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王さまが困った顔をむけると、白ウサギは小声で、「陛下、この証人には反対尋問をすべきです」
「ふむ。すべきなら、わしが、すべきだな」王さまは、ゆううつそうに言ったあと、腕組みをし、目をつぶりそうになるくらい顔をしかめて、料理人をにらみ、すごみをきかせて言った。
( The King looked anxiously at the White Rabbit,who said,in a low voice,“Your Majesty must cross-examine this witness.”
 “Well,if I must,I must,”the King said with a melancholy air,and,after folding his arms and frowning at the cook till his eyes were nearly out of sight,he said,in a deep voice,)

通常、cross-examine 「反対尋問」とは、裁判で証人の尋問を請求した側が、その証人を尋問(主尋問) したあと、相手側が行う尋問。
つまり刑事訴訟をイメージすれば、検察官が証人に尋問したあと弁護人が行う尋問、逆に弁護人の尋問のあと検察官が行う尋問のこと。

しかし、このくだりは、cross-examine を本来の「反対尋問」という意味に解すると、王による“主尋問”のあと、再び王自身が“反対尋問”をする形になり、理不尽だ。
石川澄子は、cross-examine に、もうひとつの語意、「詰問する。厳しく追及する」を当てはめて訳したが、これがキャロル得意のダブル・ミーニングによる言語遊戯とは、気づいてないようだ。

『不思議の国』の裁判は、もともと弁護人の存在しない一方的な裁判だが(3章の「ネズミの尾話」も同様)、といって、別にカフカ風の不条理な恐怖裁判が行われているわけではない。
ここで、王は白ウサギの「反対尋問」という専門用語が理解できず、「厳しく追及」しようと、料理人をにらめつけ、顔をしかめてみせたものと考えられる。
岩崎民平は注釈書に“相手方の召喚した証人を問い試みることで、欠点を見出そうとするのが普通ですから、 根掘り葉掘りうるさく訊く意にもなります。訊かれる証人の方でもうるさくて cross(意地悪)になる事もしばしばです。”と書いている。 つまり、料理人のほうが「意地悪」だと見ているが、これは話が逆だろう。
if I must,I must は、字(づら)の面白くさで目を引くが、文法的には特殊な構文とも言えない。
if I must cross-examine the cook,I must do so. という意味。
(しかし、言葉を単純化することから来る 字面と響きの面白さは、子ども向けの物語の大きな副産物で、キャロルは、これを意識的に用いたパイオニアである。)
以下は、高山 宏訳。 「反対尋問」という言葉が使われることの奇妙さに気づいていた高山宏は、おそらく I must の繰り返しに I の強調を見て取り、白ウサギのセリフを “陛下自ら反対尋問されるべき” と訳すことで、問題を解消した。
なまじ問題が解消されたことが、cross-examine のダブル・ミーニングを見えなくさせたと言える。
勘ぐれば、王のセリフは「反対尋問」の法律的な意味を知っている大人の読者の、目をくらますためのものかも知れない。

料理人の去ったあと、王はもう一度、cross-examine という言葉を用いる。 (→次注 を参照。)
その時点で、やはり法律知識のない王の勘違いだったと、読者が悟ることをキャロルは期待したのだろう。
こうしたことは神経質で周到なキャロルの自己満足とも言えるが、『不思議の国』 に大人の鑑賞にも堪える整合性を与え、今も研究者が増え続ける要因となっている。
邦訳では、このキャロルの工夫が、これまで、ほとんど理解されていなかった。
この場面の言葉遊びに気づき、訳に反映させたのが、脇 明子だ。

なお、この注釈は、十一訳の注釈(『WONDER FOREST』−「あれやこれや」)に触発されたものだ。記して謝意を表しておきたい。

(最終更新 2016年10月 1日)