〔以下は日本ルイス・キャロル協会機関誌《MISCHMASCH(ミッシュマッシュ)》20号(平成30(2018)年11月 1日発行)初出の大西小生「永代静雄試論――刃物を振るうアリスと美少女パイロット(An essay of Shizuo NAGAYO;Alice with an edged tool and beautiful pilot girls)」の前半部分を、最低限の修正のみ加えて再掲するものです。
修正点:『ソードアート・オンライン《アリシゼーション編》』(2012-16. アニメ2018.- )→(2012-16. アニメ2018-20.)、ライトノヴェル『スレイヤーズ』(本編1989-2000.)→(本編1989.- )〕
1−1、『アリス物語』と「命懸のかくれん坊」の評価
永代静雄の翻案『アリス物語』(《少女の友》1908.2.-09.3. 単行本1912.)について、初めて論評した人物は、『三びきのやぎのがらがらどん』(1965.)や〈ナルニア国ものがたり〉(1966.)の訳者として地歩を築いていた瀬田貞二と思われる。瀬田は講演録「子どもの本について―その資料としての価値―」(国立国会図書館児童書の会編、1968.* 1)において、国会図書館の鍵の掛かった棚から『アリス物語』を発見したと語り、「本邦初訳かもしれない」と推定するが、訳文そのものは「ルイス・キャロルという非常に頭の緻密な作家が、綿密な、いろいろおもしろい話を構想ゆたかにひとつながりに用意してくれたものを、ぶったぎり、ちょんぎり、はりつけて、二目と見られないぼろつづれにしているのです。」「舞文曲筆、訳者は勝手気ままに筆にまかせて、添加削除しながら一篇をものするというふうな状態で、〔中略〕いわゆる豪傑訳でやられたのではないか」として、戦後の吉田健一訳(1950.)と比較している。最低の評価だが、原典の精神に忠実であることに至上価値を置く翻訳観からは、うなずける話である。キャロルの作品自体、断続的なエピソードの羅列ではあるのだが、永代の翻案が粗雑であることは言わずもがなだ。
「英米児童文学を日本はどうとりいれたか」(瀬田・猪熊葉子・神宮輝夫『英米児童文学史』研究社、1971.)では、瀬田は永代の訳を菊池寛・芥川龍之介共訳(1927.)と並べて見せ、後者の進歩を称揚しているが、こうした比較法からも分かるとおり、瀬田が評したのは『不思議の国のアリス』を原典を元に翻訳した部分であって、永代の『アリス物語』の場合は最初の3章であり、中盤以降の創作物語などは無視した上での読み方だろう。
いくらか瀬田の論に疑問を差し挟むなら「『ふしぎの国』と『鏡の国』をごちゃまぜにして」(瀬田、1968. 以下も瀬田の引用は同じ)と指摘しているが、実際の『アリス物語』は『不思議の国』しか訳していない。また、単行本の『アリス物語』を見ただけで初出誌を調べていないので、やや浅い評になっている面もあるようだ。というのも「いちいちのエピソードでアリスが急場におちいるたびに、それは夢だったと目がさめて、それからまた別の日に夢をみて、…」という展開になっていることを「ストーリーとして通っていかない」と捉えているけれども、初出の《少女の友》を読んでいれば連載の第1回と3回は末尾に((完))と記されていて、読者の人気がなければそこで打ち切られる予定のあったことが分かり、とりあえずの区切りを付けるために夢落ちを繰り返すのは無理もない選択だったと察せられるのである。瀬田は論の最初で永代の「はしがき」に出て来る内ヶ崎作三郎に注目し、内ヶ崎から永代が借りた『不思議の国』の原書は「正しいエディション」か分からないと述べているが、初出誌の川端昇太郎(龍子)の挿絵を見ていれば、少なくともテニエルの載ったマクミラン版であることは判明していただろう。
