うさぎ山人の明治末 ――随想・籾山仁三郎





    〔以下は日本ルイス・キャロル協会機関誌《MISCHMASCH(ミッシュマッシュ)》24号(令和 4(2022)年11月 1日発行)初出の大西小生「うさぎ山人の明治末 ――随想・籾山仁三郎(The end of the Meiji era for Mr. USAGI-sanjin : Random thoughts on Nisaburo MOMIYAMA)」を末尾に示した引用の誤りのみ修正して再掲するものです。〕

 『不思議の国のアリス』の初期翻案として知られる『長編お伽噺 子供の夢』(籾山書店、1911(明治44)年 4月)の著者、丹羽五郎というのが籾山書店の店主、籾山仁三郎の変名だというのは小原俊一氏の発見である。これは仮説として1997(平成9)年4月の日本ルイス・キャロル協会のミーティングで発表された。このことは創設初期からのメンバーならご存じだろうが(日本の協会設立は1994(平成6)年)、なにぶん四半世紀前の話であり、かく言う私もアリスの翻訳史に興味を持ったのは2000(平成12)年頃からで、協会に入会したのはずっと遅く2015(平成27)年になってからだったので詳細は知るよしもなかった。 ただ、楠本君恵先生の労作『翻訳の国の「アリス」』(未知谷、2001(平成13)年3月)に「『子供の夢』と『お正月お伽噺』とについて綿密な調査研究をしている盛岡大学の小原俊一氏が、訳者の本名から生年月日、さらにその息子さんが横浜に在住していることまで突き止めた。」とあることから、うかがい知っただけである (なお、「横浜」というのは楠本先生の勘違いらしく小原先生は鎌倉在としているが)。今回、小原先生と連絡を取り、当時の配付資料をウェブ上に公開して頂いたことで、誰もがその経緯を追体験できるようになった (http://cldj.jp/cld/alicemem/yume/index.html)。
 同時にアップされた、その前段階の協会ニューズレターの記事(〈The Looking-Glass Letter〉14〜20号、1996(平成8)年5月〜1997年1月)にまで目を通すと、その時点ですでに、うさぎ山人著『お正月お伽噺』(彩文館スミヤ書店、1911年12月)はアリスの翻案とされていたが、『子供の夢』の異本とは気づかれておらず、というよりも『子供の夢』自体が小原先生により初めて発掘された本だったと分かる。
 うさぎ山人、のままなら、その正体は想像もできないが、『子供の夢』の著者・丹羽五郎となると、多少の手掛かりがある。まず小原先生も書いているように、『子供の夢』の巻末広告には「丹羽後之助撰」の『イソツプ唱歌』(籾山書店、1911年2月)というのが載っている。現在では、この本も『子供の夢』も『お正月お伽噺』も国会図書館デジタルコレクションで容易に参照できる。 『イソツプ唱歌』は巻頭の見返しに「丹羽後之助撰」、巻末奥付に「著作兼発行者 籾山仁三郎」とあり、普通に考えると「丹羽後之助=籾山仁三郎」となる。25年前は一々足を運んで確認しなければならなかったが、発見の喜びはひとしおだったと思う。小原先生は丹羽後之助と丹羽五郎が同一人物というのは「全くの推測」とされているが、これはあまり疑う必要はないのではないか。
 というのも、『子供の夢』(および『お正月お伽噺』)の特徴として作中の詩の部分に唱歌が使われているということがあるのだが、原典で芋虫に向かって「ウィリアム父さん」を暗唱する場面は、犬が水に映った自分の姿に吠えて「肴(さかな)」を落とすというイソップ寓話に代えられており、これが丹羽後之助撰『イソツプ唱歌』冒頭の「影」とほとんど同文。帽子屋の唄も、まだ邦訳がない「きらきら星」ではなく、やはり『イソツプ唱歌』から、忠義な犬を描いた「握飯」を使っている。丹羽五郎が丹羽後之助でないのなら、これほどそのままの詩の引用はしないのではないか。
 もっとも『子供の夢』に登場する唱歌には丹羽後之助以外の作品もある。原典2章のワニの詩の部分は「昔丹波の大江山/鬼共数多(あまた)籠りゐて/鬼が島をば打たんとて/どうしてそんなに遅いのか」というノンセンス詩が合成されていて愉快なのだが、最初の2行は石原和三郎作詞の「大江山」(田村虎蔵作曲)の「おにども おほく」を「数多」に変えたもの、最後の行はやはり石原作詞「兎と亀」(納所弁次郎作曲)の「のろいのか」を「遅い」に変えたもの。どちらも初出は『教科適用 幼年唱歌 弐編上巻』(十字屋、1901(明治34)年6月)。3行目は田辺友三郎作詞の「桃太郎」(納所作曲)で、『幼年唱歌 初編上巻』(1900(明治33)年6月)初出。 ちなみに今日も歌われる「お腰につけた 黍団子」の「桃太郎」は作詞者不詳で(岡野貞一作曲)、1911(明治44)年5月の『尋常小学唱歌 第一学年』(国定教科書共同販売所)で発表されたので、『子供の夢』の書かれた時点では存在しなかったようだ。おそらく、採り上げられた唱歌は丹羽五郎の子息が実際に口ずさんでいたのだろう。
 ついでなので書くと、中山エイ子『明治唱歌の誕生』(勉誠出版、2010(平成22)年12月)によれば「兎と亀」「ありときりぎりす」などの「イソップ唱歌ができたのは明治三十年代である」。丹羽後之助が「影」と題して訳した「欲深き犬」も1902(明治35)年5月の『修身唱歌 丙の巻』(金港堂)で、すでに楽譜が付けられている。1911年2月刊行の『イソツプ唱歌』は特に早い訳業というわけではなかった。七五調もしくは八五調の『イソツプ唱歌』のスタイルも、その頃の歌詞として最もありふれたものだ。中山エイ子氏の言葉を引用すれば 「当時は、学校唱歌をはじめ鉄道唱歌・地理唱歌・歴史唱歌・修身唱歌・公徳唱歌・儀式唱歌そして軍歌と、一般国民の中に唱歌が普及し隆盛になってきた時期」なので、『イソツプ唱歌』もその大きな流れに置いて理解すべきだろう。 ただ、国会図書館で「イソップ唱歌」と検索すると出て来るのはこの籾山書店の本1冊しかないというタイトルの特異性はあるが、本文8頁しかない小冊子でもあり、もとより過大な評価はできない。しかし、丹羽後之助=丹羽五郎=籾山仁三郎であるとするならば、『イソツプ唱歌』は『子供の夢』『お正月お伽噺』の先触れであり、現在分かっている中で最も早い籾山の児童向けの出版物である。そのライフ・ヒストリーにおいては多少の意味を持つとも言えよう。
