2017 永代静雄入門 (9)

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    〔以下は平成29(2017)年1月28日、日本ルイス・キャロル協会の例会での研究発表「須磨子時代の永代静雄作品を読む」の内容をそのまま文字に起こしたものです。〕
    作品リスト(2)
    『フォア・ランナー』訳了?(明治41年夏)〔中山三郎手記、〈読売新聞〉「よみうり抄」? 〕
    『さすらひ』執筆完了?(〈読売新聞〉明治41年12月3日、安成二郎記事)
    『新島襄言行録』内外出版協会(明治42年1月20日)
    《文庫》三八巻六号(明治42年2月1日)訳「ブーカー・ワシントン自叙伝」
    《文庫》三九巻一号(明治42年3月1日)訳「ブーカー・ワシントン自叙伝」〔第二章〕
    《文章世界》四巻七号(明治42年5月15日)「近火の後」(小品)
    〈中央新聞〉明治42年6月13日〜8月11日(〜8月13日)〔無署名〕「老嬢の告白」〔美知代の作か〕
    《文章世界》四巻八号(明治42年6月15日)ロオベル・アルノー「モウパツサンを論ず」
    《少女の友》二巻八号(明治42年7月1日)須磨子「黒姫物語」〜三巻九号(43年8月1日)〔三巻以降、永代新川(しんせん)の筆名〕
    〈中央新聞〉明治42年7月28日〔無署名〕「田山花袋氏の「妻」を読む(上)」
    〈中央新聞〉明治42年7月30日 S、N生「田山花袋氏の「妻」を読む(下)」
    《秀才文壇》臨時増刊九巻一八号(明治42年8月20日)「崖下の家」
    〈中央新聞〉明治42年8月25日 な、し、生「非凡から平凡に移る一刹那」
    〈中央新聞〉明治42年8月31日 S、N、生「ヱヅアールロツド」
    〈中央新聞〉明治42年9月2日 「純粋ロマンチストの将来」

 中山三郎の手書き記事に(《駒澤短大國文》10号(昭和55年)の清田啓子「資料紹介 花袋「縁」中の一モデルの証言」に翻刻されてますが)、
    この夏永代は「フォア・ランナー」を訳了した。といふことを読売新聞の「よみうり抄」に発表した。花袋氏は之を見のがさなかった、それに手蔓を得て、永代の居所をつきとめ、「面会したい」といふハガキをよこした。
 …というのがあります。中山三郎というのは神戸教会からの知り合いで永代と美知代の結婚の媒酌人でもあるし、生涯の盟友と言うべき編集者・出版者です。ずっと仲が良かったわけでもないですが永代の亡くなった時には弔辞も読んでる。
 中山は、のち昭和10年頃に『新聞集成 明治編年史』15巻、これは明治時代を研究する人にとっては非常に重宝する本ですが、それとか『校註 国歌大系』、整理カードが36、7万枚にのぼる和歌の集成ですが、そういうような編集者として膨大な仕事をこなしていて、その道では一家をなした人物です。あまり知られてないからといって軽く見ていいわけじゃない。
 しかし、「フォア・ランナー」なんですが、いくら読売新聞を探しても出て来ないんですね。デジタル化されたものをもちろん検索もしてみたし、原紙にも当たってみたんですが出て来ない。読売以外の新聞の記憶違いかも知れませんが。
 それでも、『フォア・ランナー』が何の本かというのは推定できます。ディミトリー・メレシュコフスキー(Dmitri Merejkowski)の『The Romance of Leonardo Da Vinci: The Forerunner 先駆者』ですね。レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を描いた歴史小説です。
 谷崎潤一郎の弟の谷崎精二が、大正5年に『先駆者』という題で訳していて、デジタルコレクションで読めるんですね。谷崎はメレジコウスキイと表記してますが、米川正夫はメレシコーフスキイと書いていて、どういう読みが原語に近いのかはよく知りませんが、もちろんロシアの作家・思想家です。
 原著は1900(明治33)年刊行で、英訳が1902年に出てるんですが、1904年版のほうが普及しているようで、谷崎も これを訳したのかなと思います。
 谷崎の前年(大正4年)にも戸川秋骨が『先覚』という題で訳してますが、永代に関して重要なのは谷崎です。
 というのは谷崎精二は、美知代の晩年の回想によれば、最初の結婚の際に永代夫妻に仲人をしてもらっているらしいんですね。これが美知代の回想にしか出て来ないんで、裏を取りたいんですが、難しい。
 相模女子大の理事長の谷崎昭男先生が精二の次男なので、手紙で訊いてみたんですが、先生は後妻の子なので、最初の妻の郁子との結婚については何にも残ってないというんですね。
 ただ、永代静雄と谷崎精二のグループが近しいことは確かです。谷崎は大正元(1912)年に、広津和郎、光用穆、相馬泰三、葛西善蔵らと《奇蹟》という同人誌を創刊するんですが、広津は毎夕新聞で永代の部下になるし、光用穆は先ほども言ったように永代の盟友。相馬泰三の年賀状も永代家に残ってました。葛西善蔵が第一創作集の『子をつれて』の出版記念会(大正8年)を開いた時は永代も出席している。たしか司会だったと思います。それくらい永代と《奇蹟》のグループは親しい。だから精二の媒酌をしていても不思議はないです。
 谷崎精二の『先駆者』は700頁の大冊なので、永代が本当にこれを訳していたとしても全訳とは考えにくいんですが、まず永代が簡単に訳して、その後、完訳を谷崎にゆずったとしたら、もしかすると『不思議の国のアリス』においても完訳を丸山英観に託す、といったことがあったかも知れないですね。あくまで想像ですが。

