「6ペンスあげたっていいわよ〔……〕」
(“I 'll give him sixpence. 〔……〕”)
19世紀後半、数万〜数十万部という単位で出版されたカラー絵本 “トイ・ブック ”の値段は 6ペンスか 1シリング(=12ペンス)というのが、うたい文句だった。
Alice くらいの家庭に育った子どもなら、お小遣い感覚で買える。
これは基本的に文章と絵が 6ページずつ(あるいは8ページずつ)という薄いものなので、
単純に比較はできないが、マクミラン社発行の『アリス』は 7シリング 6ペンスと、子どもの本としてはやはり高級である。
当時の貨幣価値を現代のものに直すことは厳密には不可能だが、感覚的に言えば 5千円くらいか。
細井勉 『ルイス・キャロル解読 不思議の国の数学ばなし』(2004.) 9頁には、次のような注釈がある。
ちなみに,『不思議の国のアリス』 は,初めの頃は,7シリング程度で売られていたということです.キャロルは,これでは中産階級の子供には手が出ないだろうからといって,
廉価版を 2シリング 6ペンスで出版させたということです.もっとも,出版社との交渉が長引き,実現したのは20年後だと記録されています.
1ポンド 1万円で換算すると,7シリングは3500円で,2シリング 6ペンスは1250円となります.そんなに桁外れの換算率ではないと思います.
正置友子 「ヴィクトリア時代の絵本(トイ・ブックス) 絵本研究の立場から」(遠藤育枝 編 『子どもの本の力 越境する児童文学』第三書館、2002. 所収)では、
6ペンスをおよそ350円くらいと想定し、次のように言う。
『アリス』の値段は七シリング六ペンスしました。今の値段で五〇〇〇円以上です。高価でしたが、ものすごく売れました。この価格ではミドルクラス以上でないと買えなかったでしょう。 〔237頁〕
正置はまた、トイ・ブック のヴィジュアル面について説明を加えている。
トイ・ブックスの一番の特徴は彩色されていることです。トイ・ブックスが出版され始めた一八五〇年代は手彩色でした。
着色は労賃が安い子どもたちによって行われました。テーブルの回りに子どもたちが座り、一人の子が一つの色を塗る。 〔中略〕
どこにその色を塗るかを指示したサンプルをもらって、順番に塗っていきました。 〔中略〕
一八六五年からトイ・ブックスにカラー印刷が登場しますが、手彩色は かなり後まで用いられます。 〔236頁〕
この頃 出ていたポピュラーな絵本はチャップブックスでしたが、当時チャップブックスのサイズは小さくなり、
一二×七 センチ位い という小ささでした。トイ・ブックスの大きさが売りの一つだったことがわかります。 〔237頁〕
チャップブックの主な判型は、6×4インチか、4×2.5インチ。値段は通常 1ペニー (半ペニーや 2ペンスのものもあった)。
トイ・ブックは、正置によれば、6ペンス物が25×17センチくらい、1シリング物が27×22センチくらい。
ということは、10×7インチ、10.5×9インチくらいが基本だろう。
参考サイト
『The Rabbit Hole』−〈Q&A 掲示板〉− No.630-6 「Macmillan Alice 廉価版」〔現在、リンク切れ〕
要点を整理すると、
1869年 2月 マクミラン宛書簡でキャロル、廉価版の出版を打診 (イースター・ブックとしての出版を考える)。
1876年10月 マクミラン宛書簡で廉価版の出版計画を延期 (病院などへの寄贈に廉価版は必要ないと判断)。
1887年 3月 イーディス・ナッシュ〔Edith Nash〕宛書簡 に 『アリス』は 「貧しい子どもたちが大好きになるような本ではない」と記す。
1887年12月 『不思議の国』廉価版 (People's Edition) 出版。
1888年 1月 『鏡の国』および合本の廉価版『アリス』を出版。
1898年 1月 キャロル没。同年、6ペンス・シリーズ (Sixpenny Series)の 『アリス』発売。
追記。 People's Edition および キャロル没後に出版された様々なヴァージョンについては、楠本君恵 『出会いの国の「アリス」』(未知谷、2007.) 106-118頁が詳しいので参照されたい。
そこに挙げられたリストは、英国キャロル協会 元チェアマン、エドワード・ ウェイクリングの私家本 『 Macmillan Editions of Alice's Adventures in Wonderland and Through the Looking-Glass compiled 』(2006.) に依拠し、楠本教授がウェイクリング個人の蔵書に当たって内容を確認したもの。
下層の子どもに 『アリス』 が喜ばれないとキャロルが思ったのは、端的に言って教育程度の問題だったと考えられる。