 ここで小原先生が気づいた籾山仁三郎=丹羽五郎説のもうひとつの根拠は、籾山の号である「庭後(ていご)」から、「にわ・ご」→「にわ・ごろう」と、もじったペンネームではないかというもので、丹羽後之助はその「中間段階」だったろうという説は大いにうなずけるものだ。仁三郎が「2・3郎」と読め、足して「5郎」になるのでは、という付説も、事実かどうかはともかくとして面白い。本名・仁三郎の読みは「じんざぶろう」とされることが多いが、小原先生も参考資料に挙げた『著作権台帳』では「にさぶろう」。 ご令孫の籾山三輪子氏と連絡を取って研究している浅岡邦雄『〈著者〉の出版史』(森話社、2009(平成21)年1月)5章でも「にさぶろう」とルビを振っているので、私としては「にさぶろう」と読んで置きたい。だが、信頼できそうな資料でも「じんざぶろう」と読んでいるものはあるので、小原先生にもどちらの読みが正しいかは分からないという。
 ところで、南山大学の《アカデミア》誌に載った広瀬徹「籾山仁三郎論〈序〉 ―文献,年譜および研究視点―」(2012(平成24)年1月)から引用すれば、庭後という号の由来は「築地の籾山別邸の母屋後ろに居を構えたので庭後」というわけで、別邸は敷地3千坪に及ぶ豪邸、「庭後庵」も豊かな植栽に囲まれ、ここで句会や茶席など設けていたようだ。なお、広瀬氏は現在、籾山の本格的な評伝を準備中と仄聞している。
 籾山の句集『冬うぐいす』(籾山書店、1937(昭和12)年6月)によれば1919(大正8)年8月8日に築地から新富町へ引越したのだが、新居の庭に梓(あづさ)の樹が生えており、「土庇(どびさし)に梓の月のくらさかな/ かくいひいでけるよりやがて新居を梓月庵(しげつあん)とはなづけはべりぬ」と記すような、古風な風流人だった。これ以後は梓月の号を名乗り、ひとかどの俳人として辞典類には籾山梓月、で立項されている。ちなみに、この新居は、籾山に師事したとも言える久保田万太郎の回想談によると、5代目尾上菊五郎の旧居で、「籾山さん喜んで買つたんでしようが、」隣がシャボン工場で騒音があり、長くは住まなかった(石川桂郎「梓月先生」、《俳句研究》1958(昭和33)年7月)。 しかし、梓月の号は気に入っていたようで生涯、用いている。とはいえ拙稿では主として庭後を名乗っていた時代に注目していきたい。
 話を戻すが、庭後の号から匿名の丹羽五郎が生まれたという論は、それしかないと思える説ではあるが決定的証拠がない。しかし、小原先生の考察はそれにとどまらない。『子供の夢』の序文末尾には「表紙、扉、挿絵。悉く忰の所謂「僕の好きな叔父さん」芳村椿花君の筆に成つた。」とあるが、籾山の旧姓は吉村で、実弟の吉村良には椿花の号があることも発見したのだ。吉村と芳村の違いがあるとはいえ、ここまで偶然の一致が重なることはあり得ないだろう。
 吉村良も仁三郎の影響で俳人となったが、のち上川井(かみかわい)家を継いで上川井梨葉(りよう)を名乗る。仁三郎の子息、泰一と虎之助も、梓山(しざん)と梓風(しふう)の俳号を持った。家族に敬愛されたさまが思い浮かぶ。妻の せん も句作をよくし、没後、梓山・梓風編纂の『梓雪(しせつ)句集』(友善堂(俳書堂号)、1927(昭和2)年3月)がある。先ほどの久保田万太郎の談話によると生前は「如何にも大家のお嬢さんの感じ」だったとか。泰一氏の回想によると「父は絵がかけなかった。」と言い、古画を見るのは好きだったが、梨葉ら弟たちと違って手先は不器用だったそうだ(籾山梓山「父梓月」、前掲《俳句研究》)。
 虎之助氏は早く1937(昭和12)年に亡くなっているが、兄・泰一氏は2000(平成12)年3月に96歳で没し、小原先生が熱望したインタヴューが実現せずに終わったのは実に残念だ。同年11月以降、神奈川近代文学館に籾山家から「籾山梓月資料」5750点が寄贈されており、先に触れた広瀬徹氏の新評伝などは、これに基づくはずである。ただ、残された「梓月資料」の日記や創作ノートには、おそらくアリス関連の記事はないだろう。数多い日記は全て昭和期に書かれたものだし、創作ノートも戦後の記入だからだ。 『子供の夢』の序文には「忰」への語り聞かせが出版の動機になったという、キャロル張りのエピソードがあることから、もし泰一氏が幼時を記憶していたならどうだったか、と想像せずにはいられない。なお、泰一氏は植物学者であった。
 一方、俳人としての籾山仁三郎については、周辺人物のみならず、故人の加藤郁乎も高く評価していたし、再検討の必要はあるだろう。特に古俳諧には精通し、連句などは名手とされるが、何より私には俳諧を論じる素養がないし、世間的にはマイナーな俳人という以上の存在には今後もならないと思われる。けれども、確かに籾山庭後が文学のメイン・ストリームに属した時代はあった。
 籾山は1878(明治11)年1月10日生まれ。自著『江戸庵句集』(籾山書店、1916(大正5)年2月)の跋文によると、1892(明治25)年、数えの15歳で布川又照庵(ぬのかわ・ゆうしょうあん)こと戯作者・南新二から初めて俳諧を学び、翌年8世其角堂機一(きかくどう・きいち)に入門するが、「明治二十九年より三十年へかけて漸く旧調の非を悟り」、1898(明治31)年秋に高浜虚子と知り合い、冬には正岡子規へ師事した。
 広瀬徹氏の年譜によれば、この頃はまだ吉村姓で慶應義塾理財科の学生だった。1901(明治34)年4月卒業。1903(明治36)年3月に海産物問屋、13代籾山半三郎の婿養子となる(妻となった せん は、半三郎の4女)。吉村家(和泉屋)は飛脚問屋の元締めで、よく日本通運の前身と紹介される。半三郎(三浦屋)は鰹節と干魚を中心に扱うが『東京商業会議所会員列伝』(聚玉館、1892(明治25)年2月)ほかによると早くから清国と貿易するなど、かなりの大店だった。
 この間、1902(明治35)年9月に子規は病没し、1901(明治34)年9月に高浜虚子が設立していた出版社・俳書堂は経営が傾いて1905(明治38)年8月から籾山仁三郎がそれを譲り受けることになる。俳誌《ホトトギス》の編集・発行のみは虚子が続けた。
 永井荷風は回想「樅山庭後」(《三田文学》1915(大正4)年9月)に、伝聞情報として「夏目漱石氏の有名なる「吾輩は猫」の小説の如き嘗て庭後子が俳席を築地の庭後庵に開かれつゝあつた時分漱石子も出席して之を朗読されたのだといふ事である。」と書いているが、「吾輩は猫である」の連載は《ホトトギス》の1905(明治38)年1月から翌年8月までなので、その頃の話だろう。
