とにかく岸へあがるんだ。そこで、過去のできごとを話したげる。
( Let us get to the shore,and then I'll tell you my history,)
my history は、ふつうに訳せば「わたしの身の上話」となるが、キャロルが この語を用いたとき、次章でネズミが英国の「歴史」講座を始めてしまうことは、すでに折りこみ済みだったはずである。つまりここは、my story などと置き換えは不可能だろう。
3章後半でアリスが your history 「あなたの過去」を話してくれる約束だったと蒸し返して、やっとネズミの「尾話」が聞ける、という展開。
ロジャー・ランスリン・グリーンのオックスフォード版注釈は、ネズミが次章で実際に使われていた歴史教科書を引用して聞かせることと、その場を取り仕切っている姿からの連想で、ネズミのモデルを家庭教師 Miss Prickett (ミス・プリケット)であると断定しており、例えばユーリア・グコーヴァの絵(日本語版は酒寄進一訳)でも、ネズミは女性として描かれている。
が、3章末尾では his mind, his story という表現が用いられ、ネズミは男性と判明する。
(以下は、私説。 興味ある方のみ、お読み下さい。)
2章でのネズミの代名詞は it や its であり、3章終わり近くにも its head という言い回しがあるのに、なぜそこでいきなり his なのか?
実は 2章、この場面の直前、「ネズミはしっぽの先までふるわせて、わめく。」の部分は、最初 his tail だったのを、キャロル自身が、のちの版で its tail に修正している (『地下の国のアリス』の段階では、文章が異なるので代名詞はここには使われてない)。
が、3章末尾の his story は、キャロル生前の最終版まで修正されることなく残された。
history と his story の近似性を、キャロルが意識して楽しんでいた可能性も考えられよう。
この his story という語句は、『地下の国のアリス』の段階では、「尾話」 の前の部分に用いられている。
3章の最後尾という かなり目立つ場所に his story が移動されたと捉えれば、そこにはキャロルの意思が働いていると見るほうが自然だ。
この言語遊戯には必然性がないが、続く 4章の章題 も必然性のないダブル・ミーニングであることは多くの識者が認めている。
12章のノンセンス詩にしてもそうだが、キャロルは代名詞という品詞の存在そのものを笑うようなところがある。
が、これも単なる訳者の印象に過ぎず、本当は代名詞の使い方に、それほど注意を払わなかっただけかも知れないが。*
かつてキャロルは Liddell 家に足繁く通う理由について(現在普及するロリコン説しか知らない読者には意外かも知れないが)Miss Prickett に逢うためではないかとの噂が立って憤慨したというような事実もあり、ネズミを男性にしたのがモデル問題への配慮だという考えも捨てきれない。
その可能性は低いが、モデルが女性だったものを男性に描いているとすれば、キャロルは her story とは書きたくなかったのだということであり、私見の補強材料にもなる。
とはいえ、そうまでネズミのモデルに、こだわる必要もなかろう。
例えば 『鏡の国』の赤の王妃は、Prickett がモデルと考えて、間違いない。
キャロルは赤の王妃を 「あらゆる女性家庭教師のエッセンスを凝縮したもの」 と説明しており、Prickett の見た目も、赤の王妃に似ている (テニエルが Prickett の姿を知っていたかは疑問だが)。
しかし、赤の王妃というキャラクターもイメージの複合体で、単一のモデルに還元できないように、ネズミの性格造形にも、家庭教師の存在が、あるいは影響したかも知れないという以上に確定的なことは、しょせん言えまい。
Prickett 説を唱えたロジャー・グリーン自身、『ルイス・キャロル物語 〔The Story of Lewis Carroll 〕』(原著 1949. 門馬義幸・尚子訳、法政大学出版局、1997.)の段階では、“鼠はドジソンの妹のうちの一人でしょうか?”と書いていた。
* 稲木昭子・沖田知子 共著 『コンピュータの向こうのアリスの国』(英宝社、2002.)第 4章が指摘するように、ネズミ以外にも、白ウサギ、トカゲのビル、チェシャ猫、ヤマネ、グリフォンの所有格に、its/his が混在している。
以下は、同書の内容に沿って解説する。
白ウサギは最初だけ its で(白ウサギのチョッキのポケットが its waistcoat pocket と表現される)、2章以下は he,his で受けられている。