 次に、やはり永代の友人である安成二郎(さっき触れた安成貞雄の弟)の読売の記事。「文壇はなしだね」から。
    文壇話し種に相見え候 蒲団云々につき申上候、永代静雄君が脱稿せる長篇は「さすらひ」といふ題にて、蒲団事件は寧ろ挿話として点景せられたれど、全篇の題意は上州の某孤児院をバツクとして日本に於けるルーヂン式の一青年を主人公とし、其(その)自然と周囲を描けるものに候、来春早々昭文堂より出版せらるべく、序文は島村抱月氏に候、著者永代君は僕の親友に候間、誤聞を伝えられるゝは僕の忍びがたきことに候、而(しか)もまたかゝる正誤を出(いだ)し候事は永代君のよろこばざるところなるべきか(安成二郎)
 先ほどの「解放」で採り上げた、なかなか書き進められない処女作というのは、この『さすらひ』のことかと思われます。
 島村抱月の序文とか注目すべき要素がありますが、たぶん企画だけで実際には刊行されてないと思います。
 「上州の某孤児院」というのは前橋の上毛孤児院(現在の上毛愛隣社)です。ここに永代が関わっていたんですね。
 ルーヂン(Rudin)というのはツルゲーネフの小説(1856年)で、二葉亭四迷の翻訳した『うき草』(単行本 明治41(1908)年9月)の名で知られてます。
 ルージンは主人公の名前で、頭脳はすぐれているんですが、ひとつの事に落ち着くことができず、何事もなしえない知識人というのは、当時けっこう共感を生んだ人物類型です。永代自身を見るようなキャラクターなんですね。
 というのも永代は神官の家に生まれて、お寺で育ち、神戸教会に転じて、結局は宗教も捨てる。関西学院、同志社、早稲田と移って、卒業できない。職も転々とするし、小説も中途半端なんですね。でも、周囲の人たちには常に一目置かれていて“天才”と呼ばれることも多かったわけです。その永代がルージン風の主人公の小説を書いていたというのは面白い。