 籾山は子規、虚子らの書籍を多く刊行するのだが、自著『俳句のすゝめ』(籾山書店、1916(大正5)年5月)の冒頭には「俳句を初むるには師に就くの要なし。故人も俳諧に師弟あるべからずと云へり。」と書き、『江戸庵句集』跋に記された正岡子規評は、「子規居士は俳壇の久しき迷夢醒ましたる点に於て上下四百歳の俳諧史上に忘るべからざる事業を建てたる偉人なるには相違なきも居士のものせられたる俳論は甚だ行き過ぎたるもの多きやうに御座候居士が俳論の多くは俳壇の革新といふ背景を置いてのみ読むべきものゝ如くまた此の派に於ける極端なる蕪村崇拝の傾向の如きもまさに天保調に対する反感の結果として初めてうなづかるゝ」というもので独自の視座を持っていた。
 高浜虚子と河東碧梧桐についても、1926(大正15)年4月の輪講会で「私は俳書堂といふ本屋の立場として虚子派でもなければ碧梧桐派でもなかつたのは勿論であります。それだけ両方の派から親しみをもつては迎へられてゐなかつた次第で、いはば妙にやり憎い立場にありました。私は俳人としても亦、両派のいづれにも属してをりませんでした。」と語ったといい、これは1908(明治41)年頃を想定した回顧らしい(伊藤鴎二「籾山梓月論 ―或は籾山梓月と私―」、《俳句研究》1951(昭和26)年4月)。
 籾山は、1907(明治40)年3月からは「俳書堂」と「籾山書店」の名を併用すると東京書籍商組合に登録し、当初は奥付に両者が並記されるが、やがて籾山書店単独の出版物も増えていく。
 ところで、先述の「樅山庭後」にあるのだが、永井荷風は、1910(明治43)年5月から新たに創刊される《三田文学》の売り捌きを籾山書店が担うに当たり、事前に面会してから決定しようということで、初めて仁三郎と顔を合わせた。その正装した姿に「非常に礼儀正しく沈着温和上品なる事」を感じ取ったが、その後、大正期後半に一時、仲違いしたことはあるものの終生の交流が続くとは、この時点では思いもしなかったろう。荷風はその1910年から1916(大正5)年まで文学科教員として主に仏文学を教えることになるのだが、理財科に片寄っていた慶應義塾の文科改革の中核だった。《三田文学》創刊もテコ入れのひとつである。 だが、荷風は初対面の仁三郎に今日から見れば無理難題と言えるような条件を出す。「三田文学は飽くまで売れない雑誌にした方がよい、なまじ雑誌が売れると文学も金儲の一手段だなぞと誤解されないものでもない。 〔中略〕すると籾山氏は結構ですと云はれて製本や紙を出来るだけ贅沢に見積りを立てた。」というのだが、仁三郎が了承したのは吝嗇を恥じる古風な趣味人だったからだろう。一方で(「樅山庭後」には書かれてないが)荷風が作家の原稿料にこだわるのは不公平と言うべき話ながら、もっとも書肆の利を薄くするという意味では矛盾はないのかも知れない。
 もちろん常識的な経営者である仁三郎は、商売を嫌っていたわけではない。1910(明治43)年4月には自身の大学の卒業論文をもとに『株式売買』を籾山書店として刊行しているし、堀江帰一の『海外金融市場』(1907(明治40)年1月)、『本邦通商条約論』(同年9月)など、経済関連の堅い書籍も早くから刊行していた。堀江は1902(明治35)年から1927(昭和2)年まで慶應理財科(経済学部)の教授で、仁三郎は1901(明治34)年卒だから直接の教えは受けていないが、母校とのパイプを保っていたと分かる。《三田文学》を引き受ける前、1909(明治42)年2月から《三田学会雑誌》の販売も手掛けている。 経済活動と趣味嗜好との相克があったわけでもないようで、やや時代が下るが、1921(大正10)年正月には「初売/二日より はや掛引ぞ むづかしき」、「利尻の島へ為替をくむとて/寒浪に乗るや酢蛸の仕切金」といった珍しい句も詠んでいる(『冬うぐいす』所収)。1925(大正14)年には俳書堂を上川井梨葉に譲ったように隠栖への憧れはあったかも知れないが、昭和期にも時事新報社常務取締役、昭和化学監査役などを歴任したビジネスマンだった。
 脱線ついでに思い起こされるのは、1911(明治44)年末に『子供の夢』の紙型を流用した『お正月お伽噺』の刊行を許したという事実で、少しでも利益を出したかったのか、それとも児童向けの出版物を恥じて売り払ってしまったのか、謎である。うさぎ山人のペンネームも由来が不明で、仁三郎の生まれた1878(明治11)年の干支は寅、1911年は亥年で兎と関係ない。ただ、発行元の彩文館 スミヤ書店では、わらび山人『家庭小説 新小公子』(1911年2月)、さくら生『小説 新椿姫』(同年10月)といった読み物を何冊も出していたので、その形式に合わせ、単に『不思議の国』のキャラクターから採って兎を名乗ったとしか言えない。 なお、籾山書店はスミヤ書店の市内代理店になっていた。
 さて、永井荷風は慶應を辞めたあと、1916(大正5)年4月に籾山と創刊した《文明》誌でも「発刊の辞」に主筆として「一部も売れなくても差支はない。即ち全然世評を顧慮する必要のない純然たる文学雑誌たる事が出来る。」などと宣言していたが、翌年8月5日の仁三郎書簡に「本月は十露盤玉の都合にて三十銭に値上致居候」とあったことも荷風の怒りを買ったようで、12月頃には売れ行きを気にする仁三郎と絶交してしまうのだから、徹底しているというか偏狭な理想であった(相磯凌霜「荷風知友書簡集 ―梓月、潤一郎、小波の手紙」、《世界》1964(昭和39)年5月号ほか参照)。当時の荷風の書簡群を読んでみると必ずしも金銭問題だけでなく、体調不良やスランプも相俟ってのことと思えるが、 ともあれ1926(大正15)年5月17日、東洋軒で偶然、仁三郎と遭遇するまでは会うことすらなかったらしい(『断腸亭日乗』。以後は単に荷風日記、とする)。その後は籾山の「令弟令息」を含めて多少の交遊があったことが荷風日記からも知れるが、結局、荷風と仁三郎の蜜月時代は1910(明治43)年から1917(大正6)年くらいの間と言えよう。例えば1915(大正4)年2月17日の仁三郎宛荷風書簡を見ると、「男の友達の心根ほどかたじけなきものはなしと感じ入候男の友達と申しても今の身には貴兄と莚升二人のみこの人達あらんかぎりは女なき身も老いて決して心淋しからずと何かにつけて唯々感謝のみ」などと書いている。莚升(えんしょう)とは歌舞伎役者の3代目市川莚升だろう。