その後、一般のアリス・ファンが永代静雄の『アリス物語』を記憶にとどめたのは、永田恵子・吹春規子・杉本礼子・岡まりか編『アリスの本』(少女座編集室〈少女座〉5、1987.)の「日本にきたアリス」の章であったろう。この中で菊池・芥川訳に関して瀬田貞二の評言を『英米児童文学史』から引いているので、編者はここから永代訳の存在を知ったかと思われる。「日本にきたアリス」では編年的にアリスの各種翻訳を手短かに解説しているのだが、永代の作だけは附録「「須磨子」のアリス」として別立てで6頁にわたり紹介している。永代の筆名・須磨子を題に用いていることから分かるとおり初出誌《少女の友》に当たった最初の考察と思われ、挿絵画家が川端龍子であることも発見した。『アリス物語』中盤以降の永代のオリジナルの寓話についても言及したのは初めてだろう。
初期の『不思議の国』の翻訳部分については「かなり勝手なアレンジ」とし、夢落ちを繰り返す点については「あまりに場当り風」で、かつての少女小説の「稚拙さを感じ」ると手厳しい。中期(連載第4〜6回分)も「まだ話の方向が定まっていないらしく、恐怖物語になったり、細腕繁盛記になったりで、わけがわからない。」と書くが、一方で第6回(「幸福の杖」)の原型が中国民話「梨売りと仙人」などにあると推測したり、「この中期の三回分が鑑賞して最も妙味深いものかもしれない。」との感想も記す。後期(第7〜14回。この論考では全13回と誤認している)の物語については、「これが「須磨子」の本来の持ち味なのだろう。愛と冒険のスペクタクル・ロマン!」「「女性の勝利は、真心と貞操と愛と忍耐。」という凄い結論も出てしまうのだ。」と、揶揄しながらも、ある種の面白味を感じていると知れる。基本的な論調は明治の少女たちには「巧みに訳しても、キャロルのユーモアがわからなかったろうか。もしかしたら、「須磨子」の誠の女性の物語の方を、大事に抱きしめただろうか。」という慨嘆で、例えば作品のチープさを愉しむといった読み方は未だされてないようだが、具体的な粗筋までも載せていること自体、キャロルとは全く異質の『アリス物語』から受けたインパクトを紹介したいという気持ちの表れであり、この感覚は当時の読者にも十分伝わったのではないか。
現在のキャロリアンにとっての基本文献で、図書館などでも比較的容易に参照できる研究書に楠本君恵『翻訳の国の「アリス」』(未知谷、2001.)がある。ここでも「どんな点で『アリス』が当時の少女雑誌の連載として受け入れられたのか知るために、」全体の粗筋を細かく紹介している。永代の独創部分は「キャロルの作品の精神のかけらさえもない。」が、良妻賢母の育成という時流に沿った内容で、「良家の女子に向けた教訓的な作品」。「日本のシンデレラ物語」で、「多分『少年世界』に連載された「鏡世界」をヒントに、お伽噺の龍宮城のイメージを基にして、」作られたと想定している。永代が長谷川天溪の「鏡世界」(1899.)を読んでいたかは疑問だが、概ね同意できる見方である。ただ、単純に永代の主張による創作というよりは、生活費稼ぎの手すさびとして雑誌の趣旨に合わせて書かれたものである、という消極的な面は考慮すべきだろうし、また逆に積極的に見た場合、永代作品の魅力はそのキッチュさにある、という視点も抜け落ちている(この欠落は以下の『アリス物語』論全般についても言える)。
永代の翻案がキャロルの精神から遠いという分かりやすい事実は、少女座の『アリスの本』でも問題にしていたし、瀬田貞二の言葉を引用すれば「やっぱり非常に翻訳なんかも杜撰な時代ですから、そしてまた、『アリス』のナンセンスの感覚というものが、ほとんどわからない時代の日本人が、わからないなりに訳しているものですから、非常に奇妙キテレツなことが多いのです。」ということになろうか。
