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今まで知られていませんでしたけれども《少女の友》以外でも〈中央新聞〉掲載の童話、童話と名乗ってますがホントに童話かどうか分からないようなものもありますけども、そこでも須磨子を用いている(広島大学の有元伸子教授の発見ですが)。 これはコピーをお配りしたので、あとで目を通したいと思いますが、児童文学史に関心のある方にとっては、須磨子の作品というのは面白いと思います。 ただ、永代静雄が主に須磨子というペンネームを用いていた、と考えるとそれは間違いでして、明治41年以降、永代が本気で書いた作品ではすべて「永代静雄」と本名が使われているんですね。 それ以前、明治39から40年にかけてはシヅオ、ムラサキに三重県津市の津、オットと書いて「紫津夫」というペンネームを用いてまして、そのイメージ通りセンチメンタルな小品を書いていたわけです。 明治38年以前となると永代僊渓(せんけい)とか蘇渓(そけい)とか磨渓(まけい)という古風なペンネームを用いてました。今日の話には関係ありませんが、妻になる岡田美知代に最初に出したハガキでは蘇渓を名乗ってまして、研究する上ではこういう名前も無視できない、ということです。 ともかく、ここで抑えて置いて欲しいのは明治41年以降、永代は本気の作品では永代静雄を名乗ってまして、「須磨子」というのは世を忍ぶ仮の名と言いますか、やっぱり少女雑誌に書くというのは男子として抵抗があったんだろうということですね。 こんにち須磨子の名前がある意味 広まってしまったというのは、永代としては本意ではないんだろうな、と思います。 もうひとつ、永代には「湘南生」という有名になってしまったペンネームがあります。 これは『終篇不如帰(しゅうへん ほととぎす)』と『逗子(づし)物語』という徳冨蘆花の『不如帰』のスピンオフですね、その2作だけで使ったペンネームなんですが、特に『終篇不如帰』は大正元年の作なのに、『不如帰』の続編なのに垂直離着陸機が登場するSFであるというのを横田順彌先生が紹介して古書好きの間で有名になったわけです。 最初は『終篇不如帰』の湘南生というのが「永代湘南」としか分かってなかったんで、横田先生が永代静雄のことじゃないかと、いろいろな先生方に聞いてみたら「そうなら、おもしろいが、まず永代湘南=永代静雄説はないと思う」と言われた、と。 しかし、やっぱり『不如帰』の二次創作である『逗子物語』を調べてみたら、巻頭に湘南生とあって、奥付に「永代静雄」とあったんですね。これで証明された、と。 『終篇不如帰』も『逗子物語』も現在は国会図書館のデジタルコレクションで読めますが、横田先生が調べた当時は図書館で調べないと分からなかった。 『逗子物語』は『不如帰』の物語を小川清子という一登場人物の視点を軸に捉えなおしたものでして、二次創作としては、まっとうな感じのするものです。『終篇不如帰』のような面白おかしさはないですけどね。 逗子は『不如帰』の舞台ですが、広い意味での湘南ですね。永代は『逗子物語』の序文で徳冨蘆花の『自然と人生』を“名著”と呼んでまして、これに載ってる「湘南雑筆」を読んでいたのは確実です。日記体の古めかしい名文ですけどね。 そういうところから湘南生というペンネームを考えついたんだと思います。もちろん、盗作に近いような二次創作ですから本名を名乗るのは、はばかられたんでしょう。 振り返ると須磨子の須磨というのも風光明媚な海辺、なんですね。 永代は神戸市の北の吉川町(よかわちょう)で生まれますが、幼くして神戸に出て来てまして、湊川小学校、現在の神戸祇園小学校に通う。父親の死後、吉川町に戻って故郷のお寺で過ごしますが、16歳で再び神戸に出て、やがて教会で洗礼を受けるわけで、須磨は身近な土地だったと思います。 それと、永代は明治39年、岡田美知代と「蒲団」に書かれたような顛末で別れさせられて自身も体調を崩した時に九十九里浜へ傷心旅行をしてるんですね。当時、早稲田の学費も払えなかったのに、よくそんな余裕があったなと思うんですが、のち明治41年に美知代が広島の田舎から再び上京して来て、永代とすぐに親密になって、妊娠した時も、勝手知ったる九十九里の近くへ美知代と出奔します。茂原(もばら)市の本納というところですが。 今日コピーして来た「車上三里」という作品はその頃の話なんですが、永代というのは、よくよく海の近くが好きなんだな、と思うわけです。