アリス探偵 2005-6 File:8

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 さて。目ざとい読者諸賢は、最近、児童書デジタル・ライブラリーで、永代静雄の『アリス物語』ほか初期の翻訳作品が、ひと通り参照できるようになったことにもお気づきと思うが、 まぁ永代の翻案についてはアリス・マニアか、レトロ好きか、バカ小説が好きな人、あるいは単にヒマな人以外には、お奨めしない。
 ただ、読んだ人は、なんだかんだ文句を言いつつも (もの凄く、批判しやすい内容なんだよな(笑) 「貞操の宝」あたりは失笑を通り越して、爆笑もの)、実は楽しんじゃってる人が多いけどね。
 特に、古い文章を読み慣れている人が読むと、永代の文章というのは、妙にスラスラ読めるというか、腹に溜まるようなところがなくて、同時代の作家に比べて、全くエンターテイナーだと感じるはず。
 発表当時も、かなり人気があったと思われる。“通俗”を体現した作家なのだ。
 しかし、通俗作家というのは時代が変わると読むに耐えないものだが、永代のものは、ヘンに“読ませる”。  と、けっこう小生の周囲では評判だ。世間一般の評価には、決して、ならないだろうが。
  『アリス物語』は初出誌の雑誌ヴァージョンで読むのが、いちばん笑えるんで、果たしてパソコンに落として読んで面白いかは請け合いかねるけれども。 単行本ヴァージョンでは、何といっても「命懸のかくれん坊」が、可笑しい。
 …気狂いに刃物!(笑)
 「ひ、ひ」 と笑うアリスさんに、我々も笑いの戦慄を抑えることができない。
 オチというか物語の結末に、何らひねりのない点には目をつむって欲しい。そういう物語としての結構の巧さを楽しむ小説ではないのだ。
 この物語の後日談が、「American McGee's Alice」であることは言うまでもない。
 いや、単なる冗談でなく、「命懸のかくれん坊」は“アリス”と“ナイフ”を組み合わせた、世界的にも早い例、と考えることも可能だ。 ― そういうものが見たいという潜在的なニーズを、半ば偶然にしろ、すくいあげて文章化している。
 現在から見ると、永代静雄というのは、ずいぶん間が抜けて見えもするんだが、郷里の人々や周囲の凡才からは、確実に“天才”と思われていた。
  『満朝の花』の解説を書いたときにも感じたことだが、時代の半歩先を読んで、大衆的なニーズに応える能力に優れているのだ。高所から時代を見て批評したり、時代を超える卓見を吐いたり、という“文学者的”な才能は皆無だが。 むしろ、そんな才能は、煙たがられるもんだ。
 まぁ、あまり関心ない人は、わざわざ読んで呆れないように、忠告しておく(笑) 〔2005年9月24日〕



 
 近刊予定と書いて久しい永代静雄の『解題  女皇クレオパトラ/大ナポレオンの妻』だが、 『愛国小説 満朝の花』と違ってSF大会には内容的にも合わないからムリにしろ、当初はなんとか05年の夏コミ時期には刊行したいと思っていた。  が、早い段階で、こりゃ冬コミでもムリとあきらめざるを得なかった。
 クレオパトラ関連だけでも、満足のいく資料がそろわない。  ちゃんと読んでないうちは、こんなの『プルタルコス(プルターク)英雄伝』とシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』からの引用を組み合わせた程度の本だろうと、高をくくってたんだが、永代静雄としてはかなり精力を注いで書いた力作と判った。 バーナード・ショウの『シーザーとクレオパトラ』なんかにももちろん言及されてるが、マーク・トウェイン描くシーザー暗殺の場なんて、どこから引用したのか原本がさっぱり見つからない (トウェインの書いた文章は膨大過ぎる)
     永代の「シーザー暗殺」は、The Killing of Julius Caesar“Localized”(1864.)から後半部を引用したものと判明した。 “Localized”は「地方版」の意味で、ローマの新聞に載った殺人事件をアメリカの新聞が転載した、という設定だが、永代はその“新聞記事”の前半部を削ってしまっている。トウェインの最初期の小品だ。 一般には翌1865年末、ユーモア小説「ジム・スマイリーと彼の跳び蛙」(のち改題して「世にも名高いキャラヴェラス郡の跳び蛙」)を発表したことがトウェインの文壇デビューとされている。 偶然にも『不思議の国のアリス』の刊行と同時期。
 プルタルコスでも『英雄伝(対比列伝)』だけでなく『モラリア(倫理論集)』からの引用もある。 これは別に永代がプルタルコスを研究したわけじゃなく、英語で書かれたエジプト史か何かのネタ本に引用されてたのを又引きしたんだろうが。
 もともとクレオパトラ研究というのは、素人にとっては2次資料、3次資料しか無い世界で(1次資料は考古資料かヒエログリフ、もしくはラテン語かギリシャ語ということになるんで)、永代も素人だが小生も素人、永代の書いてることには当然、細かい誤りもあるが、何を典拠に永代の文章を批評するかというのは難しいのだ。  そこで日曜研究家の方法としてはクレオパトラの“実像”なんかは追及せず、各時代時代で“クレオパトラ”はどう見られていたか、永代静雄のクレオパトラ像はどういうものだったか、と考えてみるわけである。
 そういうイメージの変遷史をたどるうえで参考になりそうだと読んでみたのがメアリー・ヘイマーの『クレオパトラという記号 ―歴史、ポリティクス、表象』(正岡和恵・橋本恵訳、ありな書房、2003. 原著 1993.)なんだが、 フェミニズム色が強いせいか、学術書としては、たまに論理の飛躍というかツメの甘さもありつつ面白い。例えば最初のほうに、こんなことが書いてある。
     プルタルコスによれば、イシスはオシリスの妹であり妻であった。彼らの間には、子宮の闇のなかで、生まれる前から性交渉があったとされている。
 そんなこと書いてたか? と思って岩波文庫の『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(柳沼重剛訳、1996. 『モラリア』の一部を独立させたもの)を読んでみると、確かにちらっとそんなことが書いてある。
 さすが『 Incest : A New Perspective 〔近親相姦―新しい視点〕』(Polity Press, 2002.)の著者、メアリー・ヘイマーだ。 いや、最近刊行中の西郷信綱 『古事記注釈』〈ちくま学芸文庫〉でも、古代の“妹(いも)”はいもうとじゃなく妻の意味と捉えるのが普通だが、イザナギとイザナミは実の兄妹と考えたっていいんじゃないかみたいなことを書いてたが、そう考えたほうが世界の神話や古代の王族に近親婚が一般的なことと整合性は取れる。 古代エジプトの近親婚は、王族以外にも一般的だったとか、そんなことは無いとかの議論があるが、血の濃さを保つ、というか財産を分散させないためには近親婚が一番なことはハッキリしている。 だから、そっちはどうってこともないんだが、子宮の中でセックスしてたってのが笑える。早過ぎだろ!
 しかし世の中の“現実的”な人々は、事実は小説より奇なりというほうに愉しみを見出すようだが、小生は現実より創作のほうが過激でないと我慢ならない性格だから、なんか実に嬉しいな。こういう、現実には超えようのない神話が存在するというのは。 そういう意味では“ロマン派”ですよ。 〔2006年2月6日〕