高橋康也教授は 『子供部屋のアリス』(新書館、1977.)巻末解説で、キャロルが子どもたちに 『THE NURSERY“ALICE”』 をプレゼントする趣味があったことに触れたあと、次のように書いている。
ときには、少女の年齢その他によって、『ふしぎの国』 をあげようか、それとも 『子供部屋』 にしようかと、まようこともあったようです。
たとえば、いつもキャロルの荷物をもってくれる大学の門番がいたのですが、十歳になるその娘に本を上げる約束をしたキャロルは、
「低い階級の子供は上の階級の子供よりも二、三年は知的におくれているから、『子供部屋』 のほうにしよう」と考えました。
しかし、あるひとに相談した結果、「このごろは教育がゆきとどいているから」 やはり 『ふしぎの国』 のほうが適当だろうと思いなおしたのでした。
1889年の 『THE NURSERY“ALICE”』 出版までの事情は、これもマクミラン宛書簡から跡づけられる。
以下、平倫子( 『ルイス・キャロルの図像学』(英宝社、2000.) 97-8頁から引用すると、
キャロルは 『幼な子のアリス』 の出版を一八八一年になって思いついた。二月一五日の日記に、『アリス』 の子ども版のことでマクミランに手紙を書いたことが記されている。
「絵はカラー、サイズは大判、絵と文を選び出して もとのものより薄くし、値段は二シリングにする。これならば もとの六シリングの 『アリス』 の邪魔にはならないだろう」。
実際に刊行された最初の 『THE NURSERY“ALICE”』 は、4シリングだった。
キャロル晩年の1896,1897年には 『THE NURSERY“ALICE”』 は 1シリングに値下げされている。*
一八八五年七月八日のマクミラン宛の手紙には、「テニエルが 『幼な子のアリス』 の二〇枚の絵を大きくし、色づけを終えました。
刷り師のエヴァンズ(Edmund Evans,1826-1905) から そちらに連絡がゆくと思います。
まもなく絵にあわせて選んだ文を送ります」と書いており、『幼な子のアリス』 でテニエルの絵に色をつけたのは
ガートルード・トムスン(Emily Gertrude Thomson,1850-1929) である、と一般に思われている憶測を打ち消す内容が見られる。
木版師 エドマンド・エヴァンズは、職人であるとともに優れたプロデューサーであり、ウォルター・クレインやランドルフ・コールディコット、ケイト・グリーナウェイらの絵本作家と組み、安価で技術的にも高度なカラー印刷を成立させた人物として知られる。
* 復刻されたオズボーン・コレクション版の扉の上端を見ると、“PEOPLE'S EDITION” “PRICE TWO SHILLINGS” とあるが、これは彩色に不満のあったキャロルが最初の版を回収し、のち1891年に “廉価版” として販売したもの。
つまり、ほるぷ出版の 『おとぎの“アリス”』 は、本来の “初版” であり、資料的な価値は高いものの、ヴィジュアル的にはキャロルが失格とした本を復刻したことになる。
同書の巻末広告によれば 『不思議の国』 の値段は当時、6シリングで、その “PEOPLE'S EDITION” は 2シリング 6ペンスだった。
出版の正確な経緯は、『The Lewis Carroll Handbook』 を参照のこと。
『鏡の国のアリス』 1897版の 「序文 六万一千部台にむけて (PREFACE TO SIXTY-FIRST THOUSAND)」 の末尾には次のようにあり、複雑な心境がうかがえる。
この機会に 『子供部屋のアリス』 についてお知らせしたいことがあります。従来は四シリングでしたが、普通の絵本と同じ一シリングで購入が可能となりました 〔中略〕
一冊が四シリングという値段も、当初出版にかかった経費に照らし合わせて考えてみると、決して高い値段設定ではありませんでした。
むしろ、お買い得の本と言ってよいものでした。それでも、世間では「絵本に出せるお金は一シリングまで。それ以上は びた一文とて出せない。たとえ芸術的に優れた本であったとしても」と言われてきました。
そこで、わたしは、この本の出版にかける経費が丸ごと損失になったとしても かまわないと考えることにしました。
この本を読むべくして生まれた子どもたちがこの本を読まずに終わってしまうくらいなら、採算度外視で投げ捨てのごとく、この本を売るほうを選んだのです。
一八九六年 クリスマス 〔安井泉訳。新書館、2005.〕
プライスダウンの意思は持っていただろうが、もともとは造本・色合いの美術的な完成度をキャロルは求めていた。
しかし、「絵本は 1シリング以下」という大量印刷時代の “常識” に、キャロルも抗し切れなかったと見られる。
この項、『THE NURSERY“ALICE”』 の出版経緯と値段について木下信一氏より ご教示を受けた。記して謝意を表しておきたい。
(最終更新 2018年11月11日)