 ただ同志社に関して言うと、卒業はできなかったけれども4年生にまでなっていて、学内でも目立った存在で、本人もけっこう愛着があったようです。
 そこで次の『新島襄言行録』なんですが、永代が出版できた最初の単行本ですね。
 明治41年中は「アリス物語」以外の著作が少ないんですけれども、仮に『フォア・ランナー』も訳して、『さすらひ』も完成させていて、『新島襄言行録』も執筆していたなら、けっこうな執筆量で、筆は速かったと見ていいと思います。『新島襄言行録』は本文158頁で、そんなに厚い本ではないですが。
 よくある偉人伝のひとつという感じですけれども、昭和9年の『日本精神文化大系 第 9巻 明治時代篇 下』にも(昭和13年『(同)第10巻 明治時代篇 下』にも)使われていますし、谷沢永一の『遊星群 明治篇』(平成16年)にも一部抜粋があるくらいで、わりに評価はされているんですね。
 もちろん同志社の創立者の新島襄についての伝記ですが、伝記は前半部分で、後半は人物評です。
 下篇の第一章が「先生の武士道」というタイトルで、つまり新島襄の武士道ということで、ちょっと面白いんですが、昨今、新渡戸稲造とか内村鑑三とか幕末の士族がキリスト教徒になったという面を強調した論をよく目にするんですが、そういう説のはしりとも言えますね。
 もちろん現在において武士道とキリスト教の関係を語るのは意外性があるというか、一種の批評性がありますけども、永代の場合は何のひねりもなく新島襄が「武士的性格」だと言っているという問題はあります。
 プリントに引いたのは「先生在時の同志社学風」という一節で、永代が自分の同志社時代を回想したのは、この本の中でここだけなんですね。
    余曾て同志社に学ぶ、寄宿舎の各室に附属して一室一竿あり、以て洗衣を乾すに充つ。〔物干し竿があった、と。〕或る室は之を有し或る室は之を有せず。三冬〔冬の三ヶ月間〕生徒の焚く所となれば也。而も先生在世の時代に当ッては、制する者無かりしも、皆よく保存して敢て失はざりしと云ふ。
 そこはかとないユーモアを感じさせます。
 ほかには明治40年に原田助(はらだ たすく)が同志社の社長、今の学長になったのを期待している文章があって、神戸教会で牧師として接していた原田に思い入れがなかったはずはないんですが、具体的な自分の経験などは書いてません。自分のことは、ほとんど書いてないんですね。
 もうひとつ「女子の自由解放を図る」という箇所を引いたんですが、女性が家事にとらわれず社会的事業に関与するべきだと言っていて、「アリス物語」の「貞操の宝」とはずいぶん言ってることが違います。ただ、学問をしても“女性に何等の自覚なく”とか言ってますから、「アリス物語」の態度と矛盾があるというわけではないかも知れません。女性に対する上から目線は隠しようがないです。
     本章に於て尚ほ一事の附説すべきものあり。先生の女子教育 是れ也。
     先生が女学校を創始せし一の目的は、女子に自由を与ふるにありしなるべし。当時 女学隆盛なりしと雖〔いえど〕も、女性に何等の自覚なく惹〔ひ〕いて従来の圧抑に甘んじたるの観ありき。 是れ欧米の新婦人に接し、其の努力を認め来れる先生の黙止し能〔あた〕ふ所にあらず。乃ち一般の女権を拡張し、彼等をして単に家政に囚はれしむるなく、出でゝ社会的事業に干与せしめ、徐々に其の価値を発揮せしめむとせり。是れ豈〔あに〕女子に対する自由解放策にあらずや。