 ところで、妙なことにこだわってしまったようだが、ドイツ初期ロマン主義を代表する ノヴァーリスの『サイスの弟子たち』〈ちくま文庫〉版には、こう注釈がされている  (サイス、というのはナイル河口のデルタ地帯にあり、大規模なイシスの神殿があったとされる土地。『サイスの弟子たち』は、そのイシス神殿の学生たちの物語だ)。
    イシスはオシリスの妹にして妻、また、性的結びつきなしに息子ホルスを生む。 早い時期から大地母神、自然の女神、技術をもたらす神、愛の女神など、さまざまな属性が付与され、古代ローマでもおおいに信仰された。 またフリーメーソンの儀式にもイシス信仰の残響がある。イシスのヴェールは、プルタルコス『イシス、オシリスについて』によれば、 顔を覆うものではなく、薄い外衣である。この紗衣の裾をめくるとは、性的含意があるとされる。 処女にして母という点は、ときに聖母マリアの観念と融合される。 〔49頁〕
 どういう脈絡か、禁欲的なイメージも強いわけだ。 そういえば、フランスのロマン主義を代表する“幻想詩人”ネルヴァルも、これまたイシス信仰とでも言うべきものを持っていたようだが、そのネルヴァルを論じた文章で稲生永は、こんなことを書いている (「女神イシス変幻」、澁澤龍彦編『エロティシズム』1973.所収)。
    ヘブライ語で「処女」はイシャという、つまりイシスのことである。 たとえばエペソスのディアーナ像であるものは、二種の乳房をそなえている。 一対の母の乳房と一対の処女の乳房とを。これはイシスと処女との合体の一例と見なしうるだろう。
 エジプト産のイシスと“ギリシャの森と多産の女神ディアーナ”が同一視されて融合した結果が「多乳房女神像」と考えられるという。 ディアナ(英語読みでダイアナ)は本来ローマの神で、ギリシャではアルテミスと呼ぶべきものだが、これは議論の余地なく重なり合っている。 つまり、ここではイシス≒ディアナ=アルテミスの関係が成り立つわけだ。  しかし、どれが“母の乳房”で、どれを“処女の乳房”と言ってるのか判らないが、引用を続けると…
    フランスの先住民族であったケルト族の宗教ドルイッド教はこれをうけつぎ、《幼な児をもうけるべき処女》のためにシャルトルに聖堂を建立した。 これは現在の大伽藍の地下にその名残をとどめている。
 そのドルイドの“名残”のシンボルが、シャルトル大聖堂のクリプト(納骨堂)にある黒いマリア像ということらしい。  女神イシスと黒い聖母と呼ばれる彫像群を直結するのは乱暴なようだが、こういうものは“地中海文化圏に見られるのが特徴で、 この点からもイシスあるいはキュベレー、特にエペソスのディアーナ崇拝の影響を指摘しうる。” “最も古い彫像群はキリスト教以前のものであるが、それは明らかに膝にホルスを抱くイシスの像に近い。”  これを少し推し進めれば、聖母子像の起源に、ホルスに授乳するイシスの図像の影響を見るといった説になる。
 ところでエフェソスと言えば、マーク・トウェインの出世作である『地中海遊覧記』(1869.)に、こういう記事があった。
    アントニウスはこの地で裁判官をしていたが、代弁者が話をしているというのに、公開法廷の自席を離れて、 扉のところを通り過ぎたクレオパトラのあとを追っかけたことがある。ふたりはこの街から、銀の櫂をそなえ、芳香をしみ込ませた帆をはったガレー船に、 接待役のおおぜいの美女のほか、自分たちを楽しませてくれる俳優や演奏者を乗せて、遊覧旅行に出かけた。 また、この街の歴史が始まった頃から はるかのちの時代、ほとんど近代とおぼしき頃のこの地で、使徒パウロは新しい宗教を説いた。  〔中略〕 これはキリストをみたことがある人間が、まだたくさん生きていた頃の話だ。 マグダラのマリアが死んだのもここであるし、古代ローマ帝国が彼女の死後、その墓をほかの場所に移すのがいちばんいいと判断したけれども、 聖母マリアがヨハネとともにその生涯を終えたのもここである。 〔四十章「エフェソス。貴重な遺跡の世界」、吉岡栄一訳、彩流社、1997.〕
 なんでも「ダ・ヴィンチ・コード」では、マグダラのマリアが“黒マリア”という話だ。 娼婦のはずがキリストの妻で、キリストの子も産んでいたというストーリイだから、海外ではずいぶん紛糾したらしい。
 まぁマグダラのマリアも“実像”なんてものは、そうそう判らないわけだが。
 …といった昨今の話題はともかくとして、駆け出しの頃のトウェインは、こういう紀行文に人気があったらしい。  銀の櫂に芳香をしみ込ませた帆といったクレオパトラの船の描写は、『プルターク英雄伝』から出たものだが、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』にも使われて非常に印象深いセリフになっている。 誰もが引用したくなるくだりだ。永代静雄の本も、その場面から始まっている。 〔6月13日〕
       樹立(こだち)薫るタルサスの(まち)
     かの紺碧の蒼空(おほそら)には、いま、音も無く(きし)り行く真昼の日輪(にちりん)を見る。洋々たる白銀(しろがね)の光よ、シドナスの 河に(よろこび)(かゞやき)を流し、その輝は再び天上の栄光に(かへ)る。 …
 といった美文調が『女皇クレオパトラ』の特徴だ。『アリス物語』とは全く文体が違うが、やはり読みとばせて腹に溜まらないのがいい。 (引用文からだけでは、よく判らないと思うが…)
 この文章にもあるとおり、クレオパトラの船のエピソードは「タルソス」が舞台で、「エフェソス」ではない。 どちらもトルコ領だが、地理的にはかなり離れた街だ。
 トウェインは、ふたつの街のエピソードをごっちゃにしているんだが、アントニウスがクレオパトラを追っかけたというのは、 アクティウムの海戦の前、オクタヴィアヌスの仲間がアントニウスを悪く言うために披露したエピソードだ(『英雄伝』アントニウス 58節)。  トウェインの記憶違いが生じたのは、そのころアントニウスとクレオパトラの同盟軍が、エフェソスに集結して、オクタヴィアヌスを牽制していたからだろうか(同前 56節)。
 あるいは、タルソスの街で、アントニウスはカエサル(シーザー)の死後、初めてクレオパトラと会見するのだが(25-6節)、 その直前にアントニウスが、エフェソスで酒神ディオニュソスを気取って騒ぐ話のあるのがトウェインを惑わせたのかも知れない。
 アクティウムの海戦は、エジプト王朝の滅亡を決定した事件だから、何やらアントニーとクレオパトラの物語の最初と最後をつなげたみたいな形だが。
 別にトウェイン一流のジョークで、わざと間違えたわけじゃあるまい。
 パウロの生まれ故郷もタルソスで(『女皇クレオパトラ』の最初の章にも“基督(きりすと)教会の大立者(おほだてもの)たる使徒ポーロを生めるタルサスの市”と書いている)、 だから、パウロが布教を開始したのもそのタルソスかも知れないが、トウェインはエフェソスで書かれた「コリント人への第一の手紙」に言及しているくらいだから、これは別に間違いじゃない。 聖母マリアとヨハネのエピソードも伝説に過ぎないが、トウェインの時代の常識からすると、これも間違ってない。
 と、面倒な話に こだわり過ぎのようだが、引用したトウェインの文章、短い中にクレオパトラと使徒の布教活動が連続して書かれたことに意味がある。  これは新聞記者マーク・トウェインの執筆意図とは関係がない。むしろ、無意識に書いていることが大事なのだ。
 『クレオパトラという記号』のメアリー・ヘイマーの言葉を借りれば、“クレオパトラを、西欧文明における創建の神話として位置づけるという問題”である。
    アウグストゥス帝のローマは、その建築、法制、文学、歴史などによって、市民秩序の理想の源と考えられてきた。 この時代は、西欧の精神のなかで、さらにいまひとつの起源、キリスト教の創始者キリストの生涯と結びつけられている。 周知のように、アウグストゥスは、人民が一人のこさず住民登録するようにと命じた。そのためイエスは、故郷のナザレから遠く離れたベツレヘムで生まれたのだ。  〔中略〕 アウグストゥスがクレオパトラの権力を打破し、間接的にではあっても彼女を死に追いやった紀元前三〇年以降、彼はローマに己の政権を新たに樹立したのである。 これを記念して、彼は「アウグストゥス」と改名した。それ以前、彼はオクタヴィアヌスと称していた。ふつうなら彼の誕生月である九月を、それにちなんで改称するところだ。 だが、オクタヴィアヌスはこの慣例に従わず、自分に敬意を表するならば、クレオパトラを滅亡させた月にアウグストゥスの名をつけるべきだと命じた。 したがって、われわれはいまでも八月を「オーガスト」と呼んでいるのである。
 なるほど、これは日本人には気づかれにくい。いや、欧米でもクレオパトラの生涯はメロドラマそのものと思われがちだし、 アクティウムの海戦なぞはクレオパトラが恐怖心から逃亡し、アントニウスは考えもなくあとを追って戦線離脱したと巷間言われているから、軽く見られがちだが、 もちろん古代史の中では時代を画する大事件だ。  それにクレオパトラは、誰でも(歴史の好きでない人でも)名前を知っている最古の女性と言っていい。  〔6月15日〕

 ところで、どうして女神イシスの伝播にこだわるかと言えば、クレオパトラその人が、戦略的に自らにイシス神のイメージをかぶせていたからだ。  『クレオパトラという記号』の第 1章では“史料に記述されている聖牛アピス崇拝へのかかわり、デンデラ神殿の壁面浮彫り、 クレオパトラがアントニウスにタルソスで会見した時の壮麗な様子、二人が自らをイシスとオシリスとして表象したこと、 そしてクレオパトラの死の劇的場面(タブロー)”といったものを、“演劇的行為”で、“宗教的かつ政治的なスペクタクル”だとする。
 デンデラ神殿のレリーフというのは、クレオパトラを扱った本やTV番組には必ずといっていいほど紹介されるから、ご存知の方も多いだろうが、向かって左端の女性がクレオパトラ、その右がカエサルとの間に生まれた息子カエサリオン=プトレマイオス15世を現す (あるいは右の人物がカエサルもしくはアントニウスで、その足元にいる小さな人物がカエサリオンと言われたりもするが、メアリー・ヘイマーはその小像を、カエサリオンの霊、と説明している)。 ここでクレオパトラは、牛の角と太陽円盤で出来たハトホル神の冠をかぶっている。ハトホルはふつう、牛の頭か牛の耳を持つ女神だが、乳牛のイメージから「王母」と とらえられ、そこからホルス神の母・イシスと同一視されるようになった。特にデンデラでは、ハトホル=イシスである。
 エジプトを制覇したアウグスティヌスも、結局クレオパトラと同様のイメージ戦略を取った。 デンデラ神殿にはアウグストゥスがハトホル女神の神官として描かれ、別の場所には聖牛ブキスに捧げものをする姿が描かれているという。 スフィンクスの印章を自身のサインとして用いたアウグストゥスは、エジプトではファラオを名乗り、各地に記念碑的建造物をつくっているが、これは 「イメージによる支配」 に積極的だった証拠と言えそうだ。
 ともあれ、クレオパトラには女神イシスのイメージが、強くあった。『プルターク英雄伝』にもクレオパトラは“公衆の前に姿を現わすときには、イシスの神聖な衣をまとい、新しいイシスと称えられた”(54節)とあるし、 シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』にも、そういうセリフが使われる。
 永代静雄も、アレクサンドリア戦争の頃のクレオパトラの姿を、こう表現した。

     クレオパトラ、芳紀(はうき)時に(わづか)に二十一歳、優婉〔=優艶〕(でう)々、光肌(くわうき)花と薫る。立てばそれアイシスの神の彫像(てうざう)()ける血潮の通へるものか、 ()せばそれオリンピアの女神の人間に(げん)ぜしもの()月界(げつかい)の花にも似たる顔面(かんばせ)(さら)なり、 肩より胸に、胸より腰に、はた(また)四肢に、威容輝やく(らう)たけさよ。
 クレオパトラのプトレマイオス王朝は、アレクサンダー大王の遠征以来根づいたギリシャ系なので、“オリンピアの女神”にも例えたわけである。…どうせなら、オリュンポスの神に例えて欲しかったが。
 ただ、クレオパトラに関する著書は永代以前に何冊かあるが、その王朝の系譜までも一般向けに解説した本は、おそらく『女皇クレオパトラ』が日本初である。だから、永代はクレオパトラがギリシャ系だということを特に強調した。 ちなみに「イシス」自体がギリシア語で、古代エジプトではアセトと言った (ローラ・フォアマンの著書によれば、 王座をエジプト語でイストと言い、それをギリシャ風にイスティスと呼んだものが、イシスに転じたらしい)。  とはいえ、永代静雄もクレオパトラを単に神々しく描いたんではなくて、“大なる妖美”と形容したりしているし、プトレマイオス朝のことは悪の温床と考えている。
 クレオパトラの妖婦・娼婦的なイメージというのは、すでに紀元一世紀のローマの詩人、ルカヌスに典型的に見られるが、クレオパトラの生前からそこまでの印象を持たれていたかと言えば、そんなこともなさそうだ。 クレオパトラと同時代を生きた詩人ホラティウスの場合、アウグストゥスの庇護を受けた人だから当然のようにクレオパトラへの偏見がある(“運命の魔女”とは呼んでいる)が、それでも、誇りを失わない女王として描かざるをえなかった。 アウグストゥス帝が文芸を保護したというのも、イメージ操作の一種のように思えるけれども、それはそれとして、『クレオパトラという記号』では、ローマとエジプトの“文化的差異”が、エロティックな印象を生んだのだと指摘する。
 ローマというのは、言うまでもなく完全に男性社会だった。
    エジプトでは、娘と息子が同等の相続権をもち、女性にも夫を選ぶ自由があった。エジプトの女性がローマの男性たちにとって自堕落だと思われたのは、この自由のためである。
    〔ローマでは〕公衆に姿を見せることは、すぐさま性的放埓さと結びつけられたのである。 カエサルの同時代人であるガイア・アフラニアが法廷で自己弁護すると主張したとき、彼女の名前はみだらな女性の代名詞になった。 ローマ人たちは、女性が公の場でその存在を認知されたり、恥辱をともなわないで姿を現したりできるような、ましてや国家を代表したりするような、言語や意味作用の実践をもたなかった。
 確かにギリシャやローマに女帝が出現するなんてことは、ありえない。
 クレオパトラは、ローマ人にとって存在自体がありえない、“侵犯的”な国家元首だったのだ。
 といっても、エジプトが女性上位の世界だった、わけではないのだが。 〔6月20日〕

