2017 永代静雄入門 (8)

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    〔以下は平成29(2017)年1月28日、日本ルイス・キャロル協会の例会での研究発表「須磨子時代の永代静雄作品を読む」の内容をそのまま文字に起こしたものです。〕
    作品リスト(1) 〔筆名は特記しないものは永代静雄〕
    《少女の友》一巻一号(明治41年2月11日)須磨子「黄金(きん)の鍵」、8月号以降「アリス物語」の通題。〜二巻四号(42年3月1日)
    《山鳩》四八号(明治41年4月28日)「武蔵野横断記」(紀行文)一〜三
    《八少女》一巻二号(明治41年4月29日)桃崖報「▼雨滴会(大阪)」〔花岡桃崖のレポートに永代の短歌〕 玉だれはつゞみ打つなり舞姫のしばしまどろむ春のうつゝ夜
    《新潮》八巻五号(明治41年5月15日)「解放」
    《山鳩》四九号(明治41年6月15日)「武蔵野横断記」(散文)四〜五
    《山鳩》五〇号(明治41年8月〔日付不明〕)「武蔵野横断記」(散文)六〜七
 「アリス物語」の次の「武蔵野横断記」は紀行文というか写生文ですね。題名からして国木田独歩の「武蔵野」を意識しています。
 《山鳩》を編集した小木曾旭晃(こぎそ きょっこう)は岐阜の人なんですが、全国の文芸同人誌に通じていて、明治43年に『地方文芸史』という本も出しています。永代のこともその本に出ていて、永代が故郷の吉川町にいた少年の時から雑誌を通じて知っていたわけです。
 「武蔵野横断記」の内容はと言いますと、永代が友人と日野市の百草園(もぐさえん)で年越ししたことなどが書かれています。詩情 poetic sentiment に満ちた風景の描写がある。
 百草園は知ってる方も多いと思いますが多摩丘陵にある日本庭園で、京王線の調布と八王子の中間ですが、当時はまだ京王線はなかった。今は正式名称を京王百草園と言って京王の施設ですが。
 当時は文士がよく行く場所でして、田山花袋が百草園に行ったことは主著の『東京の三十年』にもありますし『一日の行楽』という花袋の書いたガイドブックにも詳しく載ってます。岡田美知代も行ったことがあるのは明治37年5月31日付の花袋から美知代宛ての書簡に出てます。
 徳冨蘆花の『みゝずのたはこと』にも「百草園」と題した文章があって名高いし、永代静雄の友人の若山牧水も、この地で人妻の園田小枝子と2泊しています(明治41年4月のことですが)。のちに失恋することになりますけども、その体験を歌にして有名になる。
 牧水と友人と言いましたが永代と牧水は、まず早稲田で知り合って、中央新聞でも同僚になります。牧水の「貧乏首尾無し」という文章が知られていまして、中央新聞時代、牧水は金がなくて永代の靴を借りて はいて出社したということが出て来ます。永代も金はなかったでしょうが、それ以上に貧乏だった。岡田美知代の晩年の回想にも牧水の話が多くあって、大正期に入っても交遊が続いたようです。
 あと、花袋の周辺人物を研究している宇田川昭子さんによれば光用穆(みつもち きよし)も百草園に行ったと書簡にあるそうです。だから、永代が年越しした友人というのは牧水か光用かということになるんですが、よくは分かりません。牧水も光用も翌明治42年7月に永代のいる中央新聞に入ってます。永代が新聞記者として有能だったために、永代を推薦した安成貞雄(やすなり さだお)が牧水と光用も推薦できた、ということのようです〔光用穆「中央新聞時代」、《創作》一六巻一一号(昭和3年12月)所収〕。安成貞雄については、またあとで出て来ます。光用は永代とは中央新聞、毎夕新聞で同僚だっただけでなく、のちには永代の新聞研究所で主幹となって働きます。盟友のひとりですね。まあ中央新聞に入ったあとで、友人になった可能性もありますが。そういった意味でも「武蔵野横断記」は気になる資料ですが、ただ永代の写生文というのは「車上三里」を選びましたんで、これは省かせてもらいました。

 次に《八少女(やおとめ)》の短歌。これは巫女舞とか神楽をする8人の巫女の意味ですが、編輯同人が当初 8名だったことから名づけられたそうです。菊判20頁、のち30頁前後、8銭。名古屋と大阪の歌壇を中心とした月刊短歌専門誌(44年3月廃刊)です。
 この時の会合は中核メンバーの花岡桃崖が“大阪に於ける新短歌会が公開的に開催せられた最初のもの”と回想していて、そういう意味での歴史的価値はあると言えます〔《上方》二六号(昭和8年2月)花岡桃崖「大阪短歌界の揺籃時代」〕。