翻訳史の専門家である川戸道昭教授は「明治のアリスA 永代静雄と「トランプ国の女王」」(《翻訳と歴史 ―文学・社会・書誌》3号、2000.* 2)において、特に連載の第2回を取り上げて「緩急自在な翻案作品」とし、天溪の「鏡世界」に比べて「原文を細部まである程度忠実に再現している箇所もある。」と指摘する。原文を改変した箇所も多いのだが、原作を再現した会話部分は「ナンセンスな雰囲気を醸し出すのに一定の効果をあげている。」と見、また「いたって平易・明快な文章ときているので、面白さの本質は当時の少年少女にも十分理解可能なものであったと思われる。」と好意的に評価している。永代の文章の読みやすさというのは称揚されてもよいだろう。しかし、直訳に近い部分がキャロルの精神を伝えているというのは当たり前の道理だ。
だから、永代の創作部分については「凡庸な物語」で、「やはり永代にも、キャロルの作品の本質が奈辺にあるかが分かっていなかった」と書くのは当然かも知れないが、一方で横田順彌が永代を「SF作家」と考えていることに触れ、「永代の文学に対する興味の中心が「空想」が生みだすさまざまな冒険奇談にあったことは、この『アリス物語』をみても間違いないところ」と捉えている。実際の永代には自然主義的な写実小説も少なくなく、むしろ本人はそちらに注力したとも思われるのだが、単行本化されたような通俗作品に関しては確かに空想的傾向も顕著である。
千森幹子『表象のアリス テキストと図像に見る日本とイギリス』(法政大学出版局、2015.)は本格的な学術書で、永代の翻案を 丸山薄夜(英観)訳『愛ちやんの夢物語』(1910.)、丹羽五郎編『子供の夢』(1911.)と比較した上で、「封建的」と断じている。こうした歴史的評価も必要とは思われるが、ほぼ完訳である丸山の作が最もキャロルのアリスに近く、幼年向けの『子供の夢』に倫理色が薄く作風がソフトなのは論を俟つまでもない(ただし千森教授は丸山らの作についても公平に批判的に検証している)。永代の封建的な女性観は、「女の学問も要るには要るが、それは樹の瘤と同じで、有ってもなくっても好い。」という作中の老婆の台詞に端的に表れているが、千森はそれを非難するだけでなく、「永代のアリスには前近代的で控えめな「賢明さ」と、明治の特徴である立身出世型の世間知的「賢明さ」が共存する。」「概して日本のお伽噺にでてくる孝行娘の系譜を受け継いでいる。」といった視点も提供する。続けて、「原作のアリスが七歳であるのに対し、永代の版では思春期前後」と、見やすい事実ではあるが意外に盲点となっている面も指摘し、そのため幼い年齢のアリス以上に、従順さなどの「女性の美徳」を強調することになったと解するが、エピローグ等で20世紀に入って思春期の「少女」概念が生まれたことにも触れているのは興味深い。そのほか本書では川端龍子の挿絵や、『アリス物語』のダイジェストである「フシギナ クニ」(《幼年の友》1917.1-6.)についても論じられている。
永代の封建性について付言すれば、千森は、永代や丹羽五郎がハートの王と女王の行列にアリスがひれ伏さない理由(ひれ伏したら行列が見られない)を省略したのは「明治天皇への敬意が欠如しているとみなされ」かねないからのように論じたが、丹羽はともかく、アリスが女王に向かって『失敬な事を被仰い!』と叫ぶ場面を描いた永代にとってその説が当たっているかは疑問である。そもそも頁数の限られたリライトなのだ。
例えば近年の石井睦美 編訳『 10歳までに読みたい世界名作J ふしぎの国のアリス』(学研教育出版、2015.)でも行列に対するアリスの考えは略されているが、そこに封建性を読み取ることはできない。これに限らず永代の翻案は完訳本よりはリライトと比較したほうが良いかも知れない。原典の自由な改竄ぶりは、むしろ辻真先や平田昭吾らの、いわゆるアニメ絵本* 3に感覚が近いとも思える。そのように視野を拡げてみることも時に必要だろう。
なお、『アリス物語』の《少女の友》版は川戸道昭・榊原貴教編『明治翻訳文学全集《新聞雑誌編》11 サッカレー/キャロル集』(大空社、1999.)に連載第1回および11回以外は復刻されており、単行本(紅葉堂書店版)は千森幹子編『不思議の国のアリス〜明治・大正・昭和初期邦訳本復刻集成 第2巻』(エディション・シナプス、2009.)に収録されているので、永代の作を未読で興味を抱かれた方は大型図書館・大学図書館等で手に取ってみられたい。もっとも単行本版は千森編著以前から児童書デジタルライブラリー(現在の国会図書館デジタルコレクション)で参照可能だった。