 ジョイス・ティルディスレイ『イシスの娘 古代エジプトの女たち』(細川晶訳、新書館、2002.)では、 最初のほうに次のようなヘロドトスの文章を挙げている。
    エジプトのひとびと自身が、生活様式や風習のほとんどにおいて、人類に共通の慣習とはまるで正反対のものを持っている。 たとえば、市場へ出かけて商売に精を出すのは女性で、家にいながら機織りにいそしむのは男性である……。 おなじように、荷物を肩にかついで運ぶのは女性で、それを頭の上にのせるのは男性である……。 男の子たちは頼まれないかぎり親の手伝いをしないが、女の子たちは、頼まれようと頼まれまいと親の手伝いをすることが義務である。 〔『歴史』2巻35〕
 だから、てっきり、そういう内容の本かと思ったら、中身はむしろ、逆だった。
 というより考古学上の成果が、ヘロドトスの記事を否定するのだ。  墓壁を調査すると、“女性が働いている絵などはまず目にすることがない”一方で、食料を頭に載せて運ぶ女性の図もある。
 機織りは やはり女性の仕事で“「織り手」を指す古王国時代のヒエログリフ”は、“シャトルらしいものを持って座った女性”の形象文字だった。 ただ物資が豊富で、物々交換も盛んだったために、家庭で機織りをしなければ、という強制的雰囲気が無かったらしい。 特に新王国時代の商業的な機織り機は男性がもっぱら扱っていたようだ。
 王妃の墓を例外とすれば、壁画の女性は“夫よりも小さく描かれ、男性のうしろに立っていることが多い”。 女性が重要な職に就くということもなく、ジョイス・ティルディスレイは“これはちょうど、ヴィクトリア朝かエドワード七世時代の上流階級の倫理観に似ている”とさえ言う。
 ギリシャやローマに較べて女性の自由度が高かったのは確かだが、クレオパトラでさえ、完全な単独統治は難しかったようだ。 弟(プトレマイオス13世、14世)との共同統治のあとは、息子カエサリオン(プトレマイオス15世)との共同統治という形式を採った、と最近のクレオパトラ伝には書いてある。
 クレオパトラと弟たちは、エジプト王家古来の法則にのっとり、結婚して統治した。これについて書かないような伝記は無いが、あくまでそれは形式的な結婚とされている。 プトレマイオス14世は幼児に過ぎないし、13世とはアレクサンドリア戦争を繰り広げたのだから、常識的には疑いをはさむ余地もない。  しかし、ローマの詩人、ルカヌスは“弟と交わったあの不道徳な女は、ローマの指導者(カエサルのこと)と交わり、次々と夫を取りかえながら、ローマをものに”したと非難した(『ファルサリア〔内乱賦〕』、高野優訳)。
 風俗史か何かをかじった人なら、むしろローマ人のほうに好色な印象を持っているはずだが、等親の近い者同士の結婚は、ローマ法の避けるところだった。 ここにも“文化的差異”が作用している。
 検索してみると近年、クレオパトラとその弟に肉体関係があったという前提で書かれた劇が、本邦にもあったようだが、これは観てないからコメントできない。 しかし、心理劇としてはそのほうが面白そうだ。実際、例えばプトレマイオス2世とその姉アルシノエ2世には肉体関係があった。
 そういえば今年の 4月に、劇団 ファントマの「古代エジプト・ハードボイルド クレオパトラ」(伊藤えん魔・作)というのを観たが、 これは反魂(はんごん)の法でシーザーが復活するというような作品で、ギャグも満載の内容ながら、クレオパトラ自体の解釈は おとなしかった。 近代的な恋愛感覚で、クレオパトラがアントニウスに操を立てるといったふうなのだ。 といっても、この演劇はダブル・ストーリーで、クレオパトラがシーザーを愛する「シーザー・バージョン」というのも別にあったのだが、観ていない。
 …と、フィクションの世界の話はそのくらいにして。
 古代エジプトでは近親婚が王族以外にも珍しくなかったという説についても、ティルディスレイは“誤解”と明言している (メアリー・ヘイマーなどは、むしろ誤解したがっているように見えるが)。  『イシスの娘』には“誤解”が生じた理由として、血縁関係を表す言葉が、家族でないものにも用いられたことを挙げている。
    「妹(姉)」というやさしい呼びかたなどは、愛情をそそぐ女性なら誰にでも広く用いられたので、 妻はもちろん、愛人、いとこ、姪、おばなどを意味していた。古代エジプト人は好んでこういう言葉の使いかたをする。 〔62頁〕
 似た話で、クレオパトラの称号“フィロパトル”(父を愛する者)に近親相姦的な関係を想像する人もある (例えば、P・ファンデンベルク『クレオパトラ 世界帝国を夢みた女』) が、 プトレマイオス 4世も7世も12世も“フィロパトル”を名のっている。そういう“言葉の使い方”が伝統になっていたとしか言いようがない。
 その他、オリエンタリズムから来る古代エジプトに対する幻想を、『イシスの娘』は小気味よいくらい否定する。ほとんどのエジプト人男性は一夫多妻でなく、一夫一婦を守った。  オスマン・トルコ風の宮廷ハーレムもエジプトには存在しなかったようだ。 …やや残念な気もするが。
 言うまでもなく、結婚適齢期は早かった。
    十三か十四になるともう、女の子は結婚を心待ちにするようになる。 母親のほうは、たぶんまだ三十にもなっていなかったと思うが、早くも自分にも義理の息子ができて、 みんなに慕われるおばあちゃんになりたいと心待ちにするようになったのである。 〔2章末〕
 三十路前で“おばあちゃん”というのが言葉のアヤでも何でもなかった。 男子の適齢期はもう少し上と考えられるが、 宗教的には、16歳というのに意味があったようだ (この話は『イシスの娘』等には書いてない。  →参考サイト『Barbaroi!』−〈インターネットで蝉を追う〉−『神聖文字法 ( Hieroglyphica )』 1巻32)。
 偶然だが、カエサルも16歳で父親になっている (ローマ法上の結婚は女子12歳以上、男子14歳以上)。
 カエサルという人は武骨一辺倒でなく、明晰な文章を書いたことでも知られているが、その著『ガリア戦記』は、ゲルマン人の風習について、こう記す。
    その生活は狩猟と武事にはげむことである。幼い頃から労働と困苦を求める。いちばん長く童貞を守っていたものが絶賛される。 その童貞を守ることによって身長ものび体力や神経が強くなるものと思っている。 二十歳前に女を知るのは恥としている。このことについては少しも隠し立てをしない。 河で混浴し、獣皮や馴鹿の短衣を着ているので、身体の大部分は裸である。 〔6巻21節、近山金次訳〕
 これには笑わされた。ここにも異民族への偏向した視線はあるのだろうが、タキトゥスの『ゲルマーニア』(紀元98年)では、この内容を受け継ぎつつ、 ゲルマン人は一夫一婦で貞節、処女性を重んじ、姦通は少ない、と奇妙な理想化をしている。これはタキトゥスの目にローマが退廃した社会と映ったために、自国への批判をこめて、そういう見解になったわけだが。 それにしても、当時の平均寿命を考えると『ガリア戦記』の記載は不思議な気がする。
 アウグストゥス帝が戸籍調査を徹底させたことは前にも少し触れたが、『古代ローマを知る事典』(東京堂出版、2004.)によれば、 当時の戸籍による平均寿命は男性25歳、女性22.5歳。もっとも、戸籍簿自体はほとんど散逸しているそうだ。 そこで、平均余命を算定した「生命表」が、すでに 3世紀前半にはつくられている(年金のための課税額を算出する目的から生まれた!)ので、それによって修正すると男性20.5歳、女性22.5歳。  墓碑から調べた平均寿命も、男女ともに22.5歳で、誤差を含めて考えても、25歳以上ということはありえないらしい。そういう点では現代と、基準が違い過ぎるくらい違うのである。
 今回扱った歴史が どれほど「古代」のものか、『イシスの娘』の“訳者あとがき”を読んで再認識しておこう。
 例えば日本史上、最初の“実在する女性”と思われる卑弥呼の時代は、中国では三国志の時代である。
    そういうことを思っただけで、私たちは充分に圧倒される。それなのに漢に先んじた秦の始皇帝のころ、三千年近く続いたエジプト王国はその役割をほぼ終えていた。 当時のエジプトは王国時代の残り火のようなプトレマイオス朝を生きており、ローマという新しい世界秩序に組み込まれようとしていたからである。古代エジプト史の出口はヨーロッパ史のほぼ入口につながる。 エジプト人は、長い歴史と高い文化を誇ったギリシャ人を「生まれたての子ども」に見立てたという。
 そのギリシャ人、ヘロドトスの書いた『歴史』なぞは、司馬遷の『史記』を遡ること300年前に完成されたものだ。  中近東の歴史を相手にするためには、そういうスパンでものを見ることが要求される。
 そういう意味では、マーク・トウェインがキリスト教発祥期のエフェソスを “ほとんど近代とおぼしき” と書いたのも、冗談とばかり言えない。  アガサ・クリスティのオリエント発掘旅行記を読めば、“わたしたち調査隊の観点から言えば、ローマ人は歴史的に救いがたいほど近い ― ついきのうまで生きていた人たちでしかない”という記述にぶつかるだろう。 クリスティの夫である考古学者マックスが、「ローマ時代だ!」と侮蔑の言葉を吐いて、新らし過ぎる土器片を放り投げる場面に、ニヤリとさせられる。
 早大調査隊の吉村作治教授が、王国時代のエジプトの遺跡を発掘していると、クレオパトラの時代の遺跡に新しさを感じると言うのも、うなずけるというものだ。 〔6月22日〕