トカゲのビルは、4章での登場当初 his であらわされるが、12章では単に「トカゲ」 the Lizard と呼ばれ its で受けられる (もっとも、12章の終盤でも Bill という呼び名と併記される形だが)。
これは稲木・沖田両教授の説明によれば、白ウサギは地下の不思議の国 に没入したとき人格化され、逆にトカゲがただの動物と化すのは、アリスが12章で元のサイズに戻ってゆくのと同様、現実世界へ帰還することの先触れである、ということになる。
ガードナー『決定版 注釈アリス』では、ヤマネ 〔the Dormouse〕も 7章で登場したときは中性的存在だが、11章で男性と判明する、と指摘しているが (7章 注 2)、厳密には 『コンピュータの向こうのアリスの国』 にもあるように、7章でも he が用いられた箇所がある (ただし、同書で指摘する 2例のうち、“I wasn't asleep,”he said in a hoarse,feeble…… ‘「ねむっちゃいないよ」かすれた声で、ぼそぼそと、しゃべる’というところは検索に用いたテクストそのものが疑わしい。初版では he だったが、のちには it に修正された部分だ)。
また『コンピュータ』では、11章でヤマネがアリスとの対話のあと、席を立ち 法廷を横断するシーンでも he として扱われていることを漏らしているようだが、それを含めて、“the Dormouse が眠っている時は動物扱い、目をさまして他の住人たちと自己主張しながら会話をする時はそれなりの登場人物としての扱いを受けている”という両教授の想定が正しいように思われる。
グリフォンは、it か its であらわされる存在だが、同書によれば “So he did,So he did,”said the Gryphon,sighing in his turn ‘「そうそう、そうだったよ」グリフォンまでも、ため息をついて言った’ という1箇所でのみ his が用いられている。この点は巧く説明できないようだ。キャロルが“元々の即興話に付け加えをした時に混在が残ったものとも考えられる。”としているが、根拠が薄い (私見ではこの his を its とするとゴロが悪くて引っかかり、かえって意味も取りにくくなるので無意識的に his を用いただけと思うが)。
ネズミについては12章末、姉の空想の部分でも his で受けていることなどから、“地の文では its であるが、他の登場人物の発話中では his と表現されている”と解釈しており、この説は充分、説得的だ。
つまり 3章末ではアリス、12章では姉の気持ちの中でネズミの「人格」が認識されているというわけだが、むしろ、これはジェンダー論で説明がつくかも知れない。女性の意識中で、it という表現は そっけなく、よそよそし過ぎるという伝統的観念が、半ば無意識に働いたものだろう。この原則は the Queen の発言にすら適用できる (王妃は首を切る相手に対しても、his head,her head と言い、its head などと「人格」を無視した表現はしない。**)。
8章ではアリスがチェシャ猫を、王様に紹介する場面で it と呼んでいるが、これは礼儀の上からの必然で、逆説的にアリスとチェシャ猫の「親密さ」を示す表現ともなる。
** もっとも王妃は登場当初、アリスのことを “Who is this?”と訊き、ひれ伏しているカードの庭師を指して “who are these? ”と尋ねている。
他者に対して this,these を用いるのは失礼であり、いかにも、いばり散らす権力者という印象を与える。この点は宗宮喜代子『アリスの論理』(NHK〈生活人新書〉、2006.)に教えられた(59頁)。
ただ、以上いずれの場合も、キャロルが理論的に代名詞を採択したというよりは、物語の自然な流れの中で語感のレヴェルで言葉を選んだもののように思われる。
が、ネズミに関してだけは上記のようにかなり意思的に代名詞を操作していることが明らかだ。
ドードーとヤマネは初版で he だったものを it に変えているが、この変更には人間以外の生物を、できるだけ it で統一するという以外の意図は、さほど感じられない。
しかし、ネズミの所有格を its に統一せず、his だったものを his のまま残すのは、逆に、擬人化か言語遊戯の意図を感じさせるだろう。
筆者(大西小生)にはキャロルが history や story という語に、かなり敏感だったと感じられること( 9章章題注も参照)からも、history ≒ his story 説を+α の要素として提示しておきたい。
当初、この項に関し、ネズミのモデル問題、history の語源(→旧注)などについて木下信一氏よりメールがあり、参考にさせていただいた。記して謝意を表しておく。