 籾山書店では1911(明治44)年3月に荷風の代表作のひとつとなる『すみだ川』を刊行しており、これを皮切りに荷風の単著を続々出版した。7月に小説集『牡丹の客』、11月に随筆集『紅茶の後』。翌1912(大正元)年11月には小説・随筆・戯曲集の『新橋夜話』。これらはいずれも橋口五葉の装幀で、胡蝶の図案がほどこされた、後世「胡蝶本」と呼ばれるもので、凝った造本のため儲けは少なかったと思われる。
 胡蝶本ではないが美本で、翻訳詩集として重要な『珊瑚集』(1913(大正2)年4月)。小説・随筆集『散柳窓夕栄』(1914(大正3)年3月)は題が受けなかったため『柳さくら』と改題された。『歓楽』(同年10月)1篇本は俳書堂名義。『夏すがた』(1915(大正4)年1月)は、すぐに発禁処分を受けるが関係がこじれることもなく、同年中に小説・随筆・評論・戯曲集の『荷風傑作鈔』(5月)を編み、『日和下駄』(11月)を刊行。
 1910(明治43)年に博文館で出された『冷笑』の再刊本を1915年12月に発行すると、以後『新橋夜話』、『牡丹の客』、『紅茶の後』、『すみだ川』、さらに『地獄の花』、『夢の女』、『荷風傑作鈔』の縮刷小本を1916(大正5)年に上梓した(刊行順)。
 先ほど1917年12月に関係を絶ったように書いたが籾山書店の最後の荷風本は1918(大正7)年1月1日発行の随筆・日記・小説集『断腸亭雑稾』で、巻頭には庭後隠士の「断腸亭記」という、荷風との親交が感じ取れる文章が載っているのは皮肉と言うべきか。
 以上で仁三郎が販売に関わった荷風本は網羅したと思う(正確にはもう1冊『すみだ川』の1篇本がある)が、荷風の文学について仁三郎自身はどう考えていたろうか? ここに籾山仁三郎が著作兼発行者になっている『文芸の話 米刃堂一夕話』(1916年3月)という小冊子がある。奥付に俳書堂や籾山書店の名はなく個人出版かと思われるが、当時の「新ロオマン主義」の潮流を仁三郎が賞揚、擁護しており興味深い。ちなみに米刃堂(べいじんどう)というのは、これも仁三郎の別号で、荷風の父で漢詩人の永井禾原(かげん。久一郎)が、おそらく『新橋夜話』の扉に揮毫することになった際、籾山書店の「籾」は国字のため 「筆にしがたきを奈何〔いかに〕せんとなり。遂に「籾」を両断して「米刃」の二字となし、筆を揮うて「米刃堂」と書し」たのが由来である(米刃堂主人「『夏すがた』の初版について」、中央公論社版『荷風全集 第九巻』附録8号、1949(昭和24)年6月)。
 『文芸の話』では『夏すがた』の発禁などを念頭に置いてだろうが、「永井先生は好色本の作家であるといふやうに世間から思はれて居りますが、それはとんでもない間違ひ、驚くべき盲見と申さねばなりません。」と主張している。『新橋夜話』では花柳界を舞台としたが「現代上中流社会の人の生活の一面を描いて、現代日本文明の如何に低級なるかを論評しやうとせられた」のだと解釈する。「また好色本の作家たる永井荷風が、一方に「日和下駄」や「散る柳」や「紅茶の後」といつたやうな著作をするといふことは、又かの「珊瑚集」の如き研究を公にするといふことは、殆んど考へられないことではございますまいか。」 「永井先生は行跡甚だ修まらざるが如くに噂されて」いるが「乱行文士」とは違う。でなければ自分や森鴎外や上田敏が交流するはずがない、とまで書いたのは、女性関係の旺盛な荷風が読んだとすれば、いささか有り難迷惑とも感じたのではないか。
 荷風の短篇小説「雨瀟瀟」(《新小説》1921(大正10)年3月)は自身と籾山仁三郎をモデルに書いたと発表当時から噂され、辞典類にもそう書かれている。確かに中心人物である「彩牋堂(さいせんどう)主人」は俳人として知られ、邸宅を引き払った点など仁三郎が庭後庵から梓月庵に移ったことと符合する。作中、彩牋堂は「愛妾お半」を芸事に精進させようとするが、活動写真の弁士と関係ができてしまい「御払箱」にする。 「活弁の一件がないにしてもあの女は行末望みがないやうだ。〔略〕生れつき質(たち)のわるい方ではないのだから今の中みつしりやつて置けと云聞かしても当人には自分の天分もわからず従つて芸事の面白味も一向に感じないらしい。〔略〕今の若い女は良家の女も芸者も皆同じ気風だ。〔略〕家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分る話で今日の若い女には活字の外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。〔下略〕」と、いかにも古典の教養が深い籾山梓月の言いそうなセリフだが、現実に妾宅を持っていたかどうかは私には知りようがないし、実の娘がいたかもよく分からない。 『冬うぐいす』には1919(大正8)年の句として「めをと中女の子といふものなきまゝ/ゆづる子のなきぞくやしき譲雛(ゆづりびな)」が収録されており、娘はなかったのではないか。また、同句集には1922(大正11)年3月の妻・梓雪の葬式のあと、「やがてひとつ綿入になるなみだかな」とあり、以後もたびたび追悼句を詠んでいて、夫婦仲は良かったように思われる。仁三郎の社会的ステイタスからすれば愛人がいても不思議はないが、荷風としては仁三郎と絶交していた時期の作だということも留意して置く必要がある(別に悪しざまには書いてない、どころかかなりの共感を持って描かれてはいるのだが)。前掲、相磯凌霜「荷風知友書簡集」によると、モデル問題について相磯が荷風に訊いたところ、 「実際にあった事や実在の人物を其まま書いたんでは小説ではありませんよ。何人かの人からめいめいの特徴を採り上げて自分の考えて居る人間を造り上げるんです。」と答えたそうだ。
 話を明治末から大正初期に戻そう。荷風の『すみだ川』以下の作品が、「胡蝶本」と通称される形態で出たということは先に書いたが、書誌学者・岡野他家夫の文章を借りれば「〔籾山書店の〕代表的なものは何かと問われるなら『胡蝶本』二十四冊、と何のためらいもなく筆者はこたえる。そのものズバリ大方の読書人、愛書家、否当の書店主も、これは自他ともに認めるだろう。籾山の胡蝶本といえば、誰もが「ああ、あれだ」とすぐにその書影を思いうかべる。」(「籾山書店とその出版」、《日本古書通信》1958(昭和33)年6月)というくらい、著名なものだったらしい。私などは世代が半世紀以上違うので、胡蝶本の書影は森鴎外の『青年』などの復刻版(日本近代文学館、ほるぷ出版)で知る程度だが、その全24冊のラインナップを眺めるだけでも壮観と感じる。
    泉鏡花『三味線堀』(1911(明治44)年1月)