 リストの次の「ブーカー・ワシントン自叙伝」は、ブッカー・タラバ・ワシントン(Booker Taliaferro Washington タリアフェロと書いて、タラバと読むらしいですが)の『Up from Slavery 奴隷より立ち上りて』(1901年)、1章と2章を翻訳したものですね。
 抄訳なんですが「アリス物語」などとは違って、キチンとした翻訳です。
 『Up from Slavery』はアメリカにおいては大ベストセラーだったらしいので永代の目に止まるのは不思議じゃないですが、たぶん翻訳は初じゃないかと思います。2回で連載が終わったのは、打ち切られたか永代の根気が続かなかったからか、分かりませんが。
 大正8年に佐々木秀一『黒偉人 ブッカー・ワシントン伝』というのが出て、やっと全体像が知られるようになりますが、これも抄訳です。その本の序文に明治41年に小河内 緑『偉人の青年時代』という本があったことが紹介されていて、永代もこれを読んでいたかも知れないんですが、グラッドストーン、リンカーン、カーネギー、新島襄やダーウィン、ラスキンといった20人の偉人の青年時代のエピソードを並べた本です。
 その中で「ブーカー・ワシントン」も採り上げてるんですが、しかし かいつまんだ紹介なので、永代の翻訳は先駆的な仕事として評価されていいと思います。
 こんにちから見るとブッカー・ワシントンという人は黒人の指導者としては妥協的で、白人との人種隔離も受け入れていたような人物ですが、永代としてはこの本を紹介することは進歩的だ、というような意識があったんじゃないでしょうか。
 引用した箇所はワシントンの白人に対するスタンスがよく分かる部分です。南北戦争の頃の話ですが、
    人 或ひは白人種に対する我が同族の感情を怪しむ者あらん。盖〔けだ〕し我等が属せし南方の白人は更に永く我等を奴隷たらしめんが為めに戦へば也。 而〔しか〕も事実は之れに反し、我等が主公の息にして南北の戦役に斃れ、或は負傷するや、我が同族の悲傷深くして詐〔いつわ〕りならず。或者は徹夜して病床に待せんを請ひ、或者は竊〔ひそか〕にその全治を祈祷す。
 白人に対して、よく言えば融和的なんですね。
 永代静雄は時代の空気に楯を突くというようなことは全くなかったんで、そういう意味でも過激なところの少ないワシントンは受け入れやすかったんじゃないか。
 美知代(その頃は永代美知代ですけども)は大正12年に『アンクル・トムの小屋』を『奴隷トム』の題で訳してますけれども、アンクル・トムも公民権運動以降は否定的な人物像として語られがちですが、大正12年くらいの段階なら、まだ進歩的に読むことができた。永代夫妻にそういう翻訳の仕事があることは、記憶されていていいと思います。

 さて、《文章世界》の「近火の後(ちかびのあと)」ですが、プリントに冒頭部を引いてます。
     半鐘が鳴り止んで、火の手も次第に鎮まつて来た〔改行 句点なし〕騒ぎが小さくなるに連れて、脇山は馬鹿にされたやうな気持がしだした。
     折角(せつかく)纏めた荷物が空しく部屋中に転がつてゐるのを見ると、飽気(あつけ)なさが嵩じて もどかしくなる〔「もど」かしく、は手偏に吾〕。今の今まで連(しき)りに立ち働いたことが、この儘(まゝ)で空(ふい)にならうとは、何(ど)うしても思ひ切りが着きかねるので。 あの焦燥(いらいら)した……突然(だしぬけ)に生(おこ)つて、それが根本から生活の巣を焼かうとした不安、恐怖、でも其の底には何か新しい望(のぞみ)のやうなものが閃(ひらめ)いて、一度に神経といふ神経を突掻回(つツかきまは)した……あの心の状態が飽く迄も味(あじは)つてみたいと、然(さ)う思ふと、火事の鎮まつたことが寧(いつ)そ不平で堪まらない。
 火事に対して“何か新しい望のやうなものが閃いて、”というあたりに青年期の心情が巧く描き出されてますね。実体験でもあるのか、このあと友人とおでん屋に行く話がリアルに綴られてます。尻切れトンボ的な小品ですが。
 《文章世界》というのは田山花袋が編集主任ですね。永代の作品が掲載されるのは「近火の後」が最初で、明治42年の間だけ《文章世界》に掲載作があります。この年初めに永代と美知代が結婚してるんですが、結婚当初は花袋も影ながら応援したということでしょうか。 翌明治43年には花袋が『縁』を連載して、美知代との破局なんかを同情の無い眼で描くので、そればかりが理由でもないでしょうが、永代と花袋の仲はまた険悪になりますが。

