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永代の仕事に色々の論点があることは前節で見た通りだが、ここでは発表誌の性質上、『アリス物語』に話題を限定して、その歴史的な位置づけを探り、永代の存在が、のちの『不思議の国』翻訳に影響を及ぼしたかを考察してみよう。
大正期のジャーナリスト (生)明治19(1886)年2月12日 (没)昭和19(1944)年8月10日 (出)兵庫県 (学)早稲田大学 (歴)明治41年東京毎夕新聞に入社。中央新聞に転じるが、大正7年毎夕新聞社会部長となり、8年編集局長に就任。新聞研究所を創立し、昭和15年に閉鎖。また伝書鳩の飼育普及につとめ、雑誌「普鳩」を発行した。翻訳に「死ぬる土」、小説に「都会病」などがあり、雑誌「中外」にも評論「比較的上出来」(大正7年)などを発表。田山花袋「蒲団」の横山芳子のモデルである岡田美知代と結婚、芳子の相手の田中秀夫のモデルでもある。 『20世紀日本人名事典』の元になっているのは定評ある『日本近代文学大事典』(昭和52(1977)年)の中の小林一郎執筆「永代静雄」の項である。その解説では「小学校長長谷川順の三男。父の死後永代義範の養子となる。関西学院、同志社を経て、明治三九年上京、早大に籍をおいた。四一年東京毎夕新聞に入社、」とあるが、以降は上に引用した文章とほぼ同文。権利関係が心配になるくらい『日本人名事典』は『近代文学大事典』の丸写しだ。「大正七年毎夕新聞社会部長」も、「翻訳『死ぬる土』、小説『都会病』などがあり、」というのも、そのままである。なお、永代の上京の年も明治38(1905)年とするのが正しい。故・小林一郎は東洋大短大元学長で、田山花袋研究の第一人者であり、私も多くその研究の恩恵にあずかっているが、その小林にしてこれだけの誤謬を犯しているのである。 近年の本では菁柿堂『[新編]日本女性文学全集 3』(平成23(2011)年)の吉川豊子執筆「永代美知代」の解説に、明治41年9月以降、すなわち美知代の妊娠が発覚し、花袋の許を離れた頃に「静雄は『毎夕新聞』に入社し、まもなく、『東京毎日新聞』へ移籍」との記載がある。これは拙著(『「アリス物語」「黒姫物語」…』)に書いた東京毎日入社の話と、館林市教育委員会文化振興課 編『『蒲団』をめぐる書簡集』(平成5(1993)年。以下『書簡集』とする)の毎夕新聞入社説との折衷案であった。その『書簡集』巻末の年譜で、9月18日付花袋書簡を紹介した下の欄に「この頃、永代、毎夕新聞社の社員となる。」と書いているのを、そのままに受け取って、毎日入社は41年末だから、まず毎夕に入ったあと毎日に移ったものと考えたようだ。しかし、後述するように毎夕新聞入社説は具体的に何月の出来事か、判明しているわけではないのである。ちなみに『書簡集』は小林一郎が監修したが、年譜自体は教育委員会で執筆している。吉川豊子は「静雄は一九一三(大正二)年になって、再度、『毎夕新聞』に入社し、」とも書くが、これも『書簡集』由来である。他にも『女性文学全集』では永代が明治35年に神戸教会で受洗したように書くなど(実際は36年)、吉川教授が自ら一次的資料に当たっていないことから来る細かな間違いは多々あるが、脱線が過ぎるので、これ以上は触れない。 さて、『書簡集』の典拠だが、これは永代の盟友・中山三郎(筆名 泰昌)の回想を翻刻した清田啓子「資料紹介 花袋「縁」の中の一モデルの証言」(《駒澤短大國文》10号、昭和55(1980)年)に依っている*。中山は新婚時代の永代が「毎夕新聞に入社してゐた。」と簡単に記しているが、入社の時期を明確にはしていない。おそらく、うろ覚えだったのだろう。続いて中山は「或日安成二郎君から聞くと、永代は最近、毎夕新聞社をよして、「中央新聞」に転じ」とも書いているが、明らかに永代の仕事先を、こちらも永代の盟友だった安成(やすなり)二郎からの伝聞で知っている。では安成はどう言っているかというと、《中央公論》大正3年8月号(29年9号)「東京十二新聞の社会部長」には「四十一年の暮に東京毎日の記者となつたのが、君〔永代〕の東京に於ける就職の初めである。」