さて、ここまでに挙げた論はアリス・ファンもしくはキャロリアンによるものだったが、『アリス物語』の永代のオリジナル部分を最も詳細に分析したのは、キャロルとは距離を置いている大塚英志の『「妹」の運命 萌える近代文学者たち』(思潮社、2011.)である。
大塚は単行本『アリス物語』の「はしがき」などから、キャロルと大きく異なり「永代の言説は政治あるいは世俗に直結して」いると指摘する。さらに、キャロルが女性の性的成熟を嫌悪するのに対し、永代の『アリス物語』は女性として成長する「女性版立身出世物語」であると解釈する。
「『アリス物語』は魔法民話やファンタジーの説話構造に忠実であり、ハリー・ポッターを彷彿させる波瀾万丈の物語に仕上がっている。しかし重要なのはその物語がアリスのビルドゥングスロマンであること、そして『蒲団』のヒロイン横山芳子の恋人であるところの永代がアリスの自己実現のゴールとしてどのような女性像を示したのかに留意しながらこの物語を読むことにある」という。永代の多様な言説に目を通した私からすれば『アリス物語』のみを「蒲団」に引きつけて読むことは危ういと感じるが、重視されてない前半の話は面白い。〈ハリー・ポッター〉を引き合いに出すのは過褒とも思えるが、逆にローリングの作品が非常に通俗で、プロットに説話的な部分があることを示してもいる。中盤以降の『アリス物語』も意外に読者を惹きつける力はあり、多層的に読み解ける。
論旨の上では添えもの的部分だが大塚は『アリス物語』を説話論的に分析している。例えば、アリスが底無沼で蝶に羽を託される場面は「英雄神話の定石である、英雄が旅立つきっかけとしての「依頼」「召喚」がなされる」とし、老人たちを食卓に招く場面については「老人たちは身を「やつし」た姿の神であることは古今の民話ないしは神話の定石」、「老人はアリスに「魔法の杖」といういわば呪的アイテムを「贈与」する」と説明する。
アリスが「「大悪龍王」によって「鴎」に姿を変えられて大海原を彷徨する」くだりも「物語の定石通りであり、本論ではそのような試みはわざわざしないがプロップのフォルマリズム的な魔法民話の構造に対応させた時、『アリス物語』は構造が鮮明である。」と語る。鴎のアリスが訪れる赤水晶の「赤島」が初潮の訪れを象徴しているのは明らかとし、ここでは「イニシエーションの最終段階での「死と再生」」の描写があると見る。民俗学、物語論に造詣の深い大塚ならではの議論である。
女の学問は「樹の瘤と同じ」という箇所においては、「アリスは女学校を「卒業」し、真珠王の宮殿でも学んできた。つまり、これまで「学問」への勤勉さが求められていたのに」いきなり否定されることに関し、近代という可能性を女性に与えながら、「自らの妻にする段ではそれを抑圧する男たちに共通のふるまい」、男たちの「ダブルスタンダード」を見て取っている。
この点は鋭いが、永代は同時期の著作『新島襄言行録』(1909.)では「女学隆盛なりしと雖も、女性に何等の自覚なく惹いて従来の圧抑に甘んじたるの観ありき。」などと論じ立てていて(「女子の自由解放を図る」)本心がいずこにあるか計りがたい面もある。《少女の友》の連載では旧来の修養を重んじる創刊時の編集方針に合わせた部分はあるだろう。大塚の引用に戻ると「永代がアリスに求める自己実現は「近代」としての可能性ではな」く、「アリスの冒険は「貞操」探しの旅と化してしまう」。「「姥皮」などの女性の通過儀礼を描いた昔話では後段、娘を見初めた男の父から娘に嫁としての資質を問う試験が与えられる場合がある」と、民話との共通性も指摘する。そして「男の側は何もせず女たちがビルドゥングスロマンを一方的に生きるという構成」を見出している。凡庸と思われる物語でも分析手法さえあれば語るに値するのである。