 〈中央新聞〉の「老嬢の告白」は有元伸子教授によれば静雄ではなく美知代の作ということになります〔「『中央新聞』掲載の推定・永代美知代作品「老嬢の告白」」、《内海文化研究紀要》41号、平成25年〕。合作の可能性もあるけれども、執筆の主体は美知代であるということです。
 ただ、永代の作としては確かに文体が違ってるんだけれども、美知代の文体としても異色な感じがするんですね。
 有元教授は「〜ですけれ共」といった文章スタイルが美知代に特徴的だと言うんですが、「ですけれども」くらいは永代も用いているし、中山三郎がお世話になった女性を「老嬢の告白」のモデルにしたんじゃないかと考えて怒った時、永代は「僕は之を社会的教育の見地から書いてゐるのだ、」と答えている。そういう意味では永代が書いた可能性も残っていると思います。
 しかし永代が書いたという確証は とうてい持てないので、今回は採り上げません。
 ご興味があればこの小説は広島大学のサイトで読めますが、老嬢=オールドミスが、時に同性愛に傾いたり、時に若い青年を誘惑したりするが、いずれも一線は越えず、空しく年を取るといった告白で、ゴシップ的な物語です。

 また《文章世界》で、「モウパツサンを論ず」ですが、これは翻訳ですね。ロオベル・アルノーというのが、どういう人物なのか調査不足でよく分かりませんが。
    妻たり母たる婦人の心を解剖して驚くべき精巧を極めた。「ウンヌ、ビー」の如きは其の一例である。
 「ウンヌ、ビー」Une vie は『女の一生』のことですね。
 モーパッサン論としては通り一遍の凡庸なものに思えますが、官能性を採り上げた部分を引いて置きました。
    ド、モウパツサンの天才に顕著な点は、その天賦を自由に使ふる稀有の才能があつたことと、天賦の語る処を官能によつて翻訳するかのやうに書き得たこととである。彼は官能の力を現はすエピソードを故意に省いて只管〔ひたすら〕完全な人生を現はさうと努める作者共と、伍を同うするに忍びなかつた。
 官能について書いていると言ってもこれだけなんですが、ひるがえって永代の文章には官能性はないですね。あるとすれば「老嬢の告白」とか、最後に挙げる「私の若い心」くらいなんですが。永代はモーパッサンの「幸福」という短篇を訳したりして(明治40年3月)思い入れはあったんだろうと思いますが、永代とモーパッサンの共通項はあまりないようです。まあモーパッサンに詳しいわけではないので断言はできませんが。

 「田山花袋氏の「妻」を読む」に行きます。『妻』は明治42年6月に単行本が出ています。それを7月末に書評したんですね。
    田山花袋氏の「妻」は、わが謂(い)ふ所の人間の技巧を捨てた作として、近来の創作界を啓発する所が多いやうである。即ち娘から人妻になつてゆく一女性と、その妻に満足が出来なくなつて、別に新しい時代の女を求め初める夫と、それを中心にした旧(ふる)い時代の人と、新しい時代の人と、それらの人々が通つて来た八年間ばかりの、時代的生活の種々(さまざま)が菊判五百十五頁の中(うち)に描かれてあつて、その一頁々々が、時代を趁(お)ふて推移して行(ゆ)く状態は、宛として〔さながら。あたかも〕活人生の一部を見るがやうである。
 “娘から人妻に”と言ってますが妻のお光は物語の最初から結婚してます。その妻と作家の夫(勤)が主役ですね。妻が実家に戻ってみたり出産のあとの夫婦の苦心…といった日常が淡々とつづられて行きます。作家はもちろん花袋がモデルですが、柳田国男が西さん、国木田独歩が田辺として出て来るのが興味をそそります。それが“旧(ふる)い時代の人”で、“新しい時代の人”としては岡田美知代が吉江てる子として出て来たりしますが、三十三章、515頁中418頁目で登場しますから、かなりあとのほうで、印象的な書き方ではありますが出番は少ないです。
 花袋が日露戦争の従軍記者になる場面(明治37年)までで終わるから、花袋の美知代に対する恋心などもあまり突っこんで描かれてない。永代も登場しません。永代が花袋に関わるのは明治38年以降ですから。
 それだけに永代としては「蒲団」や『縁』のような嫌味を感じずに読めたわけです。それが作品の好評価に繋がってるのかな、と。前にも言ったように明治42年の一時期は花袋との関係が良好だったと言えます。
 「田山花袋氏の「妻」を読む(下)」では“此(この)作に就て注意すべきことは、曾て作者が「早稲田文学」の記者に語つた如く「何等かのアイデアを先に拵(こしら)へて、それを中心として、あの事件もこの事件もあの人もこの人もといふ風に聯絡をつけ関係をつける行方(ゆきかた)を避け、どの人物をも平面的に発達させて行かうとした」結果が頗(すこぶ)る良好に現はれたことである、”と書いてますが、これは《早稲田文学》明治41年9月号の談話筆記「『生』に於ける試み」のことです。『生』は生活のセイで、これも花袋の小説の題名です。
 ここで花袋が「平面描写」ということを唱えた。作者の主観をまじえずに、対象や事件の経過の表面だけをありのままに描く手法、ですね。そんなことができるのか、という疑問はありますが、とにかく そう主張した、と。永代の言う“人間の技巧を捨てた作”は この意味でして、花袋の主張をそのまま受け入れたわけです。