と解説している。この記事ではまた「昨年小野P〔不二人〕氏毎夕新聞に編輯長となるや、招かれて社会部長の椅子を占めた。」ともあり、永代の大正2年毎夕入社説はここから来ているようだが、社会部長になったのが大正2年であるとも受け取れる文章だ。 中山が「毎夕」としていたのが「毎日」の誤りだと最初に指摘したのは在野の研究者である田中英夫だった(《孤剣雑録》120号、平成15(2003)年)。田中は「一九〇八〔明治41〕年歳晩の永代の緊急課題は新居と就職だった。これに奔走した友は中山と安成〔二郎〕である。この時、新居は中山、就職は安成と役割が分担されていたのではないか。『東京毎日新聞』は早稲田出身者で固める方針があった。安成貞雄が一枚かんでいるのを想像させる。永代の就職を、中山は安成兄弟に任せきっていたと考え得る。新聞より出版に関心を持ってすすんだ中山と、自身が記者生活を送った安成兄弟とがこの間の事情を明かしているような気がする。」と論じている。安成二郎の兄、貞雄も早稲田以来の永代の親友だった。余談ながら東京毎日の新入社員の人選には文学部教授だった島村抱月が深く関わっていたが、貞雄は のち抱月の劇団に「芸術座」の名を提案し受け入れられたほどの間柄である(川村花菱『随筆・松井須磨子 ―芸術座盛衰記―』昭和43(1968)年)。 それでは永代は、自らの新聞歴をどう語っているだろうか。《新聞及新聞記者》大正10(1921)年10月(2巻9号)の「新聞通信 記者名鑑」は「日本最初の企図」という自負の下に編集されたもので、永代自身の企画と思われるが、それには以下のようにある(『新聞人名辞典 第2巻』(昭和63(1988)年)として復刻版あり)。
また永代は昭和6(1931)年の「先生を繞る数氏と私」という回想(『蘇峰先生古希祝賀 知友新稿』所収)の中に「大正元年に東京毎夕へ入社しました私は」と明記している。元年というメモリアルな年なので記憶違いということは考えにくいし、それ以前に毎夕に籍を置いていたとすれば隠す理由もないだろう。 なお、田中英夫は「新聞通信 記者名鑑」、安成二郎「東京十二新聞の社会部長」に加えて、もうひとりの永代の盟友・光用穆(みつもち・きよし)の回想「中央新聞時代」(《創作》昭和3(1928)年12月、16巻11号)を毎日在籍の根拠に挙げている。《孤剣雑録》は私家版リーフレットではあるものの日本近代文学館にも収蔵されているので、研究者は目を通して置くべきだろう。 以上で、いささか遠回りはしたが、永代と丸山英観が東京毎日新聞で同僚であったことは証明された。そこで話を戻すが、千森幹子は『表象のアリス』で、丸山の翻訳の時期を次のように推定している(前掲論文「『不思議の国のアリス』の翻訳者丸山英観再考」でも、ほぼ同じ文章を用いている)。
しかし、丸山が千森の推定どおり明治41年夏には『不思議の国』を訳していたとしても、同年2月の《少女の友》創刊号から掲載された永代の翻案を丸山が目にしていた可能性は残されるわけである。永代が早稲田の教授・内ヶ崎作三郎から『不思議の国』の原書を借りて翻案したことは、単行本『アリス物語』の「はしがき」に述べられているが、あるいは丸山も内ヶ崎から『不思議の国』を学んだのかも知れない。もっとも内ヶ崎と永代は早稲田より弓町本郷教会を介した繋がりのほうが深く、のちに僧職となる丸山は日蓮宗なので、内ヶ崎と思想的に親しかったとは言えないだろう。だからと言って、丸山に『不思議の国』の存在を教えたのが永代だった、などということはあるまいが。そもそも永代は早稲田にいたと言っても予科に半年ほど在籍したに過ぎず、そこで丸山と知り合ったとは思えないのだが、しかし その短い期間に佐藤緑葉、若山牧水、安成貞雄らの親しい友を得ているのだから、丸山と出会った可能性もないとは言えない。 ところで、千森の「丸山英観再考」に依れば、丸山邦雄氏は「内外出版社では『愛ちゃんの夢物語』に原稿料が支払われたこと、同出版社は、当時の早稲田などの卒業生が独り立ちするまで学生が小遣を稼げるように作った出版社ではないか、〔下略〕」等のことも語ったそうである。