    永井荷風『すみだ川』、『牡丹の客』、『紅茶の後』、『新橋夜話』
    正宗白鳥『微光』(1911年6月)
    谷崎潤一郎『刺青』(1911年12月)、『悪魔』(1913(大正2)年1月)
    久保田万太郎『浅草』(1912(明治45)年2月)、『雪』(1913年1月)
    森鴎外『みれん』(1912年7月)、『我一幕物』(同(大正元)年8月)、『青年』(1913年2月)、『新一幕物』(1913年3月)
    長田幹彦『澪(みを)』(1912年8月)、『尼僧』(同年12月)
    水上瀧太郎『処女作』(1912年11月)、『その春の頃』(1913年1月)
    岡田八千代『絵の具箱』(1912年12月)
    小山内薫『大川端』(1913年1月)、『鶯』(1913年3月)
    松本泰『天鵞絨』(1913年3月)
    平出修『畜生道』(1913年3月)
    吉井勇『恋愛小品』(1913年5月)
    以上
 研究者必携の『日本近代文学大事典』(1977(昭和52)年11月)の「籾山梓月」の項には、「虚子より俳書堂を譲り受け、籾山書店として多くの俳書や、森鴎外、夏目漱石、永井荷風、谷崎潤一郎、久保田万太郎、水上滝太郎らの文芸書、いわゆる胡蝶本を刊行した」と漱石の名も挙げていて、この記述は加藤郁乎の『俳林随筆 市井風流』(岩波書店、2004(平成16)年12月)や Wikipediaにも引き継がれているが、胡蝶本に漱石の書はないはずで、管見によれば籾山書店では俳句選集に漱石の句が採られているだけである。漱石は周知のとおり処女作『吾輩ハ猫デアル』(大倉書店、上中下巻、1905(明治38)年10月〜1907(明治40)年5月)以来、橋口五葉に装幀を依頼しており、胡蝶本も五葉の装幀だから混同されたのだろうか。
 鴎外の胡蝶本は翻訳物や戯曲の代表作、青春小説の古典と、荷風と並んで4冊も刊行されているが、籾山仁三郎は『文芸の話 米刃堂一夕話』に「私の一番尊敬するところの人は、森鴎外先生でございます。」と述べている。「〔籾山梓月は〕深く森鴎外先生に師事せられた。」などと書く人もあるほどだ(川上梨屋「藤蔭菩薩」、《俳句研究》1958(昭和33)年7月)が、鴎外は当時、慶應文学科の顧問で《三田文学》などを介したつながりだったろう。小山内薫と岡田八千代の兄妹なども鴎外の係累のようなものだ。
 最初に出版された泉鏡花の本の表題作は《三田文学》1910(明治43)年10月号に載ったもので、自然主義の流行から取り残された鏡花が荷風の厚情で活路を見出そうとした作という(岩切信一郎『橋口五葉の装釘本』沖積舎、1980(昭和55)年12月)。
 籾山の『文芸の話』から当時の潮流を概観すると、「作品の上で、明かに自然主義に反対したのは、永井荷風氏である。氏は「すみだ川」と「冷笑」とを公にして、文芸茲存(ブンゲイコヽニソンス)と言はぬばかりの顔をして、自然主義全盛の時代に、済まして文芸の一新風を樹立したのである。/森鴎外、上田敏といふやうな文壇の先覚者が、まづ第一に永井氏を認めて、やがて三田文学の発刊となつた。それには小山内薫氏も参加した。 /それより以後、三田文学、スバル、白樺の三雑誌に拠って、多くの有力なる新作家が出現した。先づ谷崎潤一郎氏が彗星の如くに現はれた。次で荷風門下の三俊才、水上瀧太郎、久保田万太郎、松本泰の三家が出た。一方には、木下杢太郎、長田氏兄弟、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦などいふ人々を数へることが出来た。」といった状況だった。
 私は読んでいないが、岡野他家夫氏によると小山内薫、久保田万太郎、長田幹彦らの胡蝶本も、それぞれの作家の代表作と呼べるようだ。
 岩切信一郎氏の前掲書から引くと、「胡蝶本を第一創作集として世に問うた人も多い。例えば、谷崎潤一郎『刺青』・長田幹彦『澪』・久保田万太郎『浅草』・水上瀧太郎『処女作』・松本泰『天鵞絨』・平井修『畜生道』等がそれである。」
 とりわけ、谷崎の『刺青』は評判だったはずだが、籾山が『文芸の話』であまり谷崎について語ってないのは残念だ。『悪魔』の表題作など、女の水洟の浸みた手巾を舐めまわすというラストで、田山花袋の「蒲団」を遥かに超えるフェティシズム小説の出現と言ってよかったが、品性の高い籾山としては嫌悪を感じなかったのかどうか。余談だが、谷崎のいわゆる「悪魔主義」を論じる際に、この短篇「悪魔」について言及されることが少ないのは不思議な話である。
 荷風の『すみだ川』などを上梓した1911(明治44)年、籾山仁三郎自身も2月に『イソツプ唱歌』、4月に『子供の夢』、12月に『お正月お伽噺』を出したわけだが、この頃《三田文学》にも樅山庭後名義で短篇小説を発表している。これを纏めたのが仁三郎の唯一の小説集『遅日』(籾山書店、1913(大正2)年2月)だが、書店主としても作家としても最もアグレッシヴな数年間だったと分かる。
 仁三郎の生涯においては完全に例外的な児童向けの出版を手掛けたのは、1904(明治37)年生まれの泰一、翌年生まれの虎之助の就学年齢ということが家庭的な主たる事情だろうが、文学界の浪漫主義の潮流も心理的に影響したのではないか。
 散文に手を染めたのは、あるいは高浜虚子が当時、句作を捨てて小説に専念していたことも関係あるかも知れないし、三田俳句会で弟子筋だった久保田万太郎が小説と戯曲で華々しく登場したことにも思うところがあったかも知れない。『文芸の話』には「久保田万太郎氏は、三田文学の生みたる作家中、今や名声最も高き作家でございます。」と記し、作品中の会話が「極めて自然」で、小説よりも戯曲で成功すると評している。 なお、万太郎は『句集 道芝』(友善堂(俳書堂)、1927(昭和2)年5月)の跋文に、仁三郎によって「古句に親しむ美しい心もちをはぐゝまれた。」が、やがて俳句から離れていき、明治末の心情として「「ホトトギス」の文学、写生文及びそれに派生するいろ/\の作品。――いふところの低徊趣味の芸術につねにわたしは飽き足りなかつた。あまりにそれは「歓楽」「すみだ川」「紅茶の後」の芸術に遠かつた。」と回顧している。のちには句作に戻ることになるが。
 そう言えば俳書堂の初期のベストセラーに伊藤左千夫の『野菊の墓』(1906(明治39)年4月)があるが、これも歌人が初めて書いた小説である。発行者は籾山仁三郎、印刷者は国光社の河本(こうもと)亀之助だった。個人的な話になるが、これは河本の研究者で、私の古書探索の師匠格である田中英夫氏から教わった。週刊〈平民新聞〉の印刷も手掛けていた国光社とも一時期、提携していたということは知られていない。まだまだ多くの視角から考察する余地があるということか。