 話を戻して 『クレオパトラという記号』 だが、その目次をながめて「第2章 主婦としてのクレオパトラ」だの「第3章 ニュートンとクレオパトラ」などという章題に違和を感じた人は多いんじゃなかろうか。
 実際、第2章ではヤン・デ・ブラーイの「アントニーとクレオパトラの饗宴」(1669.)をみた著者メアリー・ヘイマーの違和感が、主題になっている。 デ・ブラーイの絵にタイトルが付いてなければ、これが本当にクレオパトラを描いたものかと思ってしまう。 帝政ローマ以来、中世からルネサンス期を経て、あるいは現代でも、クレオパトラには娼婦的イメージが強いのに、この絵はぜんぜん蠱惑的じゃない。 結論から言えば、宗教改革によって結婚が理想化され、貞淑な主婦のイメージがクレオパトラにもかぶせられたというわけだが、 それにしても、こんなふうに子どもが目立つ〈クレオパトラの饗宴〉も珍しい。女王が主役ではなく、夫のアントニウスに威厳がある絵なんていうのも、初めて見たくらいだ。
 ちなみに〈クレオパトラの饗宴〉という画題では、ふつう“クレオパトラの真珠”と呼ばれるエピソードが描かれている。 ご存知の人も多いと思うが、クレオパトラがアントニウス相手に、非常に高価な真珠を耳からはずし、ワイン・ヴィネガーに溶かして飲んで見せたというもの。 当時の真珠は稀少価値がそうとうなもので、“ローマの属州ひとつが買えた”などと説明されるが、これは17世紀のジョン・ドライデンの戯曲に出てくる例え話を誤解したもののようだ。 しかし古代には、現在の感覚と異なり、金や一般の宝石と比べて非常に高価だったことは間違いない。
 もっとも、ヴィネガー(酢)に真珠が完全に溶解することはありえないわけで、クレオパトラは真珠を丸呑みにしたか、粉末にした真珠を飲んだか、あるいは架空の伝説に過ぎないと考えられる。 この話にはヴァリエーションが多いが、大元の出典はプリニウスの『博物誌』だろう(9巻58)。石灰質の真珠を溶かしたヴィネガーが炭酸飲料の起源、などと説明したサイトもあった(笑)
 「ニュートンとクレオパトラ」の章で取り上げるティエーポロは、〈クレオパトラの饗宴〉を何回も描いている
 地味にも感じるが、侏儒(小人)や道化のような人物が出て来る、サーカス的な祝祭空間として〈饗宴〉を設定しているようだ。 この18世紀のヴェネツィア派の画家は「トロンプ=ルイユ」を得意とした。いわゆる“だまし絵”というやつで、 実物の壁や柱の間に室内装飾として絵をはめ込むという手法だ  (現在ではエッシャー風の絵画から、ファッションにまで「トロンプ=ルイユ」という言葉を幅広く使っている)。
 “ジャン・ボードリヤールの論じるところによれば、トロンプ=ルイユは、遠近法的に見られた世界を土台からゆるがしてしまう。” メアリー・ヘイマーによると、遠近法自体、17世紀前半には目をあざむくダマシの技術と、はっきり認識されていた。  イリュージョンをつくり出す技術。 このあたりで「ニュートン」がからんで来るんだが、正直これはメアリー・ヘイマーのレトリックのようなもので、「トロンプ=ルイユ」と「ニュートン光学」に直接の関係があるとは思わない。 しかし、どちらも18世紀に盛んで、特に「ニュートン主義」というのは物理学理論にとどまらず、美術への応用はもちろん経済学にまで波及したムーブメントだから、関係があると言えば、あるとも言えそうだ。
 アイザック・ニュートンの死から10年後の1737年、フランチェスコ・アルガロッティが『御婦人方のためのニュートン科学』という本を出版している。 “アルガロッティは「ニュートン主義」という総称的表現をつくりだした最初の人物”で、建築論からオペラ論まで18世紀の芸術を研究する上では欠かせない人らしい(今回、調べてみて初めて知ったが)。
 今日、ニュートンと言えば万有引力の法則の印象ばかり強いが、当初は光学の分野の業績で知られていた。  光をプリズムに通せば 7色のスペクトルが見えるというような実験はインパクトが強いし(文字どおりのスペクタクルだ)、ニュートン力学を総括した『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』は、難易度が高すぎたのである。
 アルガロッティの本では、著者と“侯爵夫人”の対話形式で、話が進む。例えば、湯船に横たわって、自分の躰が「変形し、曲折する」のを観察した、と侯爵夫人が光の屈曲を問題にするわけだが、これはメアリー・ヘイマーのようなフェミニストから見ると、いかにもうさん臭い。
    わたしたちの触覚が、顕微鏡が眼に見せてくれるものすべてを感知できるくらい鋭いとしたら、 大層不快なことでしょう。もしわたしたちの五感が完璧であったならば、このうえなく滑らかな面に 触れても、その細孔をことごとく感じとってしまったり、少しの突起におののいたりするようになり、 わたしたちは、まこと、きわめて不幸になることでしょう。〔中略〕 わたしたちが穏やかな快楽を もてるのは、わたしたちが心地よく欺かれていることによるのです。
    世界中のすべての顕微鏡、すべての哲学をもってしてもあなたの容貌が裸眼に美しく映ることを さまたげることは決してできないのです。〈クレオパトラ〉ですらそう聞けば満足でしょう。
 肉眼で見たものは絵画的な“イリュージョン”に過ぎず、科学的な“真実の視”とは断絶があるが、アルガロッティはこれを “だまされる歓び” を強調することで、ごまかそうとする  (男の視点からするとそれで十分という気もするが、メアリー・ヘイマーは、いかにも不満そうだ)。
 御婦人向けに光学を解説したということが、この本に奇妙なバイアスをかけているのだが、サロン文化の例を考えても解るように、 この当時、身分の高い貴婦人の中に、科学のパトロンや、学者と呼べる女性も存在した。 アルガロッティは、この本に注釈を付すために、エミリー・デュ・シャトレ夫人の協力を仰いでいる。
 夫人は一般にヴォルテールの愛人として知られるが、高度な数学を理解し、ライプニッツとニュートンを信奉していた (以下の解説はメアリー・ヘイマーの著書には無い)。
 『プリンキピア』をフランス語に訳したのもシャトレ夫人で、現在に至るも、まともな完訳はこれだけだという。 この翻訳秘話が、また、凄い。42才のシャトレ夫人は、若い恋人で詩人のサン・ランベール侯爵との間に子どもが出来てから、文字どおり寝る間も惜しんでこの仕事に没頭していた。妊娠 8ヵ月でも、一日のうち 18時間、翻訳作業をしているような状態である。 無理がたたってか高齢出産のためか産後の肥立ちが悪く、母子ともに亡くなってしまったから、『プリンキピア』は死後出版となった。序文はヴォルテール。
 しかし、サン・ランベール侯爵と長年の恋人ヴォルテール、夫であるシャトレ侯爵の関係も、妙に協力的なのが興味を引く。 もっとも当時の貴族にとって、結婚は家格と財産を守るためのもので、恋愛なぞは夫婦以外のところでやればいい、というくらいの価値観だったから、三角関係、四角関係はありふれてるが、子どもの認知問題で協力するというのも珍しい。
 詳しくは川島慶子の研究があるが、小生がエミリー・デュ・シャトレ夫人を知ったのは、去年出たヴォルテールの『カンディード』新訳の巻末解説だった。
 自分の研究分野とあまりにかけ離れているから、ヴォルテールの本なんて買うのは迷ったんだが、『クレオパトラという記号』を読んだら、シャトレ夫人が登場していたのには驚いた(それも、あらかじめ予備知識が無いと、わけの解らない書き方だ)。  まったく、どんな本でも読んでおけば、話がつながるものである。
 新版の『カンディード』では冒頭に「ミクロメガス」という短篇が入っているんだが、これが巨大なシリウス星人と土星人が地球にやって来て、首飾りのダイヤを顕微鏡代わりにして地球人を発見する… というような物語で、パラパラ読んだだけで愉快になってしまったのだ  (北原尚彦 『 SF万国博覧会』にも、“SF界でいちばん よく知られているのは「ミクロメガス」のほうだろう”と書いてある)。
 そう言えば、昨年来の『星の王子さま』新訳刊行ラッシュも、6月に倉橋由美子訳が文庫化されたことでやっと区切りがついたようだが、その「訳者あとがき」を読んでみたら、
    〔王様、うぬぼれ男、大酒飲み、ビジネスマン、地理学者などが登場する前半の滑稽な部分を〕何倍か複雑にして大人向きの理詰めの小説、あるいは哲学コントに仕立てると、 ヴォルテールの『カンディードまたはオプティミズム』のようなものになるのではないかと思います。 サン=テグジュペリのこの小説も、なかなか理屈っぽい硬質の文章で書かれています。
 ― とあった。倉橋由美子は作家として著名な上に、『星の王子さま』の翻訳を最後に病死したこともあって、この本も比較的注目され読まれていると思うが、確かに“硬質”な訳文で、悪くない。 まぁ漢字が多くてフリガナが少なく、「です・ます体」ではない、という程度の意味だが。少なくとも集英社の池澤夏樹訳よりは巧い。 「です・ます体」で正統派の翻訳としては、ちくま文庫の石井洋二郎訳がよさそうだ。みすず書房の山崎庸一郎訳は評判よいようだが、読んでない (さすがに読んでない訳は多い)。 個人的には 5月に出た新潮文庫の河野万里子訳が新鮮で、読みづらい点もなく、おすすめ。
 子どものころ、ややクセのある岩波少年文庫の訳で読んだ人には、その読みづらい部分も含めて旧訳が好きという面があるようだが、逆に新訳(特に新潮版など)を先に読んでいれば、旧訳は読めないかも知れない。 小生も、むかしに読んではいるが、幸い 丸っきり内容を忘れていたので、新訳をけっこう楽しめた。
 さらに芋づる式に話をつなげるが、風間賢二の『ジャンク・フィクション・ワールド』には、 テリイ・サザーン『キャンディ』(1958.)も、主人公の名前を『カンディード』から取った、と書いている。
 このポルノ小説はモーリス・ジロディアスが出版したことで有名。 エヴァ・オーリン主演の映画(1969.)は、男優陣がリチャード・バートン、マーロン・ブランド、ジェームズ・コバーン、ビートルズのリンゴ・スター、シャルル・アズナブールと妙に豪華な顔合わせだ (いずれにしろバカ映画だが)。  〔7月 1日〕