内外出版協会が、投稿雑誌《文庫》を「文壇新人の登竜門」としたことなどを考えれば(『児孫の為めに余の生涯を語る 山縣悌三郎自伝』昭和62(1987)年)、そういう側面もなくはなかったろう。だが、山田美妙の『比律賓独立戦話 あぎなるど』(明治35(1902)年)や堺利彦の社会主義関係著作の刊行、内村鑑三の《東京独立雑誌》創刊(明治31(1898)年)など社会改革を目指した出版協会の活動を狭く捉えることはできない。なお、同協会から多くの訳書を出した百島冷泉(操)は早稲田卒だが、永代同様に偉人伝を著した中里介山は高等小学校卒、『ドン・キホーテ物語』などを訳した佐々木邦や『フランダースの犬』の日高善一は明治学院と、才能の発掘は早稲田に限らず手広く行なっていた。 ここで想像をめぐらせるなら、丸山が『愛ちやん…』を出版する際、永代が丸山に内外出版協会を紹介した可能性も考えられなくはない。最初に触れたとおり、永代は明治42年1月に『新島襄言行録』を刊行しているが、その当時の永代は《新声》や《新潮》に盛んに短篇小説を発表し、少壮の文士といった位置づけだった。永代が同志社の出身でもあることから、新島の伝記を任されたのだろう。《文庫》には明治42年2〜3月(38巻6号、39巻1号)「ブーカー・ワシントン自叙伝」を訳載しているが、これは『新島襄言行録』の刊行後である。これに対して、丸山は全くの無名だった。出版社を探す丸山に東京毎日で同僚だった永代が仲立ちをしたとしても奇妙ではない。永代は短い期間で新聞社を転々としている印象があるが、そこで得られた人脈は繋ぎ止めていた。『女皇クレオパトラ』の装幀は中央新聞で知り合った杉浦非水が担当しているし、帝国新聞で2ヵ月足らず同僚だった森田恒友を退社後に別府温泉に招いたりもしている。彼らは画家であるが、無論新聞記者同士の交流も大事にしたことが、のちの新聞研究所の仕事に関わって来る。出版社の紹介そのものは当時よくある話で、永代自身も『都会病』を出す北文館を妻・美知代の兄である岡田實麿(じつまろ)から、『黒姫物語』の三芳屋書店を毎夕新聞での部下・田口櫻村から、それぞれ紹介されたものと私は考えている。 確認して置くと永代と丸山の交流に証拠となる事実はあまりなく、はっきりしたのは東京毎日で席を同じくしたという点だけである。しかし、少なくとも丸山が永代という人物を全く知らなかった、などとは言えなくなった。問題は永代の作を読んでいたかだが、《少女の友》の翻案は『愛ちやんの夢物語』とは、まるで違っている。が、ただひとつ、アリスの飼い猫ダイナを永代も丸山も「玉」と訳していることは共通している。両者ともありふれた猫の名前を用いただけなのだが、ありふれているだけに丸山も敢えて永代と訳語を変えて見せる必要はなかった、とも捉えうる。 これが後年の鈴木三重吉の翻案「地中の世界」(《赤い鳥》大正10(1921)年8月〜11年3月)となると、ダイナが「玉」であるだけでなく、兎の召使いメアリー・アンを永代が「お竹」としているのに対し「おたけ」と訳している(丸山は「梅子さん」)。偶然の一致かも知れないが、三重吉にしても《少女の友》の存在は無視できなかっただろう。俗悪な雑誌として敵視していたとしても、である。気位の高い三重吉は、仮に永代を知っていたとしても見下していたに違いないが、永代は《赤い鳥》の作家でもある小川未明とは結びつきがあった。永代や岡田美知代の投稿が集中した頃の《新声》に関わっていた時からの繋がりと思われ、永代との関係は不明ながら東京毎日の文芸欄にも短文を寄せたりしている(『景情小品』明治43年)。《普鳩》昭和17(1942)年5月号(8年5冊、通巻86号)に依れば「大東亜伝書鳩総聯盟創立賛成人」に未明も名を連ねている。細く長い交際があったのだろう。ちなみに伝書鳩総聯盟の趣旨に賛成した文人には土井晩翠、土岐善麿、若山喜志子、相馬御風、宇野浩二、西條八十、三上於菟吉、廣津和郎、薄田淳介(泣菫)らがおり、永代と多少の交流があったと思われる。三上と廣津は毎夕新聞で永代の部下だった。 『不思議の国』の完訳者では楠山正雄とも永代は繋がりがあった。