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過去のできごと(my history)

ふつうに訳せば「わたしの身の上話」となるが、キャロルがこの語を用いたとき次章でネズミが英国の過去(ノルマン・コンクェスト)の講義を始めてしまうことは、すでに折りこみ済みだったはずである。つまりここは、my story などと置き換えは不可能だろう。その後、アリスが「あなたの過去」を話してくれる約束だったと蒸し返して、やっとネズミの「尾話」が聞ける、という展開。
ちなみにネズミのモデルは家庭教師 Miss Prickett(ミス・プリケット)であるとの説があり、ユーリア・グコーヴァの絵(日本語版は酒寄進一訳)でもネズミは女性として描かれているが、3章末では his story という語句が用いられ、ネズミが男性と判明する。2章での代名詞は、it や its であるのに、なぜここだけが his なのか?
プリケットは『鏡の国』にも赤の女王などの姿で登場しており、ネズミを男性にしたのが例えばモデル問題への配慮だなどとは考えにくい
話が進むうちにキャロルの中でも、ネズミの「人格」が形成されていったのだろうか?
もっとありそうなのは、history と his story の近親性を、キャロルが意識していた可能性である**。これは私見だが、過去にこうした説が唱えられていたとしたら、ご教示願いたい。


* これはむしろ、ミス・プリケットはネズミのモデルではないと考えるほうが自然なのだろう。

** この部分に、history の語源は his story とされる、との俗流と思われる説を付記していたが、これには学問的な根拠がないようである。
これについて木下信一氏より、以下の指摘があった。

さらに付け加えるなら、中世の英語において、history と story の間に意味的な差異はないと言われている。この問題に最も詳しいのは、おそらく12世紀以降の聖書物語を研究している方々であろう。
だが語源問題に深入りすることは多くの場合、誤りの元でもあるし、訳者としてはその点にこだわるつもりはない。ここではキャロルが3章末で用いた his story は history からの連想ではないか? ということをのみ問いたかったのだから。

(後注) 語源については、非常に単純化して捉えると、ラテン語からフランス語を通して英語に入って来たため、history が story に変わったのだと思われる。 つまり、フランス語は h 音を発音しないので、語頭音が消失したのだろう。 しかし一方ではラテン語から直接、英語化されたものもあり、これが history になったのではなかろうか。
中世の英語で、history と story は同義と書いたが、これも こだわって調べると、13世紀には story が「歴史」で history は「物語」の意味、15世紀になって逆転したとか、どこまで信じていいか解らないような説がいろいろある。
また、history の語源は his story という“俗流と思われる説”についてだが、これは、かつてのフェミニズム批評の中で、「これまでの歴史は男性中心の歴史、his-story だった」として、「her-story」が必要と主張した一派があった。 これを日本の某エッセイストが「某作家によると history の語源は his story だそうである」と書き、私が読んで記憶していたというのが事の真相である。 いずれにせよ、俗流と書いたのも、ちょっと短絡だった。
ただ、繰り返すが、語源自体は重要ではない。
このページは全面的に改稿して、語源説は影もなくなっている。→改訂版