 4月の新刊、矢代梓の『年表で読む二十世紀思想史』〈講談社学術文庫〉は、タイトルどおり“読む年表”形式の本だが、 “二十世紀思想”最初の年を 1883年に設定している。

    1883 明治十六年 二月十三日  リヒャルト・ワーグナー、〔中略〕妻コジマの腕のなかで息を引きとる(六十九歳)。書き遺した最後の言葉は、「愛 ― 悲劇」だった。 〔下略〕
    三月十四日 カール・マルクス、ロンドンの自宅で死去(六十四歳)。 〔下略〕
    『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロル、前年の一八八二年に創立されたソサエティー・フォー・サイキカル・リサーチ(SPR)に加入、 死(一八九八年)の前年まで会員だった。死後、彼の遺品のなかからは『心霊思想の光と陰』『魔術哲学』『心霊の世界』といった本に混じって、SPR の機関誌が十一冊見つけられている。
     エミール・ゾラ、〔中略〕『御婦人方のパラダイス』を『ジル・プラス』紙に連載した後、刊行する。この小説はパリの百貨店ボン・マルシェをモデルにしたもので、〔中略〕来るべき高度消費資本主義文明の姿を予見した、先駆的な作品といえる。  〔下略…〕
 今村仁司の解説によれば、ワグナーの死から「年表」をはじめたことにも、けっこう象徴的意味があるという。  “啓蒙主義とロマン派から開始する”潮流は、ワグナーで“独自の偏りをみせながらも絶頂に達する。” “ワグナーはひとつの総括”で、かつ“次の時代への連絡路であった。”
   “二十世紀は、「ある種のマルクスの子供」と「ある種のワグナーの子供」の時代であった。”なんて言い方を今村はするのだが、そんな年表の中に、ちゃっかりキャロル晩年のオカルト趣味の話が割りこんでくるところが面白い。  まぁキャロルのオカルト志向が どの程度のものだったかは疑問の余地があるが。 〔4月27日〕

    1913 大正二年 五月二十八日 アンリ・ベルクソン、ロンドンの心霊研究協会(SPR) で、 「『生きている人のまぼろし』と『心霊研究』」と題する講演を行なう。SPR は一八八二年に創立された、「普通の心霊主義団体ではなく、独自の社会的、知的な地位を持った」人々の集団で、詩人のテニソン、批評家のラスキン、心理学者のW.ジェームス、物理学者のJ・J・トムソンなどが名前をつらねていた。  〔中略〕 コレージュ・ド・フランス教授の職にあったベルクソンは、かねてより「透視」とか「精神感応(テレパシー)」といった現象に関心を有していた。
 1913年は、前にも書いたように福来友吉が東京帝大の職を辞した年。 これをどう考えるか難しいところだが、世界的なムーブメントに日本も乗り遅れていなかったのが、福来の退官で心理学研究の幅がせばまったという見方はある。
 同時にこの年は永代静雄の『満朝の花』が書かれた年 …という話は、さすがに読者も飽きが来たんじゃないかと思うが(笑) 小生としては『満朝の花』執筆のため、この前後に刊行された本を読みまくったため、「年表」なんか見ても未だに最初にチェックする年は大正 2年だ。
 『満朝の花』は『終編不如帰』同様の“垂直離着陸機”が登場する SF 的な作品だが、超自然的なところは無い。  しかし大正6年以降に書かれた“神秘探偵小説”は超能力を小説に(すこぶる安直な形で、だが)用いた早い例だ。 〔4月29日〕

 7月の〈ちくま文庫〉の新刊。
 アンソロジーの名手・東雅夫による〈文豪怪談傑作選〉『川端康成集』。 巻末解説では、川端康成がカミーユ・フラマリオン(拙サイトの読者はご記憶だろうか?)の心霊思想の影響を受けていたことを紹介。 東雅夫氏は、こういう思想が豊島与志雄らに影響したことにも、ちらりと触れているが(〈文豪怪談傑作選〉が終わったら次のアンソロジーはこのあたりか?) …小生も豊島童話に見られるアリスものの影響なんてのは、いずれ書きたいと思ってんだが、いつ書けることやら。
 
 東雅夫氏は『川端康成集』の解説で、「千里眼事件」の福来友吉が東大を追われた十年後、1923(大正12)年に 浅野和三郎という人物が 心霊科学研究会を創設したことにも触れているが、浅野はもともとラフカディオ・ハーンに私淑した、まっとうな英文学者だった。
 やはりハーンの教え子である戸沢姑射(とざわ こや)とともに「沙翁」すなわちシェイクスピアの全集を企画したりしている。
 戸沢の病気のため“全集”の出版は10巻で中断されるが(1909年11月)、その中断の翌月から坪内逍遥のシェイクスピア翻訳が“全集”化されはじめる(松本健一『神の罠―浅野和三郎、近代知性の悲劇』)。
 名高い坪内逍遥の全訳というのは一巻本もあるし、今でも読もうと思えば別に難しくない。
 これ以前の戸沢・浅野訳というのは、わりと最近復刻もあるんだが、忘れられている。
 大空社の〈シェイクスピア翻訳文学書全集〉で、第20〜36巻のあたりがそれに当たるが、高価なせいかこの復刻版を入れている図書館は少ない。大学図書館には、けっこう入ってると思うけどね。
 しかし、明治末には戸沢・浅野訳に新鮮味があって、よく売れたようだ。
 もちろん今から見れば古風な訳だが、「言文一致」風の文章で戯曲を訳したことに意義があった。
(なんでもラフカディオ・ハーンが、そういう韻律に こだわらない口語的な翻訳を勧めたからだと戸沢自身が回想している。  《英語青年》1950.7〜8.「『沙翁全集』の思い出話」)
 これに対して坪内逍遥の翻訳には、歌舞伎や何か、日本古来の演劇の調子が混じっている。
 『ジュリアス・シーザー』の最初の翻訳である「該撒(しいざる)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたち なごりのきれあぢ)」(1884年刊)などは、もろに浄瑠璃の形式で書かれているが、 1913(大正2)年に実際の上演のために訳しなおされた全集版の『ジュリヤス・シーザー』でも、 やはりどことなく“旧派”劇の雰囲気を残している (逍遥自身は『シーザー』を さかいに現代的口語を増やすようになったと言っている。 「沙翁劇の翻訳に対する私の態度の変遷」)。
 むかしの劇評を見ても、当時の若い世代にとって『シーザー』の舞台は、すでに古いと感じられたようだ。 まぁ古過ぎるところが今となっては味になっているし、戦前には歌舞伎風の脚本のほうが役者にとって実は演じやすいという面もあったようだが、 戸沢・浅野訳のほうが、その後に訳された坪内逍遥の全集版より、訳者の個性を主張しない点、現在の翻訳に近い感覚の文章と思える。
 なぜ、こんな話をするのかと言えば、目下小生の研究している永代静雄が、戸沢姑射訳の『ジュリアス・シーザー』を参照しているのが判明したからだ。
 永代静雄の『女皇クレオパトラ』は、カエサルを描いた部分ではシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を、アントニウスを描いた部分では『アントニーとクレオパトラ』を、当然ながら引用している。
 『ジュリアス・シーザー』に関しては、ほとんど戸沢姑射訳をそのまま使っていて、これはこれでシェイクスピア受容史を見るうえで興味深いんだが、 『アントニーとクレオパトラ』については、驚くなかれ、永代静雄が本邦初訳と言っていい。
 『女皇クレオパトラ』はシェイクスピアの翻訳書じゃないから、こんなことには気づく人もなかったようだ。
 ここで永代が時代に逆行するかのように、擬古文調を採用したのも面白い。
 実は『女皇クレオパトラ』が刊行された1914(大正3)年には、この本に続いて、クレオパトラの出版ブームが訪れるのだが (別に永代の本自体がブームの理由ではない)、そのあたりは研究誌のほうで詳しく書きたい。  ともあれ自分の研究対象が、シェイクスピア翻訳史の上でも無視できない本と解って、少しやる気が増した。 〔8月17日〕

    (後注) クレオパトラのブームは当時ヒットした映画の影響で、永代静雄の功績でも何でもないが、その映画の内容はシェイクスピア劇と、あまり関係がない。 しかし、その後のシェイクスピア版クレオパトラの翻訳ブームについては、もっと積極的に『女皇』の出版が刺激を与えた結果と見ることも可能だ。 永代の本のあと、『アントニーとクレオパトラ』の訳本を出版した加藤朝鳥(かとう あさどり。通称 あさとり、ちょうちょう)や 守田有秋(もりた ゆうしゅう)という人物は、 人脈的に永代と近い関係にある。次の記事で話題にする島村抱月が、坪内逍遥のもとを去り 新劇団を立ち上げたさい、これに「芸術座」の名を提起したのは、かつて永代に新聞記者の仕事を世話した安成貞雄だった。 永代と抱月のグループに、たとえ深いつながりでないにせよ、交流があるのは不思議ではない。  また、永代の友人・光用穆(みつもち きよし)と、逍遥の養子・坪内士行(しこう)にも交友関係がある。