 これが永代の「非凡から平凡に移る一刹那」という主張にも繋がっていくわけですが、その前にリストの順番どおり「崖下の家」について触れて置きます。これは安成貞雄、二郎、三郎の兄弟を主体に描いたモデル小説で、これも力作です(18頁)。
 永代静雄がモデルの人物も三郎(作中名・俊作)に職を紹介しようとしたりしていて興味ぶかい。俊作は、この頃はまだ“十八”で学校もやめて大きな夢ばかり見る人物として書かれてます。といっても冷たい書き方ではなくて、鷹男(貞雄)は“棄(ほつ)て置ても者になる奴だと”思っている。実際の安成三郎も大正初期には台湾に渡ってひと財産つくろうとしたりしてますが、民俗学にも通じていてレポートを書いたりもしている人物ですね。のちには資生堂社長の福原信三の個人秘書になって「福原さんの手」と呼ばれるようになります。福原は写真芸術家としても知られてますが、その著書はかなりの部分、安成三郎が書いたらしい。そういう人物の若き日の姿が見られるという意味でも貴重な小説です。
 安成貞雄は牧水と北斗会を結成したと言いましたが、それ以前から早稲田社会学会にも加入して社会主義の洗礼を受けてるんですね。平民社に近づいて、荒畑寒村なんかと特に親しい。
 安成二郎(作中名・英二)も雑誌編集者で歌人ですが、貞雄の影響で平民社に近づくんです。大正2年に発表された“豊葦原(とよあしはら)瑞穂(みずほ)の国に生まれ来て 米が食へぬとは 嘘のよな話”というのが知られていて、そういう生活派の短歌で有名になりました。左翼的と言えば左翼的ですね。大杉栄との交流も知られてます。
 そういう社会主義への接近を母親がうれえる箇所も小説中にあったりして、兄弟の母親との相克が中心テーマなんですが。
 永代自身は左翼的なところは全くないんだけれども、友人の安成兄弟とか、毎夕新聞での部下に社会主義のシンパが多いです。尾ア士郎、山川菊栄(きくえ)、山口孤剣、金子洋文(かねこ ようぶん)といった人たちですね。
 安成家のさらに下の弟妹、くら(作中名・美枝(よしえ))と、四郎(作中名・直四)も、子どもですが「崖下の家」に登場します。この 2人にものちに著作があります。
 長くなるので、この話はここで打ち切りますが、安成兄弟というのは面白くて、この小説も論じれば論じられるところの多い作品です。