 私にとって最も重要な籾山仁三郎の本は『子供の夢』なわけだが、小原俊一先生や千森幹子先生(『表象のアリス』(法政大学出版局、2015(平成27)年4月))も多方面から検討していたものの、さらに多くの読みを許すテクストだろうと思う。たまたま私は『不思議の国のアリス』の初の翻案者と目される永代(ながよ)静雄の研究者だから、試みに永代と籾山のつながりを探ってみよう。
 まず、本文テクストに直接の影響と言えるほどのものはない。『子供の夢』では白兎の家に『宇佐木四郎』の標札が掛かっているが、これは「白」をもじって「四郎」とした駄洒落と思われる。あるいは永代静雄が何の気なしに『兎三郎』と訳していたのを見て思いついたのかも知れない。今となってみれば、なぜ永代がそう訳したかのほうが謎だが。
 また、拙稿「『不思議の国』のフラミンゴ」(《MISCHMASCH》22号、2020(令和2)年11月)でも触れたが、原典のクロッケーの場面は、永代の翻案でも『子供の夢』でも「庭球(テニス)」に置換されており、これなどは影響を考えたくなる箇所ではある。
 しかし永代の翻案は《少女の友》の創刊号すなわち1908(明41)年2月号から翌年3月にかけて連載されたのだが、「雨瀟瀟」の項で見たように籾山に娘はいなかったと思われるから、これを読んでいた可能性は小さい。逆に少女が少年向けの雑誌を読むことはしばしばあったようだが。連載を永代が『アリス物語』(紅葉堂書店)として単行本化するのは1912(大正元)年12月で、『子供の夢』より遅く、これも読みはしなかったろう。
 また基本的に籾山は慶應、永代は早稲田系(《少女の友》も早稲田閥)で、交流する機会もあまりなかったと思われるが、広瀬徹氏の籾山年譜には「明治29年の慶應義塾入学まで早稲田専門学校予科、日本中学校、第二高等学校に学ぶ。」ともある。もっとも、永代が早稲田大学予科にいたのは1906(明治39)年で10年以上の差があるのだが。
 では、籾山仁三郎は永代静雄の名前も知らなかったかと言えば、これは案外聞き及んでいたかも知れない。というのも、永代静雄(と岡田美知代と)を世間で有名にしたのは、何と言っても彼らをモデルにした田山花袋の自然主義小説「蒲団」だが、その作品を初めて単行本化した『花袋集』(易風社、1908(明治41)年3月)は、1911(明治44)年頃、紙型を籾山書店に譲っているらしいのだ(書誌により、原本未確認)。当時は書店主が直接作家と面接するのが普通だから、籾山は田山花袋と会っているだろうし、「蒲団」にも相応の関心を持っていたはずだ。 『文芸の話』から籾山の自然主義文学観を紹介すると、「島崎藤村氏や田山花袋氏の文章を見ると、それをして無技巧ならしめんとする上に、却て大なる技巧の用ゐられてゐることが明かに認められたのである。」「自然主義の文芸は尤もな文芸である。偽らぬ文芸である。成程人間といふものは、さうした者だ、と首肯(うなづ)かせる文芸である。世の中が之に依て眼を醒まされたのは事実であつた。併し自然主義の文芸には、その必然の結果として、情味といふものが無かつた。美しさといふものがなかつた。」それで趨勢が浪漫主義に移ったという考えだった。
 書店主と執筆者の関係ということで言えば永代静雄も明治末年に小出版社を経営した時期がある。堀江帰一の『緊急経済論策』(大勢社、1912(明治45)年3月)など〈問題叢書〉3篇を上梓したが、いずれも発行者は「永代静雄」だった。籾山書店でも『海外金融市場』などを出版していたことは先に触れたが、堀江帰一が籾山仁三郎と永代静雄の両者と面識を持っていたことは確かだろう。
 ところで、出版の歴史を語る際によく引用される文献に、小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、1953(昭和28)年8月)という本があるのだが、これの第1部30章「俳書堂籾山書店」の項は以下のようなものだ。 「京橋築地の本願寺の前に、籾山という貿易商の豪壮な邸宅があつた。そこの女婿の籾山仁三郎氏は、江戸庵と号して子規門下の俳人であつたが、俳書堂の看板をあげて、高浜虚子の「ほととぎす発行所」と相並んで、俳書の出版を始めた。明治俳句の辞典と云われた、正岡子規撰の「春夏秋冬」河東碧梧桐撰の「続春夏秋冬」を初め、子規氏の「俳諧大要」及び「蕪村句集講義」「子規遺稿」(五冊)等、小冊子ばかりではあるが、永く珍本として残るものばかりを発行し、後には、単に籾山書店の名を以て、森鴎外氏の「我一幕物」など、春陽堂や文淵堂本にも劣らぬような、美装の図書を発行した。意気で上品で温和なよい御仁であつたが、生来蒲柳の質で早世せられたのは残念である。」と俳書を中心に説明している。 江戸庵という仁三郎の初期の号は、『江戸庵句集』跋文によると江戸趣味とは関わりなく、旧幕時代の飛脚問屋の江戸屋の屋号を用いたもので、実家とも縁が薄くなった今、同句集以後はこの号を名乗らないつもりだ、とある。
 引用文の末尾に「意気で上品で温和なよい御仁」と多少の面識があったような書き方だが、仁三郎の没したのは1958(昭和33)年4月28日で、本書の出た頃にはまだ存命だった。俳人たちの間では一方の重鎮だったかも知れないが、戦後の出版界では完全に忘れられた存在だったと分かる。実はこの本の執筆者は小川菊松ではなく、《駒澤短大国文》10号(1980(昭和55)年3月)に載った清田(せいだ)啓子「資料紹介 花袋「縁」中の一モデルの証言」の「あとがき」によると中山三郎(別名・泰昌)が「ゴースト・ライター」だった。中山と言えば永代静雄と岡田美知代の媒酌人で、永代の出版物にも深く関わった盟友である。昭和期にも〈校注 国歌大系〉や〈新聞集成 明治編年史〉などの大著を編纂した知る人ぞ知る人物で、かなりの業界通だ。 『出版興亡五十年』に盛り込まれた見識は、ほぼ中山のものと言ってよく、委細は省くが例えば文中にあった「文淵堂」は中山が書店員をしたこともある大阪の金尾文淵堂である。そんな中山がなぜ、仁三郎を故人と思い込んだのかだが、俳書堂を継いだ実弟の上川井梨葉が1946(昭和21)年7月に亡くなったことか、籾山家を継いだ14代籾山半三郎が1941(昭和16)年11月に亡くなったことを誤認したのかも知れない。