『女皇クレオパトラ』には楠山訳の「『シーザー、クレオパトラ』の第一幕」(バーナード・ショウ『シーザーとクレオパトラ Caesar and Cleopatra』)の20頁にわたる引用がある。冨山房の《新日本》大正3年4月号(4巻5号)に載った「シイザアとクレオパトラ」第1幕を逸早く取り込んだものだが、これを紹介するに当たっては楠山と何らかの交渉を持ったはずである。もともと抱月グループの楠山とは永代も面識があっても不思議はない。ただし、楠山の翻訳『不思議の国』は初め大正9(1920)年に出版されたが、昭和7(1932)年刊行の春陽堂少年文庫版を『不思議の国 アリス物語』と名付けたのは昭和2(1927)年の菊池寛・芥川龍之介共訳『アリス物語』から取ったもので、永代の作を直接、意識したものではない。 では、戦前のアリス翻訳のメルクマールとされる菊池・芥川の『アリス物語』は、永代の『アリス物語』を踏襲した題名ではなかったのだろうか? 一見無個性なタイトルだけにあまり気にする論者もいなかったのだが、案外、永代の作を受け継いだ蓋然性は高いと私は考えている。 例えば、大正7(1918)年 東京社の《日本幼年》に連載され、同9年、日本幼稚園協会『幼児に聞かせるお話』に収録された「アリス物語」という『不思議の国』のリライトの作者は、おそらく永代の『アリス物語』を読んでいたであろう。幼稚園協会の主幹は倉橋惣三だが、《少女の友》の連載作は意外に広く読まれていたのではないか。「アリス物語」の題が一種の翻訳伝統になっていること自体は事実である。 さらに、菊池・芥川の翻訳を検討すると、それは明らかに大正9年の楠山の『不思議の国』を下敷きにしたものであり、訳者に先行訳を参照する姿勢のあったことは確かである(木下信一「菊池寛・芥川龍之介共訳『アリス物語』の謎」、《Mischmasch》10号、平成20(2008)年)。最初の翻案である永代の『アリス物語』も、翻訳の参考にはしないまでも、調べた可能性はある。少なくとも昭和初期に、菊池寛がジャーナリストとして活躍した永代静雄を名前も知らなかったとは考えにくい。 また、平成19年の拙著を書いた時点では分かっていなかったのだが、永代と芥川には接点があった。春陽堂の《中央文学》大正7(1918)年11月号(2年11号)に「谷崎潤一郎氏渡支送別会の人々」と題する写真が掲げられていて、これに芥川と安成貞雄、永代静雄らが同席しているのだ。同年10月7日のことである。この情報については当初、ウェブ上の小谷野敦「谷崎潤一郎 詳細年譜」から知った。記して謝意を表して置きたい。無論、会に同席したからと言って親しく口を利いたとは限らないが、芥川が永代のことを全く知らないという可能性はなくなった。芥川らが永代の『アリス物語』に多少の興味を持ったとしても不自然とまでは言えまい。なお、菊池・芥川の『アリス物語』は本当にその両者が翻訳したのか、疑問な点もないではないのだが、訳者が他にいた場合でも題名くらいは菊池か芥川が決定したのではなかろうか。 以上、後半は駆け足だったが、永代静雄と『不思議の国』の翻訳者たちの関わりを探ってみた。もとより永代の翻案『アリス物語』は、文学者たちがリスペクトするような強度を持っていない。その存在を知っていたとしても、敢えて言及するようなことはないと考えられる。そのため、推測に推測を重ねたような話が多くなり、確定的に言える影響関係はないわけだが、永代と丸山英観が東京毎日新聞で同僚だったこと、永代と芥川龍之介が谷崎潤一郎の送別会で会っていたことは、永代の影響の蓋然性を高める発見だった。いずれにせよ、『不思議の国』の翻訳史を考える上では、永代という人物の伝記的究明も必要だという点は読者諸賢にも感得されたのではないかと思う。 最後に、永代の『アリス物語』の同時代評を引用して置こう。 《女子文壇》大正2(1913)年2月号(9年3号)「新刊」紹介欄より。
少女向のもので、普通のお伽ばなしよりは実のあるものである、一般家庭のよみ物として面白からう、本も美しく出来てゐる。(定価金六十五銭、京橋区南伝馬町一丁目紅葉堂出版)
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