 永代静雄の『女皇クレオパトラ』が出版された大正3年、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の翻訳ブームがあったことは前回、触れた。
 『女皇…』のすぐ次の月に発行された本が、島村抱月の『脚本 クレオパトラ』だ。
 これは抱月が率いた芸術座の舞台の脚本。女優・松井須磨子の存在で知られる劇団だ。
 大正3年は須磨子のうたう「カチューシャの唄」が、一世を風靡した年でもある。
 この時点では劇中歌自体が新鮮な試みだった。「カチューシャの唄」を劇中歌にした「復活」は、新劇初のロング・ラン作品でもあり、須磨子の亡くなるまでに444回公演されたという。 本当か?
 抱月・須磨子の「クレオパトラ」という劇は大正 3年の10月に公演されているんだが、「カチューシャ」のほうのイメージが強すぎるせいで、あまり研究されてない。
 いや、それどころか、当時の新聞を見ると、芸術座は「復活」と「クレオパトラ」の間に、「復仇」「死人の踊」「ハイヤニンスハルベ」の3本立て、 「コグダ」「ヂオゲネスの誘惑」の2本立てという、聞いたこともない公演を行っている。どうやって稽古をつけたんだ? というくらいなもんだ。 「復活」自体はあちこちで公演されたから、その合い間をぬってという感じだろうが。
 けっこう詳しいサイトや古い研究書にも「クレオパトラ」の初演を“大正4年4月”としているものがあるが、これは間違い。 細かいミスの多い小生としては、こういう指摘は やれた義理でもないんだが、これは『女皇クレオパトラ』とも多少関わって来るんで、はっきりさせて置く必要がある。
 抱月の「クレオパトラ」について〈東京朝日新聞〉は “『クレオパトラ』は島村抱月氏が沙翁(シエクスピア)の『アントニーとクレオパトラ』を改作したものであって 標題が原作の半分になっている如く芝居の中味も半分にされてしまっている” “貧弱の一語に尽(つき)ている 少しも恋愛らしい甘い気分が舞台の上に起こらない” “須磨子の白(せりふ)は例によってガチャガチャと厭(いや)な響を伝え 妙に固くって”機知を感じさせないと酷評している(大正3年10月28日。新字新かなとした)。
 当時は須磨子個人への人身攻撃もずいぶんあって、召使いの荷物を横領するとか、酒をあおって啖呵を切るとか書いた新聞もあった。たぶん「復活」が成功しすぎたことの反動もあるだろう。
 そういう評価のせいもあり、「クレオパトラ」は、すっかり忘れられた作品だ。小生の私家本でも最低限のことしか触れるスペースがないから(抱月・須磨子の研究書じゃないんで)、ここにちょっと書いてみた。
 しかし、こういう大正初期の新劇の動向と永代静雄というのも、関係ないようで関係はある。
 別に永代と、抱月や須磨子に交友があったわけではないが、それでも避けられない同時代性というものがあるのだ。  抱月の「クレオパトラ」も 永代の『女皇』も、大正3年のクレオパトラ・ブームに乗った作品だが、永代のほうが少しだけ発表が早い。
 そう言えば『不思議の国』を翻案するさい、永代が名のった匿名が「須磨子」だった。 永代の『アリス物語』執筆時には、もちろん「松井須磨子」は本名の小林正子である。まさか、小林正子が『アリス物語』なんか読んでなかっただろうが、ここでも永代のセンスは時代の半歩先を行っていたと思える。
 というような話だけでは、ひいきの引き倒しに過ぎないのだが、抱月のグループと永代に直接の関係も無いではない。  『女皇』にはバーナード・ショウの『シーザーとクレオパトラ』も引用されていることは、すでに触れたことがあるけれども(触れただけなんで、覚えてたら偉いが)、 これは楠山正雄の翻訳をそのまま転載している。20頁にわたって楠山の仕事として紹介していることからいっても無断借用とは考えられない。
 楠山は明治の終わり、やはりバーナード・ショウの『運命の人』を翻訳し、これを松井須磨子が演じている。  大正4年にはツルゲーネフの『その前夜』を訳し、芸術座で上演した。
 須磨子のうたう劇中歌「ゴンドラの唄」は、「カチューシャ」に続くヒットとなった。
 この歌は何度もリヴァイヴァルされているので、聞き覚えのある人も多いだろう。  〔9月2日〕

 坪内逍遥、島村抱月について語って来たが、最近は抱月が逍遥の門下だったというような、 かつては文学史の上で常識とされたことも忘れられている。  かくいう小生も、今度の研究誌のため調べてみるまでは全く逍遥の業績に関心が無かったのだが、 研究が進むうちにいちばん面白味が増して来たのは実のところ坪内逍遥という人物だった。
 教養の足りない人のため、とにかく基本事項から説明しよう。
 抱月は早稲田大学の教授で、早稲田では実質、学長に次ぐ立場だった逍遥の一番弟子だった。
 逍遥が私費で設立した文芸協会(第二次)の演劇研究所で抱月は指導講師を務めていたのだが、 妻子ある身で松井須磨子と不倫関係に陥った抱月を、逍遥は破門せざるを得なくなる。
 より正確に言えば、松井須磨子に退会を勧告すると、抱月も自主的に退会、のみならず家庭を離れ早稲田の教授職も捨てることになった。 しかし逍遥の演劇観を古いと見た若手は、むしろ抱月を盛り立て、文芸協会は解散、抱月・須摩子を中心に芸術座を結成することになる。
 逍遥派の人々は別に無名会などの演劇団体を立て、これもそれなりに活躍したが、世間は やはり芸術座に注目した。 逍遥が抱月を追い出したというよりは、抱月一派が逍遥を裏切って追い落としたくらいに捉えられたわけで、 逍遥をジュリアス・シーザーに例えて「シーザーが激怒するのをキッ掛けに 寄って集(たか)って刺した」ことを 連想させると書いた劇評家もある。
 今日の通説的な見解によれば、逍遥は成功者というよりは挫折を繰り返した失意の人、ということだ。
 これは弟子筋の人々や、養子であった坪内士行(つぼうち しこう)の回想から来た考え方で、それなりの説得力がある。 まず『小説神髄』でその名を広めた逍遥は、大してすぐれた小説も書けず、最初の挫折を経験する。 次に演劇界の指導者となるが、抱月の離反で第一線から退いた形になる。
 そのあたりは一般の演劇史か、須摩子の伝記でも読んでもらえばいいのだが、つづいて家庭内でも養子・士行の女性問題が逍遥を悩ませた。
 これは津野梅太郎の『滑稽な巨人』(平凡社、2002.)によれば、次のような経緯となる。…
 坪内士行は学友の妹で赤井美代という肺結核の女性と恋愛し、米国留学を条件に逍遥から結婚の許可をもらう。 ところが、この女性がすぐに死んでしまったために士行の生活が荒れはじめた。
 明治末、英国で俳優として演劇の修行をしていた士行は“劇場に近い八百屋の十六歳の娘マージと いささか軽はずみな恋に落ちる。”  大正4年、士行は手切れ金を払って日本に戻るが、マージは結婚を求めて来日。 士行は、やはり逍遥の養子であった義妹・くに との縁談を断り、マージと事実上の結婚生活を送ることになる。 “しかし彼女は慣れない異国での生活につかれて酒やモルヒネにひたり、新しい恋人をつくって、その男とともにアメリカに去っていった”。
 士行は再び義妹のくに に結婚を迫るなど、すったもんだのあげく、大正8年、宝塚歌劇団の第 1期生・雲井浪子(くもい なみこ)と結婚する。 実子のない逍遥は、士行のだらしなさに怒ったのか、士行との養子縁組を断ち、自分の代で坪内家は絶やすと決心した。 津野梅太郎は こうした状況を「家庭崩壊」と表現している。
 そもそも逍遥の妻というのは元 売れっ子の芸妓で、その結婚はのちのちまで陰口を叩かれたらしく、その反動からか、 逍遥は倫理的な問題に かたくなさを見せる傾向があった。 本当かどうか知らないが、文芸協会では雨の日に相合傘で帰ったという理由で除名された会員もいたという話さえある。  松井須摩子は抱月の後追い自殺をするとき、骨は抱月とともに葬って欲しいと遺書を残したが、 逍遥は抱月の妻子の心情を察してそれを許さなかった。
 松本清張なぞは、妻が娼妓だったことから来る苦衷が、昭和10年の逍遥の「自殺」に結びついたと憶測して小説を書いている (『文豪』。実際は自殺というよりも、医者も認めた「安楽死」に近い状況で亡くなった)。
 だが、逍遥の生涯が失意の連続だったという“通説”は果たしてどうか?
 逍遥の小説や初期の翻訳作品は比較的早く忘れられたが、発表当時は好評だった。 本人が『当世書生気質』に始まる小説を“旧悪”と呼んで、反省したのは確かなようだが、時代遅れになる前に手を引いて 教育に専念したわけで、失意というのは一面的な見方だ。 政治小説『内地雑居 未来の夢』などは今では明治初期の“SF”として評価されている。
 抱月の事件は痛手だったが、逍遥は演劇の改革をあきらめたわけではない。
 渡辺裕は『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社、2002.)の中で、坪内逍遥と宝塚の関係を取り上げ、 逍遥が脚本を書いた新歌舞伎「和歌の浦」を再発見している。 大正10年、道頓堀・中座の初演で、これの舞台監督を務めたのは坪内士行だ。 ヒロインは雲井浪子こと坪内操が演じている。
 本来、女人禁制の歌舞伎の世界に、宝塚でスターだった女優が入りこんだというのは、 歌舞伎界にも革新を目指す勢力があり、宝塚のイメージもまだ固定されてなかった大正中期にしか、ありえない話だろう。 渡辺裕は、そういう過渡期の試みに可能性を見ている。小生も、現在のヅカファンのための宝塚に興味は持てないが、 初期の安っぽいレヴューは面白いと思う (今回の調査で、大正7年の歌劇「クレオパトラ」の脚本が、 永代静雄の『女皇クレオパトラ』も参照していることを確定できた。この歌劇そのものは大したレヴェルの内容ではないんだが(笑) ちょっとした発見だ。  その「クレオパトラ」にも主演した坪内操は、女優・坪内ミキ子の母で、2003年、102才まで生きている)。
 士行が養子でなくなってからも、逍遥と士行の関係は悪くなってない。 “義絶”したというよりも、実家に復籍・分家して、士行に自由を与えたといったほうが実情に近い。
 阪急電鉄の小林一三(いちぞう)のきもいりで生まれた宝塚国民座に、逍遥は 『役の行者(えんのぎょうじゃ)』や 「大いに笑ふ淀君」、『ハムレット』など多くの脚本を提供し、士行が演出している。
 『役の行者』というのは、もともと文芸協会のために書いた脚本で、すでに大正2年には完成していた。 しかし、行者が逍遥自身を、不肖の弟子・韓国広足(からくにのひろたり)が抱月を、女魔人が須摩子を 思わせる内容のため、スキャンダルを避けて、しばらく発表を控えていたもの。逍遥の創作劇では最も有名な作品で、読んでみたが意外に迫力がある。
 大正11年ごろから逍遥は児童劇も発表していて、これも一般的な演劇史から見ると“傍系”に過ぎないことになってしまうのだが、小生には興味ぶかい。 もちろん大正中期の“童話”運動、童心主義などに歩調を合わせたもので、逍遥が演劇界の主流から退いたというより、もうひとつの時流に くら替えしたものと見ることができる。  実際、「蠅と蜘蛛」「田舎の鼠と東京の鼠」「をろち退治」といった一連の童話劇は、新聞社の後援も得て広く宣伝され、逍遥の創作の中でも他にないくらい大規模に行われたのだ。 劇に使う仮面の制作に、宍戸左行のような漫画家が関わっているのも、面白い。 「すくなびこな」という作品は宝塚少女歌劇でも演じられている。
 もっとも、これも大正13年の文部大臣の学校演劇禁止令などの影響か、すぐに筆を折ってしまうのだが、失意のためというより年齢のせいかと思う。 逍遥は大正14年、創作自体、筆を絶つと宣言しているが、このとき数えで67才。以後10年間はシェイクスピアの完訳に執念を燃やす。  逍遥は中央公論社から出版された〈新修シェークスピヤ全集〉(昭和8〜10年)のために、死の直前まで改訂作業を続けていた。
 本人は不満足だったかも知れないが、総じて成功者の人生と言える。
 どの時代を切り取っても けっこう面白い人物だが、特に あまり注目されてない大正中期の動きが面白い、と思えたのが収穫だ。   〔10月12日〕