 永代の短歌というのはあまり残っていませんが、詠むことは詠んでいたようで、故郷の家の跡を詠んだ“立帰りふりし我家の跡訪えば 偲ぶに余るむかしなりけり”というのが伝わっています。そういう月並みな歌に比べれば“玉だれはつゞみ打つなり舞姫のしばしまどろむ春のうつゝ夜”の歌はロマンティックで美しいですね。まあ綺麗なだけとも言えますが、そういうロマンティックなものを詠んでいた、と。

 次の作品、「解放」は《新潮》に書いているだけあって力作です。永代の小説はほとんどが小品ですが、これは短篇と呼べるだけの分量があります。17頁にわたる小説のうち4頁分、正確には5頁分からの抜粋、をコピーして来ました。
 主人公は小河亜雄(おがわ つぐお、原誌にルビはないので読みは推測ですが)といって、満年齢で22歳。永代もこの時、22歳です。
    『併し僕等は意識するんだ。乃公〔おれ〕は今日文芸復興史を読んだが、痛快だつたなア。美を憧憬する、真理を求める国民――日本にも屹度〔きっと〕あゝ云ふ時代が来る。』
    『佳い!実際 佳い。僕等が新文芸復興の夜明けの鐘を撞んだねえ。』
    『うむ。真の文芸を復活せしめる、僕等は偉大なる天才だ。』
    『天才だ、天才だ。』と小河は眼の縁を赤くして、〔『〕僕等は第一人者だ。此 沈痛な自己意識は決して今の先輩に無い。』
    『先輩が何だ。僕等は新時代(ヤンガー、ジエネレーシヨン)の寵児じや無いか。はゝはゝはゝゝ』と小気味よく笑つて、
    『併し僕等は努力し無きや成らむ。天才の努力は望ましい事だ。』
    『あゝ、僕は遣る。』と叫んだが、小河は自分が此頃に書いて居る作の出来栄えを臆ひ起して、彼〔あ〕れでものに成るか知らむと思つた。と同時に書き度い、今年は是非好いのを作つて、それを処女作に、来年は文壇へ打つて出度い、自分は既〔も〕う背水の陣を布いたのだと、思はず感情を激させる。 〔カギカッコ内は原誌にない補足〕
 おそらくは安成貞雄をモデルにした津村と、酒を呑みながら“新文芸復興”の夢を熱く語り合ってるんですね。安成貞雄は新聞記者・雑誌編集者、まあジャーナリスト的な文芸評論家です。論理的で科学的な、けっこう鋭いところのある批評家でした。早稲田の学生だった頃、明治39年には若山牧水らと北斗会を結成してもいます。永代が安成を知ったのは牧水を通してかも知れないですね。弟の安成二郎に言わせれば「文学村の与太的三奇人」のひとりで(これは大正期の話ですけども)、一種の名物男でした。
 小説の最初のほうで津村が《健闘》という週刊雑誌の文芸欄の主任の仕事を小河に紹介するんですが、この《健闘》という名前の雑誌は本当にあったようで、永代が保存していたスクラップ・ブックにその記事が残ってます。
 しかし、この《健闘》の仕事は、保守的で、恋愛記事なんか もっての外という編集方針なので、小河はすぐに嫌気がさしてしまう。
    『早速ですが小河君、些〔すこ〕し原稿が狂ひましてね。』
    『はア』
     と小河は気の無い返辞をして、社主の前に座つた。社主は横に太い赤線を引いた一枚の下刷を出して、
    『之れを抜いたのでね。』
     見ると、自分が態々青年作家の某に頼んで書かせた小説で、整(ちや)んと此次の号へ掲(だ)す様に仕て置いた分である。亜雄は又かと思つたが、黙つて夫〔そ〕れを注視(みつめ)てゐた。
    『何か、外に適当な原稿(もの)が有るでせうか。怎〔ど〕うも之れは、些し穏やかで無いから。』
    『併し、之れ位なものは以前(まへ)にも載せたことがあるです。それに僕等は、左様〔そう〕穏やかで無いとは思ひませんが。』
    『あゝ此前のか』と社主は軽く言葉を受けて
    『あれは俺が知らんかつたので――兎に角 恋愛小説は以後(これから)も載せぬ様に願ひ度いです。』
    『承知しました。だが何故 恋愛小説が可(い)け無いんです?。』
    『それは』と、社主は幾らか苦い顔を見せて。『恒(いつ)も云ふ通り不健全だからです。殊に「健闘」の読者は青年が多いから、一層注意する必要があるでせう。』
     それは従来(これまで)も屡々聞かされた言葉だ。小河は何時(いつ)か社主の妄想を破り度いと思つてゐた。で、倫理道徳で固まつた社主の鼻柱を目懸けて、冷たい声で、
