アリスは、ふたつのはじっこを見わけようとして、しばらくキノコをしげしげと、穴のあくほど、見つめてた。 でも、キノコはまんまるだから、これは実にやっかいね、と考えこんでしまう。
( Alice remained looking thoughtfully at the mushroom for a minute,trying to make out which were the two sides of it; and,as it was perfectly round,she found this a very difficult question. )
5章に登場するキノコに関しては、古くから奇説が多いが、細井勉博士は 『ルイス・キャロル解読 ― 不思議の国の数学ばなし』(2004.) 23-4頁で、
この一連の青虫との会話を、アリスは“多角形から連想して困惑する”のだと、数学者らしく解説する。
side は,多角形などの「辺」について使われるものです.丸いものには使いません.
博士の考えでは、side を「側」 と訳しては良くないらしい。
ギリシャ時代から,円の面積を求める計算が,いろいろと工夫されてきていました.キャロルも,一時期,そのような計算に熱中していました.
ふつうは,円を多角形で近似して,円の面積を近似的に求めます.その多角形で近似した円では,「辺」があります.
青虫は,茸を多角形として捉えていたのでしょうか.挿絵を見ると,茸は真円となってはいません.辺らしいものが観察されます.
最後の部分も面白いが、テニエルの絵がどうあれ、キャロルの文章は perfectly round 「まんまる」で、それにキノコが多角形ならアリスが「辺」を見分けるのに迷う必要もないはずだから、これは一種のキャロリアン・ジョークだろう。
ただ、日常的に解釈すると、ここは、right side,left side の意味なので、
真円の「何」を基準に、右側と左側を決定するかにアリスは迷っている。
観測者の視点さえ定まれば「右」と「左」は自動的に決定するのだが、真円という完璧な図形に対しては、視点は さまよわざるを得ない。
このくらいの理解でも、けっこう面白い場面なので、“キノコの両側”くらいの翻訳で別 に問題なかろう。
観察者と「右」と「左」という問題は、あるいは鏡像問題 につながっていくかも知れない。
キャロル自身が『地下の国のアリス』に描いたイラストだと、キノコはアバウトな造形の立体だが、この段階での青虫のセリフは「傘〔top〕はお前の背を伸ばし、茎〔stalk〕はお前を縮める」で、キノコの両サイドは問題になってない。
この初期ヴァージョンについては、分子生物学者で微生物学者の“マッシュルームハンター”エリオ・シャクターが、幻覚性キノコ説の観点から気になる指摘をしている。
キノコのモチーフとしていちばん多く使われるのは、なんといってもこのベニテングタケだろう。
キノコといえばまず頭に浮かんでくるのがこのキノコで、児童書をはじめ保育室や子供部屋の壁など、シンプルなキノコの絵がほしいところには決まって、このキノコが描かれる。輝くスカーレットの地に白斑が散るというコントラストのせいで、とにかく目立つからなのだろう。
ベニテングタケの幻覚作用の一つは、その人を取りまくモノの大きさが歪んで見えることである。大きく見えたり小さく見えたりするのだ。
この種の視覚上の幻覚作用は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のなかに出てくる話をうまく説明することになるかもしれない。
アリスがキノコのどちらかの端をかじると、身体が縮んだり伸びたりするあの話である。〔中略〕
ルイス・キャロルはキノコの幻覚作用について熟知していて、ベニテングタケによる視覚上の歪みに気づいていたという証拠がある。
『不思議の国のアリス』の初期ヴァージョンでは、このキノコの相反する二つの効果がキノコの柄を食べるか傘を食べるかによって違うことになっていた。
これはなかなか魅力的な考え方だが、決定版では退けられてしまったのだ。
〔 くぼたのぞみ訳『キノコの不思議な世界』青土社、10「キノコ、精神、身体」(1999.)〕
最後の部分が独創的なのだが、今ひとつ意味がつかめない。
ベニテングタケの「傘」と「柄」では含有する成分が違って、異質の幻覚が引き起こされる、とでもいうのだろうか?
ともあれ、『不思議の国』のイラストには青虫の乗るキノコをベニテングタケとして描くものもあるにはあるが、キャロルが『地下の国』で描いたキノコが、それでないことだけは間違いない。
脇明子は 『少女たちの19世紀 ―人魚姫からアリスまで』(岩波書店、2013.)で、
キャロルの描いたアオムシのモデルは、エレン・テリーが1856年に『夏の夜の夢』の妖精パックを演じたときのブロマイドであると考えている。
“キノコの上にあぐらをかいた”その姿は、“足のあたりや全体のシルエットがそっくり”だ。
キャロルが女優エレン・テリーを見そめたのは、この『夏の夜の夢』で、これは大いにありそうな説である。
キャロルのアオムシに性別不詳な雰囲気があるのも、そのせいかも知れない。
(最終更新 2014年1月27日)