 研究誌の原稿完成。今日、原稿を印刷所へ送る。
 『満朝の花』を読まれた方は想像できると思うが、今回もごちゃごちゃした情報で満載の内容。
 ただ、今度の『解題「女皇クレオパトラ」「大ナポレオンの妻」』は、文字どおりの研究書というか、資料集という感じの硬めの本になった。 資金がないので限られたページ数の中に無理やり情報を押しこむのに精一杯といったところ。
 内容はこのサイトで書いたことと、ほとんど重複はない、というかこのサイトに書いたことは大前提くらいに思える人でないと、なかなか読みこめないと思う。
 惜しいなと思うのはページに余裕がないので、面白くてもあまり関係のないこぼれ話みたいなものは、削らなければならなかったこと。
 特に「ナポレオンの妻」ジョゼフィーヌについては、スペースが無くて書ききれなかったのだが、 コナン・ドイルの『史秘外伝 ナポレオン奇譚』(岡本日亭訳、大正元年刊)について、まるで書けなかったのが残念。
 ストーリー的にはともかく、ジョゼフィーヌと帝王となって以後のナポレオン、それを取り巻く人々の雰囲気が見事に描かれている。  ドイルの歴史小説は初めて読んだけれども、なかなか巧い。
 もともと英国はナポレオンとずっと敵対関係にあったせいで、むかしからナポレオンを英雄視するよりは冷ややかな描き方が多いんだが、 それだけにイギリス人の描くナポレオン像というのは面白い。 〔9月25日〕

 今度の研究誌では触れる余地が全くなかったのだが、ジョゼフィーヌは世界中から動植物をあつめて飼育、栽培させたことでも知られている。 パリとベルサイユの間にあるマルメゾンの館に、イギリス式庭園と巨大温室を築き、馬や羊から、カモシカ、ガゼル、ヌーに羚羊(レイヨウ)、カンガルー、 白鳥と黒鳥、中国やカロライナ諸島産のアヒル、アルザス産のコウノトリ、モルッカ諸島のハト、西インド諸島原産の鳥類、等々が飼われていた。 植物についても同様…かそれ以上で、ジョゼフィーヌが初めてフランスに移入した品種は184にのぼる。 これには例えば日本のウルシも含まれる。オランダの御用商人に注文したチューリップの球根には、ひとつが4000フラン以上したものもあるとか言われる。
 最も好んだのはバラで、数え方にもよるだろうが少なくとも250種くらいは育てていたようだ。 このバラのコレクションを、ジョゼフィーヌは、かつてマリー・アントワネットに絵を教えたこともあるルドゥーテに描かせた。 ルドゥーテは「花を描かせればラファエロ並み」と言われていたとか。
 ちなみに「クレオパトラ」と「ジョゼフィーヌ」を同時に検索すると、ローズ・オイルやハーブ、アロマテラピー(アロマセラピー)系の商品を扱うサイトが多く引っかかる。 2人がバラを特に好んだというのは偶然のようなものだろうが(なかんずくクレオパトラのバラ好きは少々疑わしいが、当時バラが香料としても食用としても一般化していたのは確からしい)、 フランス革命期からナポレオンの時代というのは、人々がカエサルとクレオパトラの時代、つまりローマの民主制末期を手本にしようとした時代でもあった。 ナポレオンはプルタルコスのカエサル伝を座右の書としていたし(「執政官」といった役職名はローマの民主制期のものだ)、ジョゼフィーヌたちが流行させた腕をむき出しにする帝政期のファッションはクレオパトラ風と呼ばれたようだ。
 メアリー・ヘイマーの『クレオパトラという記号』第 4章「空間の政治学 ―クレオパトラと市民王 ―」は、フランス革命前後の状況を分析しているが、 その注釈にも“フランスにおけるクレオパトラの図版イメージは、革命期あたりに”制作されたものが多いようだと述べている。
 よく知られているジョゼフィーヌの奢侈    湯水のように金銭をつぎ込んでバラを愛したというようなことにも、クレオパトラの豪奢をまねる気持ちがあったのかも知れない。
 もっとも、永代静雄はジョゼフィーヌのこうしたエピソードをほとんど全く紹介してないから、研究誌では書きようがなかった。 実際、明治・大正期の伝記で、ハーブがどうしたといった話は関心を持たれなかったと言っていいだろうが、丸っきり知られてなかったのでもないようだ。  明治期 SF 的奇想小説で人気を博した押川春浪(おしかわ しゅんろう)は、「絶島の英雄」というナポレオン伝の中に、 ジョゼフィーヌは“多額の金を費して之 (これ=マルメゾンの別荘) に珍木異草を蒐(あつ)め、深く園芸の趣味に身心を委(ゆだ)ねたり”と書いている(『世界冒険少年談』本郷書院、明治38年)。  〔10月4日〕

 ところで今日の通説的見解だと、ジョゼフィーヌはそうとう浮気性な女性で、Wikipediaなどでも“世界三大悪妻”の補充要員に数えあげられている。  藤本ひとみ などはジョゼフィーヌを “本質的に軽はずみな人間” と呼んでいて ( 『ナポレオンの恋人たち』角川書店、2004.)、 徹底して尻軽な女性だったから、けっこう幸せな生涯だったろうという書き方だ。  実際 今どき、このナポレオンの最初の妻について、ああその人 知ってるよという人は、ほとんどが桐生操の『世界悪女大全』(文春文庫、2006. 単行本 2003.)で読んだとか、 藤本ひとみの本をもとにしたTV番組でも見て、その人物像をイメージしてるんじゃなかろうか。
 クレオパトラについて調べているときも感じたが、現在では“悪女”というか恋多き女性のように書いたほうが、 読者の共感というやつが得られる傾向にあるようだ。
 クレオパトラなぞは明治期には“毒婦”と呼ばれていたもんである(笑)
 明治31年に出版された長谷川天溪(てんけい。本名・誠也) の 『通俗世界歴史』(博文館) にも “クレオパトラは所謂(いわゆる)毒婦にして ツエーザル〔カエサル〕も嘗(かつ)て之(これ)が為(ため)に迷はされたり” と書いてある  (長谷川天渓は、翌明治32年、《少年世界》 に日本で初めて『鏡の国のアリス』を翻訳した人物として、アリス・マニアには有名)。
 その後、クレオパトラの伝記は大ざっぱに言って、クレオパトラとアントニウスを近代の一夫一婦制の夫婦のように取り扱い、 カエサルやアントニウスのほうが好色だったとして、クレオパトラを“淫婦”説から救うという方向へ進んだ。  このタイプの伝記は現在でも主流といっていいが、やや飽きられて来たというか、少なくとも小説やマンガでは、クレオパトラを“妖婦”のように描かなければ話がもたないだろう。
 このページの前半ですでに見て来たように、クレオパトラが“妖婦”と考えられたのは端的に言ってローマに負けたためでしかないし、 カエサルが好色だったというのも、まぁ別に嘘というわけでもなかろうが、噂話レヴェルのものもあり、カエサルの政敵による攻撃という意味も大きい。 ところが今ではむしろ、その女性遍歴が カエサルを魅力的にしていると感じる人が多いようだ (その男色遍歴のほうは、今でもカエサルを揶揄する側の人に取りざたされるが)。
 いずれにせよ人物のイメージなんてものは歴史的産物で、時代に左右される。通俗書では特に、そうなるし、小生も通俗書のほうが好きなんだが(笑) 通俗書しか読まない人は、そういう面を自覚できない。 小生がこのページに書いたのも、以前から繰り返しているように、要は歴史的な視点を身につけろと言っているに過ぎない。
 永代静雄の『女皇クレオパトラ』は、クレオパトラとアントニウスの“恋愛”を美化する一方で、“妖婦”説も旧来の伝記以上に強調している。過渡期の産物で、折衷的な内容というか、その両面が極端に誇張されている点が面白い。 うぶな少女だったクレオパトラが、いきなり妖艶な魔性の女に変わるような印象で、ちょっと笑ってしまうようなところもある (永代の小説や伝記は、いつもそんな感じで愉しませてくれるが)。
 ジョゼフィーヌについて言えば、逆に明治期にはナポレオンとの関係を美化した伝記が多く、だんだん“貞婦”説から“悪妻”説に変わっていったのだが、 これはナポレオン三世の時代にナポレオンを英雄視し、ジョゼフィーヌを理想化した伝記が流布したのが原因だ。 永代の伝記は“悪妻”説が主流になる直前に書かれた結果、すさまじくジョゼフィーヌを美化した内容になっている。細かい話は研究誌にゆずるが、これはこれで面白い。
 その後はだんだん化けの皮がはがれていくのだが、ではジョゼフィーヌが生涯、浮気性だったという現在の藤本ひとみ流の伝記が正しいかというと、そうでもない。  結婚直後、ナポレオンがイタリアの戦地から熱烈なラヴレターを送っていた頃は、ジョゼフィーヌはパリで悠々、若い恋人と楽しんでいたのだが、 のちにその浮気がバレて離婚の危機に陥り、ナポレオンがしょっちゅう浮気するようになったころから、ジョゼフィーヌはナポレオンの機嫌を損ねまいと気をもむ女性になる。 別に言動が禁欲主義になったわけでもないが(特にファッションには異常なほど金を無駄遣いした)、総じてナポレオンのエジプト遠征以後、ジョゼフィーヌは夫唱婦随の“貞婦”であったと言えるのだ。
 しかし、こういう書き方では読者の人気は得られないだろうな(笑) 藤本とか桐生操の本というのは一面的な見方で、読みやすいし、まぁある種の希望的観測で書かれている。
 一面観でないジョゼフィーヌの人物像を知りたい人には、安達正勝の 『ナポレオンを創った女たち』(集英社新書、2001.)を特に推薦しておきたい。別に読みにくくは無い。
 安達の旧著 『ジョゼフィーヌ ―革命が生んだ皇后』 なんかを読むと、過去のジョゼフィーヌを批判した伝記と、美化した伝記からのエピソードを、バランスよく組み合わせるのに苦心したさまが見て取れる。 と同時に、過去のジョゼフィーヌの伝記に、よく見られた誤謬を、丁寧に否定、修正していることも解る。 いやまぁフランス語が解るわけじゃないから原典もつかめないし、そんな成立事情が読み取れてもしょうがないんだが、永代静雄の『大ナポレオンの妻』を研究するために、明治期から大正期の、さまざまな立場から書かれたジョゼフィーヌ伝を読んだせいで、いやでも解ってしまうのだ。