    『人生に恋愛が在るのは事実です。而〔そ〕して青年が恋愛の王者でせう。青年が在る限り恋愛も在る。僕は其〔その〕力を認めなければ成らんし、また其の事実を描(か)かんけりや成りませむ。不健全だからと云つて、事実を隠蔽するのは青年の為めにも反つて好く無いでせう。此頃の青年は一切を自分に批判し無きや満足しませんからね。』
     文芸のことが分暁(わかり)も為(せ)ん僻にと、多少向腹〔むかっぱら〕の調子で言捲(いひまく)つた。
    『左様、左様、』と別に反抗も為(せ)ずに聞いてゐた社主は、猾(ずる)い微笑を泛〔うか〕べて『成程 夫れも一議論だが、夫れに従がふと「健闘」の本領が無くなる。君も此処(こゝ)に居られる間は、此処の本領を助けて呉れ玉へ。』と恰好の善(よ)い身を起して、『じや、何か代りの原稿を見計らつて下さい。』
     そして悠々と出て行つた。
    『虚偽だ。乃公には到底 務まらん。』
     と亜雄は胸を悪くして、山積した原稿の中から、極めて平凡なのを一篇(ひとつ)択(え)り出した。
 生活のためにやむなくやっている仕事なわけですが、永代にとって《少女の友》の「アリス物語」の連載も似たようなものだったかも知れません。
 訪問記者の正木が恋愛に こがれているのを見て、自分は「蒲団」に描かれたような恋愛からは もう覚めたように書くシーンがあるんですが、
    『僕には恋の経験が無い。』有つたらば、と云ふ風の焦気味で、正木は無暗(むやみ)に小石を蹈蹂〔ふみにじ〕る。
     僕には有つた。激烈な、濃厚な、筋書に富んだ恋が有つた。だが自分達の華やかな時代は既う済んだのだ。ああ遣つて見て嬉しい頃は、まだ自分が覚め無いんだ。双方も征服者に成らうとして、其心を甘い言葉で囁やく。犠牲とか、献身とか、知らぬ間に嘘を吐いて、柔順らしい口を利合つて見る。而して物慾を満足さすか、甘い言葉の種が尽きるか、盲目の中に動く自我の最も激しい力が解ると一緒に覚めて終ふのが恋だ。その後に涙の涸れた、血の冷えた人間が残るのだ。自分達の恋、秋子との恋――恋愛に囚へられて居た時代――と、亜雄は寒烈な悲哀を覚えて、二年前の自分を心中(こゝろ)に弔らうと、荒んだ声で、
    『僕の様に自分を客観し懸けちや、とても恋を喚回すことは出来ん。』
 明治41年5月という発表時期を考えると、東京に戻って来た美知代と再会してすぐの時期で、まだまだ本当の恋愛はこれからという気もするんですが、これはこれで当時の気持ちの一面を綴ったものと捉えることができる。
 続いて引用した部分で“倫理とか道徳”を捨てたとか、宗教も“空想”と呼んでいて、下世話に考えると この頃にはすでに岡田美知代と深い仲になっていたのではないかと思えます。田山花袋の小説「蒲団」では永代と美知代がモデルの人物の肉体関係が発覚して、それで美知代側が故郷に帰されるという筋書きだったんですが、美知代自身は「蒲団」に書かれた事件の段階では永代とそんな関係はなかったと回想してます。
 それはそれなりに信憑性があるんですが、再上京してからはすぐに関係ができるのも確かで、翌年3月20日に長女の千鶴子を出産してますから逆算してみると6月末には受精していたことになるんですね。5月というのは微妙な時期です。読んでみますと、
     自分は旧い衣を脱いだ。倫理とか道徳とか、方便的に出来た衣。哲学とか宗教とか、空想で織られた衣。偶然と習慣とで染上げられた恋愛の衣、血統の衣。それらは皆一つ一つに脱ぎ棄てた。一つを脱ぎ去る時には必ず新らしい戦慄が来た。併し自分の前に神秘が無い、運命が無い。唯 旺盛な自我の力が在る丈けだ。強い自我が足を揚げると、眼の前に横はる一切の羈絆は訳も無く蹴破つて終(しま)ふ。
     だが一切を打破つて、旧い者を破壊して、自我が全存在に成り得る為めには、非常な苦戦を為(せ)ねばならぬ。自分は現にそれを遣つて居る。併し之れが完成するか、仕無いかは疑問だ。よし完成して、自我と一枚になつた芸術品が出来たとしても、それで自我は満足するか。否、満足し無い。自分は既つと強い者に触れ度い、強い者に成り度い。
 「アリス物語」の作者とは思えないような激しい真剣な感情が描かれているわけですが、これがまさに「アリス物語」の執筆中に書かれているというのは驚くべきことで、これを知っていると永代に対する見方が少し変わりますね。
 少なくとも永代を単純に保守的な人物とは思えなくなると思います。「アリス物語」の「底無沼」を書いていた頃に、こういうことを考えていたんですね。 (つづく)    〔2017年 2月 4日。最終更新 6月 4日〕

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