そう考えると須磨子も湘南生も、海をイメージした名前かな、と。 ただ、須磨子というのは当時よくある名前なんですね。 岡田美知代が「お須磨」という小品を書いてます〔《文庫》三二巻一号(明治39年7月15日)〕。これはモデルがあるかどうか分かりませんけどもフィクションでして、先妻のお須磨が生きているうちは無教養で恥ずかしかったんだけれども、後妻に教育のある女教師を迎えると家庭は不愉快なことが多くて、死んだ先妻が恋しいという話なんですね。 美知代に教育のある女性を否定する気持ちがあったことは注目していいと思います(美知代自身は教育のある女性なんですけどね)。永代静雄の「須磨子」がこの小説から取ったかどうかは分かりませんけども。 もうひとつ、明治・大正時代に関心のある人は須磨子から、まず新劇女優の松井須磨子を想像すると思うんですが、永代が須磨子を名乗った時代には松井須磨子は芸名をまだ名乗ってません。永代が島村抱月と多少の関係があることから松井須磨子が須磨子の名をもらった可能性も逆に考えたくなるところなんですが、まあおそらく偶然の一致でしょう。ただ同時代性はある、というか、新劇女優の名前としても恥ずかしくない程度にはシャレた名前だったんでしょうね。 それでは、話の枕はこのくらいにして、各個の作品を紹介していきたいと思いますが、永代の作品は大作家のように多くはないですが、けっこうな作品数があるので、とりあえず須磨子を名乗った時代、明治41、2年に限って作品を読んでいきます。 『アリス物語』だけを読んでいては分からない、作家の全体像に迫って行って、それが延いては『アリス物語』などに別の側面から光を当てることになれば、と思います。 『アリス物語』と『黒姫物語』は、今は国会のデジタルコレクションで簡単に読めます。これも私が調べ始めた時は簡単に読めなかったんで、私家本の『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』では『黒姫物語』のあらすじなんかも詳しく書いたりしたんですが、今ではそんな必要もないかな、と。 で、今日は永代静雄の『アリス物語』『黒姫物語』以外の作品を読むことになっているんですが、といっても『アリス物語』も読んだことないという方は、けっこうおられると思うんですね。 それで一部、今日の話に関係ありそうなところを初出誌からコピーして置きました。いずれもキャロルの原典からは懸け離れた永代の創作の部分です。 《少女の友》明治41年6月号「底無沼」の幻想的なシーンと、11月号「貞操(みさを)の宝」の章から、よく引用される 女にとって宝とは何かという問答の部分を抜粋しました。 「底無沼」を読むと、
「貞操の宝」からは、大悪龍王の呪いでカモメにされたアリスが人間に戻るためには何をしなければならないかを“世界の事は何でも知って居る”という老婆に教えられる場面です。
『何だらう?。』 と、アリスは自分の心に問ふて、不審相(いぶかしそー)な顔をしました。 『何だかいひ当てゝ御覧。』 『学問ですか。』 と、つひ口が滑って終(しま)ひました。すると老婆は苦い顔をして、 『学問? 女の学問も要るには要るが、それは樹の癌(こぶ)と同(おんな)じで、有ってもなくっても好い。心のよくない女が学問をしたのは、蛇の皮と一つで、見好いものではない。』 アリスの鴎は顔を赧(あか)くして、 『間違って居ました。女の宝は、優しい心です。』 老婆は幾らか機嫌を直して、 『それは好い処へ気が注(つ)いた。だがそれ丈けでは足りない。――今一つ貞操(ていそー)といふ宝を持たねばならぬ。』 『あっ貞操!』とアリスは二度 赧くなりました。 また、可能性としては低いですが、「アリス物語」には同棲していた岡田美知代の筆も加わったかも知れない。当時、美知代は田山花袋の信頼を裏切って永代の子を宿したわけで、反省から貞操を強調する文章を書いたということもあり得なくはない。ただ、文体は永代のものという感じなので、この可能性はほとんどないと見ていいでしょう。 「アリス物語」の話ばかりするわけにもいかないので、これはこれくらいにして、それでは本題に入って作品リストを順々に見て行きます。 (つづく) 〔2017年 2月 1日。最終更新 8月19日〕 〔→ Home に 戻る〕 〔→ 須磨子時代の永代静雄 A へ〕 〔→ 永代静雄入門/研究余禄 index へ〕 |