 さて、余技的に思いつくまま書き継いできた「貞操」の社会史も、今回で終了である。
 こちらとしては研究誌が主体で、知らない人には想像がつかないほど、これに時間を食われるんで、書くのが遅いだとか批判をされても見当違いなんだが  (いつかも書いたが更新が売りのブログじゃない)、何かを書くたびに意外なほど、そのへんを歩いている読者から、 大した話が無いとか、かわいいレヴェルの話が多いとかいう批判を聞かされたものだ。高校生程度の読者が多いんだが、 こういう連中は自分たち以外の読者がいるとは考えても見ないから、このサイトには例えば小さい子のいる親みたいな読者もいて、過激というほどでなくても性倫理に引っかかるようなことを書くと、うるさいということが解らないんだな。
 むろん、本であれサイトであれ、もっと突っ込んだ議論を書いたものは珍しくない、というか、ありふれてるが、たいていは匿名性のもとに書いている。 小生は、大したことも書いた覚えが無いわりに、大阪では意外なほど顔を知られてるから、けっこう話題を選ぶのに苦労した。いちいち話の内容を小生に結びつけて考える困り者がいるからね。顔が知られてるということ自体、異常な話なんだが、そういう異常さに気づくヤツも少ない。  別に本は読まなくてもいいが、一面的でない人間観だけは身につけて欲しいもんだ、と一応読者の端くれであった人たちには言っておきたい。  〔10月20日〕


Jouge rekishi bunka shiryoukan

 8月15日、永代静雄の調査の延長で、永代の妻・美知代の生家でもある広島の上下歴史文化資料館 (じょうげ、は町名)を訪ねた。
 上下町では地元の教育委員会で長く研究されて来た方とも話せて、予期していたより収穫があった。
 小さい例では、これまで所在を確かめられなかった永代の訳書『ラジウム講話』(1914.)が確認できたのが嬉しい。  …といっても読者には何が面白いか判らないと思うが、私家本『満朝の花』の解説を読まれた方なら、明治末から大正初期にかけて、いかにラジウムが珍重されていたか察していただけよう。
 日本各地にラジウム温泉が掘られた当時は、せんべいやサイダー、化粧品から絆創膏、ぢの薬にまでラジウムの名が冠せられたのだ。  放射性物質は一般大衆にとって、なんだかわからないが万能のものだった。キュリー夫人が偉いと思われていたのも、その神秘性ゆえ、と言っていいくらいだ。 永代の『ラジウム講話』は翻訳で、研究者の書いた啓蒙的な小冊子と思われるが(まだ詳細は不明)、いかにも時流に敏感な永代らしい出版と言える。
 拙著なんて読む機会がないという方は、長山靖生『千里眼事件』(平凡社新書)あたりをめくってみてもいい。 透視能力を持つとされた女性を、悪童たちが「ラジウム、ラジウム」とはやし立てたというエピソードに時代が感じられる。  …といっても、上下歴史文化資料館の方と、ラジウムの話をして来たわけでは無いんだが。 〔2006年8月16日〕

 岡田美知代(永代静雄の夫人)の生家、府中市上下歴史文化資料館で岡田実麿(じつまろ)展 開催中。11月30日まで。 実麿は、以前「森下雨村と永代静雄」のページでも少しだけ触れたが、美知代の兄で英文学者。  永代の翻訳書にも影響を与えたと考えられる人物だ。  〔10月20日〕

 11月4日、上下歴史文化資料館の研修室で岡田実麿のご令孫、百瀬伸夫氏が祖父について思い出を語る会があった。  小生も参加したが、とにかく地元の人たちの岡田家を顕彰しようという意欲の強さには、目を見張らされた。
 百瀬伸夫氏は、検索してみればすぐ解るが、もと電通USA会長、電通副社長、 ビーコン・コミュニケーションズ代表取締役。 上智大学文学部新聞学科で長く「広告論」を講じた人物。少しだけ会話したが、経歴から来たものにせよ、育ちの良さを感じさせる話し振りだった。奥さんも、同じくセレブな感じ。
 実麿の子孫は(聞きかじった限りでは)教養の高い人が多いのだが、地方の名家とか旧家というものは、あなどれないなぁ、というのが思ったままの正直な感想だ。
 実麿のような人物がいると、家系というか、その一統も向学心旺盛になるようで、実麿の妻、直(なお)も70才で大学に入り、ラテン語やギリシア語を学んで、赤坂・霊南坂教会の長老を務めたそうで、 百瀬氏が、やはり霊南坂教会に属する平山郁夫画伯にその話をしたら喜ばれたという。 霊南坂自体がハイソな教会の代名詞だが、こういう話が、さりげなく語られる講演だった。
 上京後、実麿は ほとんど東京暮らしだし、百瀬氏も上下町で育ったわけではないのだが、 逆に地元の側から、旧岡田家には「岡田実麿」の表札がかかっていたこともあるけれど、あの表札はどこへ行ったか行方不明だとか、百瀬氏の母親(実麿の娘)が真っ赤な服を着て、上下に里帰りしたことがあったとかのエピソードが聴けて、興味ぶかかった。 岡田家というのは、上下の町が石見銀山への宿場町として にぎわっていたころからの大家で、地元では特別な存在だった。 実麿や美知代たちの代で岡田家は上下町から離れてしまうのだが、子どもの頃にその庭で遊ばせてもらったとか、菓子をもらったとかの、ちょっとしたことを記憶として持ち続けている人というのは、現に存在しているわけである。
 外部の者が岡田実麿について調べようという場合、その著作というのは、ほとんどがよくあるタイプの英語学習書ばかりで、読んでみても実麿の人となりというのは想像つかない。 近親の方とか、関係した人たちに当たってみる以上にいい方法は無い、ということで、はるばる上下まで足を運んだのだが、そういう意味でも収穫はあったものの、別の意味での発見もあった。
 年配の人の、一見ありきたりな英語学習書に対する、思いの強さみたいなものを目の当たりにできたことだ。 歴史文化資料館に資料を寄贈した方には、親子二代で実麿の参考書を使ったという人もいるし、 もっと面白い話では、上下から広島市内の中学へ出たとき (現在の県立広島国泰寺高校だろう)、そこで使っていた参考書が実麿のもので、その人を知っていると言うと担当教師が びびったとかの思い出も飛び出したりと、そういう場に参加できたのは、得がたい体験だった。 現在なら、どんなに人気の参考書の執筆者を知っているといっても、せいぜいその場で感心されて終わりと思うが、尊敬のされ方が段違いなのである。
 実際、今、使われる英語参考書にも、実麿の世代が生み出した形式が、かなり残っているんじゃなかろうか。 精しく比較研究してないから即断はできないが、英作文などで学生のよく犯す間違いをパターン化して例示したりとかは、実麿が かなり早い。
 実直な岡田実麿に対しては、小説「蒲団」で永代静雄を だらしなく描いた田山花袋も、そう悪く書かなかったし、美知代も兄を尊敬していた 。 永代も大正2、3年頃は、著作の出版で実麿の世話になっていたと考えられるから、当然、敬意を払っていただろう。
 現在一般に忘れられている人物といっても、全く、あなどってはいけないなぁ、というのが素朴な実感だ。  〔11月5日〕

     小説 「ある女の手紙」 の中では、美知代は実麿を 「温厚な君子と云つた風な男」 と皮肉っぽく書いているが、実生活においては顔を立てていたようである。 実麿は花袋の 「自然主義」 や芸者遊びを嫌ったため、やがて花袋も実麿に対しては距離を置くようになった。 実麿は、花袋よりはむしろ永代静雄と交流している (拙著 『「アリス物語」「黒姫物語」 と その周辺』 「新渡戸稲造と岡田實麿」 の項を参照されたい)

 近況 〔2006年12月〕。 このところ、『アリス』一本やりと思われてる小生だが、今も永代静雄に関する基礎研究は進めている。むしろ、そちらに時間の大半を割いていると言っていい (『不思議の国』の注は大部分、以前から考えていたことなわけで)。  この間も、永代の生まれ故郷、三木市 ―神戸市の北に位置する― の図書館で調べ物をしていたのだが、市立図書館の隣にある堀光(ほりみつ)美術館で偶然、『不思議の国』の展示を見つけた。
 桃谷好英 大阪府立大教授の「折り紙の世界」展が、ささやかに開かれていたのだが、そこにアリスの世界も折り紙で再現されていたのだ。小規模展で、何も期待してなかっただけに、驚いた。  展示の解説では特に触れてなかったが、桃谷博士はイギリスの『不思議の国のアリス』100周年記念コンペで第 1位(リンク先に第 1回とあるのは誤りだろう)を取っている。 理学博士だけに DNA・RNA や フラーレン・カーボンナノチューブなども、折り紙で再現しているのが面白かった。 作品展は12月10日で終了。
 全くの余談だが、4日の「水戸黄門」は、三木市が舞台だった。
 ちょっとばかり土地勘のついた町への興味から、十数年ぶりに TV の「水戸黄門」を まじまじと観たのだが、冒頭いきなり、ご老公が吉川(よかわ)町の温泉、「よかたん」を宣伝するセリフを吐いたのには笑った。 これは2002年にできたばかりの温泉で、炭酸ガスの含有量が日本一ということから、吉川+炭酸で「よかたん」の名がある。 京阪神の人間には日帰り温泉として人気があり(宿泊施設は無し)、土日は、かなり混むようだ。
 また、ドラマで、お家騒動渦中の若殿が かくまわれていた寺として、三木東 I C から ほど近い伽耶院(かやいん)の映像が流れた。 もう季節は終わってしまったが紅葉の名所でもある。
 ロケ自体は、三木商工会議所の協力を得て、9月に行われた模様。

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