 で、「非凡から平凡に移る一刹那」ですが、
    自然の文学は平凡を貴(たっと)しとする。涙流るゝまでも平凡を嫌悪する文学は、乃ち貴族主義の文学、天才主義の文学、理想主義の文学である。小生共は、色気が多い所為(せゐ)かして、貴族的天才主義の文学を懐かしくも思ふ。けれ共、此の主義を取つて吾が糟糠の妻にしやうと云ふやうな考へは些(すこ)しもない。
 永代自身が周囲からは“天才”と呼ばれることが多かったんですが、ここへ来て花袋の「自然主義」に急接近するわけです。
    さればとて、小生は文学そのものが平凡だと云ふのではない。平凡な人生から無限の新しい発見を試みるのが本当の文芸ではないかと云ふのである。乃ちデイスカバーする文芸である。クリエートする文芸は、要するに賢明好きの、非凡好きの貴族文芸の領土たるに過ぎない。
 私としては永代はクリエイトする文芸のほうに進んだほうが良かったんじゃないかと思うんですが、「自然主義」の影響力は当時それだけ絶対的だったということでしょう。
 論の最後の部分、
    曾て国木田独歩さんが「僕等賢明に飽いた者は平凡を貴(たつと)ぶ」と云はれた。人生を味(あじは)つてからでなくては云(いへ)ぬ事だ。所謂(いはゆる)大悟却迷(たいごきやくめい)の境地である。 廬山煙雨浙江潮、到得帰来無別事。
 大悟却迷は道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の言葉ですが、どういう意味で使っているのか正確には分かりかねます。永代が少年期を過ごした吉川町の東林寺は曹洞宗の寺院ですんで、永代も曹洞宗の開祖の道元は勉強したはずですが、ここは「悟りを開いた者が逆に迷うのは当然で、貴いことだ」とでも言いたいんでしょうか。
 次の“廬山(ろざん)は煙雨(えんう)浙江(せっこう)は潮(うしお)、到り得て帰り来れば別事無し。”は宋の蘇軾(ソショク。蘇東坡という名前のほうが有名ですが)の詩ですね。「霧の廬山と浙江の満ち潮は有名で、見ずにいた時は見たくて仕方がなかったが、見て来たら格別の感慨はない。」くらいの意味です。平凡を尊ぶ、ということに通じると思います。

 続いて、「ヱヅアールロツド」。エドゥアール・ロッド(Edouard Rod, 1857-1910.)はスイスの作家ですが、活躍の場はフランスで、この文章によればエミール・ゾラの門弟の一人だったらしいです。当時は高く評価されていたようですが、今ではほとんど読まれてませんね。私も知りませんでした。
 そのロッドの作を5期に分けて論評してるんですが、その第3期「情熱研究時代」を抜き出してみます。
    男は情熱の犠牲であり、女は男の犠牲であることは、彼が此時代の作によつて読者に誨(をし)へやうとした点である。情熱は猶(な)ほ虚偽の結婚の如きもの、幸福を予約して実は心に傷(いたで)を残すものに過ぎない/『苦労は何所(どこ)にもある、恋はそれを大きくする丈(だ)けのものだ』恋を獲やうが為めに凡(あら)ゆる犠牲を払つて、目的を達して間もなく、あれ丈けの犠牲を払つた価値(ねうち)が果して恋に有るかといふことを訝(いぶ)かる。
 まるで永代と美知代のことを書いてるみたいでして、これを書いていた頃にはそろそろ結婚生活が破綻しかけていたと思われます。

 小川未明を論じた「純粋ロマンチストの将来」。
 中央新聞の記事では「S、N生」とか「な、し、生」とか匿名を用いることが多かったんですが、この批評では堂々と本名を記してます。永代と未明が親しかった傍証になりますね。
 ここでは「自然主義」とは別個の文学が語られてます。
    自然主義から転じた神秘主義と、ロマンチシズムから転じたそれと、此の二つの者が相(あひ)闘ふ時代は将(まさ)に目睫の間に迫つて居る。
 ロマンチシズムから転じた神秘主義の覇王が未明であって欲しいと書いてますが、永代自身が「自然主義」を選択したのは、どうも誤りだったんじゃないかと私なんかは思うんですね。しかし、ロマンティシズムに行かなかったのは未明がいたからかも知れない。
 実は永代は一時期“自然主義から転じた神秘主義”を目指したらしくも見えるんですが、それはまたあとの話です。 (つづく)    〔2017年 2月11日〕

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