 14代籾山半三郎は仁三郎の義弟だが、これもなかなか興味深い人物で、明治末から昭和初期に活躍したジャーナリスト・松崎天民の「善友悪友珍友奇友」(《中央公論》1925(大正14)年3月)に次のような紹介がある。「焼けぬ前の演伎座〔1925年焼失。赤坂溜池にあった〕で、沢田正二郎氏を中心として、籾山半三郎氏と相知るに至つた。仏典上の教養深く、多方面の趣味に通じた籾山氏は、知人中での富豪であると共に、好個のゼントルマンとして、尊敬して居る一人である。/築地の八百善で、初めて八百善の飯を食はしてくれたのは、此の籾山氏であつた。〔下略〕」 この文章は天民著『人間見物』(騒人社書局、1927(昭和2)年11月)に「善友悪友珍友」と改題して収めた時、「ゼントルマン」のところを「好個の話術家」などと少し改変している。どうしてこのような資料を発見し得たかと言えば、松崎天民は永代静雄が社会部長をしていた〈東京毎夕新聞〉で、1915(大正4)年から翌年にかけて探訪記者をして以来、永代と交流があったので、関心を持って調べていたのだ(その交流については拙著『運命録 松崎天民余話』(ネガ!スタジオ、2021(令和3)年6月)を参照されたい)。
 天民は「籾山半三郎氏」としか書いてないが、仁三郎の養父である先代半三郎は1918(大正7)年9月に没しているので、義弟の話に間違いない。14代は、もとの名を籾山竹三といい、俳人としては籾山柑子を名乗った。仁三郎の俳書堂に『柑子句集』(1908(明治41)年12月)がある。新国劇の沢田正二郎のグループで天民と知り合ったとあるが、仁三郎や荷風も含めて、芝居など芸能者との関係は探究すれば面白いテーマになるかも知れない。
 籾山柑子の名は荷風日記にも、簡単な記述だが数ヵ所に出て来る。1922(大正11)年1月4日条には柑子が「近年真言宗の鈴を蒐集して娯むといふ。」とあり、1934(昭和9)年3月8日条では柑子の外妾に触れ(仁三郎に関しては、こういう記述はない)、1941(昭和16)年11月11日条に死去(2日)を知ったとある。荷風は一貫して柑子と書いているが、半三郎は仏教関係の活動では籾山髻華と署名した。 『仏教読本』(観音会、1926(大正15)年9月)、『現代仏教思想』(同会、1929(昭和4)年1月)などの著作がある。やはり半三郎の著書である『モダン仏教概論』(三宝会、1936(昭和11)年12月)には、天台宗の僧侶で仏教学者の塩入亮忠(しおいり・りょうちゅう)の序があり、「籾山先生は東京日本橋の名家の出である。五人の腹族(はらから)の中のただ一人の男であつたが四人の姉君達は不幸にも夭折された。先生はどうしても生き長らへて、名家を継かなければならなかつた。生来蒲柳の質であつたので、好んで旅行をなし、俳句を楽しんだ。」などと書いている。仁三郎の妻・せんが先代半三郎の4女であることは先に触れた。 自序によれば、この本は石丸梧平が開催した夏期学校での半三郎の講義をもとにしたものらしく、石丸と言えば永代静雄が少年期、故郷の兵庫で印刷した同人誌《千代の誉(ちよのほまれ)》に大阪の石丸も会員として参加していたことなど思い出すが、まあ関係はない。
 松崎天民と半三郎の交際は続いたようで、天民が晩年主宰したグルメ雑誌、月刊《食道楽》にも、1931(昭和6)年から天民の没した1934(昭和9)年頃まで、主に籾山髻華の筆名で寄稿している。籾山柑子と半三郎の名も用いており、後者の署名原稿は1933(昭和8)年1月号の「鰹節漫筆」で家業の鰹節の話題だ。天民の文章に料亭・八百善で馳走になったことが記されていたが、荷風日記1925年3月18日条から、八百善は築地の籾山邸跡地に移転されたばかりだったと知れる。籾山邸跡には1924(大正13)年6月、築地小劇場も建てられていたが、いかに広大な敷地だったかが分かろう。
 天民が短期間〈東京毎夕新聞〉に籍を置いた時期があることを書いたが、その後、荷風の《文明》誌などに尽力した井上唖々(精一)も毎夕社で働いたことがある。荷風日記には1930(昭和5)年7月11日の唖々の命日に、その履歴を回想して、「籾山書店の編輯員に雇はれしが幾くならずして職を辞し、余と共に雑誌花月を刊行すること凡半年、大正七年の冬毎夕新聞社の聘に応じ初めは黒田湖山と共に新聞紙の三面に筆を執りしが、二三年の後同社内の活版所校正係となれり」と記している。三面を担当したなら永代静雄の部下でもあったはずだ。
 総括して言えば、籾山仁三郎と永代静雄の関係は極めて希薄ながら、お互いの名くらいは知っていても不思議ではない。何ら生産的な結論でなく申し訳ないが、私としては例え永代のようなマイナーな人物を研究しているだけでも、しつこく追求していれば史的検証の取っかかりがつかめることもある、程度のことは言って置きたい。
 最後に余談だが松崎天民は永井荷風とも交遊があった。小門勝二(おかど・かつじ)氏によると、荷風とカフェの女給との橋渡しなどしていたようで、「つゆのあとさき」(《中央公論》1931(昭和6)年10月)に登場する「松崎と云ふ好色の老人」は天民がモデルという(『カラー版日本文学全集13 永井荷風』河出書房新社、1970(昭和45)年2月「年譜」など)。秋庭太郎氏の『永井荷風伝』(春陽堂、1976(昭和51)年1月)では松崎老人は「化政期から天保時代の大儒松崎慊堂〔こうどう。原文ルビなし〕の投影」としているが、慊堂が66歳で若い下女に子を産ませた事実はあるにしても、荷風が気に入りの儒者を好色と書くと思えないことは、 「つゆのあとさき」での主人公たちの自堕落さに比して老学者・清岡熙(あきら)が潔白に描かれているのを見ても分かり、小門氏の説が正しかろう。もちろん単一のモデルに全てを帰せるわけではないにせよ。 籾山仁三郎は戦後、荷風を評して、「その小説にありては、例えば「つゆのあとさき」の第五齣、老儒清岡熙の隠栖とその為人〔ひととなり〕との描写の如き、やつがれのあまたゝび愛読して措かざる所なり。安んぞ知らん、爾も老いたりと笑はれんことを。」(前掲「『夏すがた』の初版について」)と述べているが、その温雅な性格が知れると同時にやや肩すかしにも感じる。
 それはあたかも「蒲団」を語る際に、花袋を投影した主人公や、岡田美知代をモデルとした女弟子の父親の側が、大人の対応をしていると褒めそやす論者が一定数いるようなもので、花袋が永代静雄がモデルの若い男を、あえて悪しざまに描いている理由を考えない一方的な視角なのだ。 (2022.8.5.)

