料館から展示で大西さんのことも紹介してよいでしょうかというメールをいただいてOKを出したのだが、その紹介の仕方が困りものなのだ。
 「「不思議の国のアリス」の日本語訳 (永代静雄研究家 大西小生氏)」と掲げられた文章が展示されていて、その内容はと見ると、
    日本での『不思議の国のアリス』の初訳は「須磨子(永代静雄)」訳の『アリス物語』で、1908年(明治41年)から翌年にかけて『少女の友』誌に掲載されました。ただし1899年(明治32年)に長谷川天渓訳による『鏡の国のアリス』の翻訳が「鏡世界」として……
って、これウィキペディアの「不思議の国のアリス」の項のコピペじゃないか!
 なんでウィキの記述の紹介に小生の名前が使われているのか、よく分からないが、見る人が見れば私がウィキの記載を盗用したように思うだろう。頼まれたなら、いくらでも無償で解説を書いてあげたのに。 何であれ、美知代の著作権には人一倍うるさい上下資料館で、こういう著作権無視の展示が行われているのは問題だ。
 高校の文化祭レヴェルでは、ありがちな話だけれど、ここまで分かっていないのでは指摘しても無駄だと思ったので(喧嘩したくもないし)、“『アリス物語』は12回の連載で”とあるのは14回の誤りですよ、というのを指摘するに留めて置いた。
 また、私の書いたものを直接コピペして紹介してくれた箇所もあるのだが、「美知代と静雄の出会い」と題されたその文章は、よりによってこの頁を引用したものだ。 これには、どれだけ時間が無かったんだ、と苦笑した。掲示するのに長い文章では難しいという面もあろうが、ちょっと長い文章になると読んでくれてないらしいことは上記の通り。  “最近読む機会のあった中山自筆の永代静雄の弔辞”という部分も、そのままコピーされているが、これ 2007年の記事だからね(笑)
 そんなわけで今回の企画展は、1991年に花袋文学館で行われた永代静雄展とは比べるべくもないのだが、上下で催された展示でも 2006年の岡田實麿展などは新資料が発掘され意義深いものだった。實麿展の場合は、ご令孫などご親族の協力が得られたのが大きかったわけだが。
 まあ花袋文学館の企画展の頃は、永代が『不思議の国』の翻案をしていた事なども特に知られてなかったし、そういう意味では多少の発展もある。
 今回の見どころとしては永代の著作(雑誌も含む)が 10点展示されており、『画家の妻』や『ラジウム講話』は珍しいものだが、これは常設展でも見られたもの。 それに所蔵していても研究される事は無いから、宝の持ち腐れである。それでも、永代の『大ナポレオンの妻』などは装丁を見た事の無い人も多いだろう(国会図書館デジタルライブラリー版は造り表紙だし)。
 少し新味があるのは岡田美知代研究会の吉川町訪問記だが、特に新発見があったわけではない。

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 この記事、大西小生氏が連呼されていて、いささか恥ずかしい(1回書けば充分だろうに)。
 訪問に至る経緯を少し説明して置くと、もともと上下資料館の方には吉川町を訪ねたいという意思はあったので、私が吉川町には天津(あまつ)神社の横手に永代の父母の墓があるが、現在その場所を知っているのは 2007年に私が訪ねた際に同行いただいた藤田さんくらいだろうと言って、その電話番号を伝えたのである。
 藤田さんは、よかわ歴史サークルの代表であるが、サークルは主に中世史などを扱っているので永代について詳しいわけではない。が、前の訪問の際は市役所に勤めておられた方で、現在も行政にパイプを持っている。だから、この方を紹介したのは正解だった。
 しかし今回、永代の父母の墓は整備がされてないために(竹藪を切り払わなければ近づけない)見る事ができず、結局、永代が少年期を過ごした東林寺(とうりんじ)と天津神社だけを見て帰る事になったのは心残りだ。
 そんなわけで私にとっては旧知の場所を再訪しただけだったのだが、掲示物にもある通り、吉川町で永代について調べておられる谷本さん(筆名 はりま だいすけ。俳誌《斧》編集長)に会う事ができ、興味を持つ人がいないわけではないんだと少し勇気づけられた。
 ただ報告で“◎文才が静雄より上回っているため美知代に憧れた”なんてのは谷本さんの話にあったままなのだが、上下町から訪れてくれた人に対するリップ・サーヴィスで、根拠のある話でもなく、わざわざ文字にするのはいかがなものか。
 実のところ、文学者としての素質は美知代のほうが持っていたと思うけれども、“文才”自体は永代のほうが持っていたと思うけどね。まあ思うだけだが。
 “◎静雄の墓は関東大震災で所在不明となっている。”というのは谷本さんの話では無く、私が「静雄の墓は戦災で行方不明」と発言したのを、聞き違えたもの。震災の頃は、まだ永代は生きてます(1944年没)。    〔2014年10月25日。最終更新2017年 8月 8日〕

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