    単行本書名は『 』、雑誌名は《 》で示し( )内に必要な場合は出版社・発行年月を付した。紙名・叢書名は〈 〉で括る。記事・作品名(単行本書名を除く)のほか引用一般には「 」を用い、ルビは( )内に記した。〔 〕内は大西による注。/\は踊り字。


 
    〔以下、大西小生の Facebook 記事から関連箇所を引用する。〕
    〔2022年10月31日のコメント〕
    ところで皆さんの反応がないから こちらから打ち明けるが、拙論は先行論文として木下信一氏の「丹羽五郎の唱歌・西條八十の落語」〔《MISCHMASCH》11号、2009(平成21).〕を当然、挙げておかねばならないところだったが、実は執筆時には一切読まずに書いた。のちになって存在に気づいたがあとの祭りで、拙論の前半は木下氏が昔に調べたようなことを繰り返している。なんとも調べが不足していた。たぶん木下氏はこの点、引っかかっているのではないかと心配だが本当のところそんな事情でした。


    〔2022年11月8日〕
    今日は中島俊郎先生から拙文「随想・籾山仁三郎」への ご批評が届いた。こうして すぐに反応していただける方というのも少ないので、本当に嬉しい。
    先生は過分のお褒めの言葉のあとに気になった点を挙げられ、私が籾山仁三郎と永井荷風の「蜜月時代」を強調して、いったん絶交したのちは、仲直りはしたけれども「多少の交遊があった」程度としたのに違和感を抱かれたようだった。
    昭和25年5月6日付け籾山宛書簡で、荷風が中央公論社版全集の編纂委員に加わってくれと依頼しているのを先生は例に挙げて、これは「単なる名義貸し」でなく、「変わらぬ交遊は続いていたのではないでしょうか。」と、指摘していただいた。
    たしかに拙論では 2人の交流再開後の親しさを軽く見過ぎていたきらいはある。
    ただ、どうなんだろうか。問題の荷風書簡というのは、

      〔前略〕中央公論社発行の拙著全集の儀 今回同社と相談の上荷風全集刊行会の名義にて編纂をする事に致候 それにつき編纂委員の中へ御尊名記入致度候 御迷惑とは存候へども枉げて御許被下度〔下略。岩波書店版全集27巻534頁、1995.〕

    …といったもので、籾山仁三郎が実際に編集作業に加わったという意味には取りにくい。
    荷風にとって仁三郎は、拙論で書いた「蜜月時代」に《三田文学》《文明》誌で親しく交わり、『すみだ川』ほかの荷風の前期の代表作を出版してもらったという思い出の中の人物で、のちの荷風日記などは昔を回想するものが多いし、中公版全集に推挙したのも荷風の過去作との関わりからだろう。
    籾山仁三郎は荷風と親しかった頃、「庭後(ていご)」という号を名乗っていた(ちなみに、これをもじってアリスの翻訳は丹羽(にわ)五郎名義で書いた)のだが、のちに「梓月(しげつ)」と号し、俳句の世界では一方の指導者と言って良かったが、荷風は 1度、書簡で「梓月」を「指月」と書き誤ったりしていて(昭和11年12月17日付。荷風全集別巻89頁)、のちの仁三郎自身には社交程度の関心しか持たなかったのではないかと疑わせる。
    とはいえ、荷風と生涯に渡って交流できたなんて人自体が、ほかには ほとんどいないのだから、「親友」の枠には入るのかも知れない。 …などと考えますが、どうでしょうか。


    〔2022年11月25日〕
    神戸の中島俊郎先生から手紙で、中央公論社版『荷風全集 第九巻』附録第八号「『夏すがた』の初版について」のコピーをお送りいただいた。
    拙文「随想・籾山仁三郎」(《MISCHMASCH》No.24)にその資料からの引用があるのだが、実は私は原資料を見ておらず、岩波文庫の『荷風追想』(2020.)から孫引きしていた。
    いただいたコピーを見て初めて知ったのだが、原資料で籾山仁三郎は「米刃堂主人」と署名している。私は岩波文庫に従って記事の著者名を「籾山庭後」としていた〔このWeb版では修正済み〕のだが、事実が分かってみると岩波はなぜ表記をそう変えてしまったのか、恣意的に感じる。変えるなら本名の籾山仁三郎が順当では? まぁ永井荷風と親しかった頃に籾山が庭後と称していたからだろうけど。
    また、《MISCHMASCH》の引用文中、「奈何」に「いかに」、「為人」に「ひととなり」と読み仮名を入れているが、これは岩波版の親切で、原文にはルビはない。
    ともあれ入手しにくかったからとはいえ原資料を見てなかったのは不誠実。中島先生、ありがとうございました。
    先生は私が「荷風ファンであると分り、よろこんでいます。」と書かれてましたが、荷風については全くニワカ仕込みでお恥ずかしい限りです。


    〔以下、大西小生の Twitter(現X)2022年12月10日の記事から一部抜粋。〕
    国会図書館に遠隔複写を申込んで、昨日(12月9日)、福沢諭吉協会編《福澤手帖》191号(2021.12.)〔広瀬徹「籾山仁三郎という人」〕のコピーが届いた。むろん広瀬徹先生の論考の詳しさには私など敵うべくもないが、『子供の夢』について〔先生が〕「キャロルのアリス本二冊を翻案した本邦初の試みである。」としたのは二重の意味で誤り。
    「アリス本二冊」というのは『不思議の国』と『鏡の国』のことだろうと思うけど、丹羽五郎(籾山仁三郎の変名)の『子供の夢』は『不思議の国』1冊の翻案。籾山以前に永代静雄、長谷川 康、丸山英観の訳も存在する。
    ほかの部分では籾山仁三郎の読みを「にさぶろう」と確定されてるのが、ありがたい。
    例えば Wiki の籾山梓月(しげつ)の項を見ても「じんざぶろう」と読み仮名を入れてるのだが、広瀬先生によると籾山はジンという読みを嫌ったそうだ。初耳の話は多く、論考の最後に籾山が夏目漱石を「野狐禅(やこぜん)」と痛烈に批判していた(《文明》16・17号)というエピソードがあるのも面白い。

 
    〔大西小生 Twitter(現X)2023年 4月16日の記事=広瀬徹 著『籾山仁三郎〈梓月〉伝 実業と文芸』(幻戯書房、2023.4.)のレヴュー〕





   Random thoughts on Nisaburo MOMIYAMA

     Shousei OHNISHI


 It was discovered 25 years ago by Shunichi OBARA of Morioka University that Gorou NIWA, the author of "A long fairy tale : A Child's Dream" (April 1911, Momiyama shoten), one of the earlier adaptations of "Alice in Wonderland," was a variant name of Nisaburou MOMIYAMA, the owner of the Momiyama shoten (Momiyama bookstore).
 Associate Professor OBARA also discovered that an already known book, "New Year's Fairy Tale" by USAGI-sanjin (Saibunkan Sumiya shoten, December 1911), was a variant that appropriated the paper pattern of "A Child's Dream".
 Nisaburou MOMIYAMA, during his life, used many pen names, including Edoan, Teigo, Shjgetsu, and Beijindou, as well as variations of Gorou NIWA and USAGI-sanjin.
 Although MOMIYAMA is a minor Haiku poet, there was a time when he belonged to the mainstream of the Japanese literary world.
 He studied under Shiki MASAOKA, who revolutionized Haiku, and took over the publishing business from Kyoshi TAKAHAMA, a leading figure in the Haiku world.
 He also took on the sales of Keiou University's literary magazine, "Mita Bungaku (Mita Literature)," and played a role in the rise of the novels of Japanese Romanticism.
 Among them, the "Kochou-bon (Butterfly Books)," which were published by Momiyama shoten between 1911 and 1913, with beautiful butterfly designs on books by Kafuu NAGAI, Ougai MORI, Junichirou TANIZAKI, Mantarou KUBOTA, and others, are noteworthy in the history of publishing.
 Around the time of these publications, MOMIYAMA himself was writing "A Child's Dream" and short stories for adults, and was at his most energetic as a writer and publisher.
 This paper also explores the personal connections between Shizuo NAGAYO, who first adapted "Alice in Wonderland," and Nisaburou MOMIYAMA. It is unlikely that NAGAYO influenced MOMIYAMA, but it is possible that they were connected to peripheral figures and knew at least each other's names.
    〔2023年 1月 1日up。 最終更新 2024年 1月 1日〕

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