さらに大塚は「アリスに開かれた近代は結局、彼女を良妻賢母にとどめることはできなかった。」として単行本『アリス物語』の附録「命懸のかくれん坊」を論じることになるのだが、確かに永代の作を単に良妻賢母育成の物語と見る立場からは、この短篇は異様な鬼子でしかないだろう。
* 2 のち加筆修正したものが、川戸・榊原貴教編『児童文学翻訳作品総覧 第一巻【イギリス編】一』(ナダ出版センター、2005.)所収の「明治の『アリス』 ―ナンセンス文学受容の原点― 三 永代静雄「トランプ国の女王」」。
* 3 辻の著書には朝日ソノラマ〈世界名作ものがたり〉2(1974.)、朝日ソノラマ〈世界名作絵本〉9(1976.)、学習研究社〈学研絵ものがたり〉37(1980.)などがあり、平田の著書には、ポプラ社〈テレビ名作アニメ劇場〉4(1975.)、ポプラ社〈世界名作ファンタジー〉17(1986.)、永岡書店〈名作アニメ絵本シリーズ〉25(1986.)、ポプラ社〈スーパー・アニメファンタジー〉19(1989.)、ブティック社〈よい子とママのアニメ絵本 せかいめいさくシリーズ〉48(1991.)がある。いずれもタイトルは『ふしぎの国のアリス』(もしくは『ふしぎのくにのアリス』)。
この「命懸のかくれん坊」について最初に取り上げた書籍は、やはり少女座の『アリスの本』だったろう。「これがまた驚愕すべき物語で、アリスという少女が発狂し、主人公である友人を切りつけるという、何とも恐ろしい一夜のサスペンスを描いていて、「血!血!温かい血!あゝ斬った!」などとアリスの凄いセリフの連続で、我が目を疑ってしまうのだ。/いったい永代はどういうつもりでこれを書いたのか。本編で、女の中の女としてアリスを誉めすぎたので、その反動だろうか。」と、これだけであるが、紹介せずにはいられないという気持ちは伝わって来る。近年でもウェブ上でこの作を読み、驚愕したという記述は、まれに目にする。
永代自身による前口上は、「今年十六になる英国の少女が、最近に出会った恐ろしい実験談をお話いたしませう――「鍵のかゝた〔ママ〕真暗な寝室の中で、死ぬか活きるか命懸けのかくれんばうをしたお話――気狂のお友達から斬りつけられて、危ふく一命を助かつたお話」――お話はその恐ろしい目に遭た少女から、皆様へ申上げる風に綴りました。」というもので、実話という体裁を取っている。もちろん本当は創作である確率も高いが、新聞記者として活躍していた永代にとって、このような種を拾う機会は多かったろう。偶然アリスという狂女のニュースを知り、急遽『アリス物語』に取り込んだ可能性は捨て切れない(単行本書下ろしかは不明だが)。大塚英志は「命懸のかくれん坊」を論じたほとんど唯一の評論家だろうが、まず「実験談」という言葉に注目し、それが自然主義小説ないしリアリズムを連想させる語だと指摘する。「犯罪記録から自然主義小説を企てるという方法そのものは『蒲団』成立以前に柳田〔国男〕が花袋に求めたものである」ともいう。
アリスが「読書」「作文」の好きな文学少女で、「神経的」であるという人物設定は非常に近代小説的で、大塚はこれらの面を掘り下げていく。
私は、猟奇的な内容から探偵小説の源流のひとつになった「探偵実話」を思い出す。
都新聞、報知新聞などで実話ものが過去に流行したのは社会面担当の永代も意識していたはずだし、国会図書館蔵書には「探偵実話」のツノガキを持つ雑本は1893(明治26)年から1912(明治45)年の間にのみ(前後篇などを1タイトルとすると)68タイトル検索されるが、まさに『アリス物語』は1912(大正元)年の出版である。その後、昭和初期と戦後期にも「探偵実話」という語がよく使われるが、これらの作に論理性はほとんどないにせよ、いわゆる変格探偵小説などに大きな影響を与えたと考えられる。江戸川乱歩が自然主義小説にまるで馴染めなかったエピソードは有名だが、明治末から大正初期、自然主義文学と探偵実話は案外近い位置にあったのかも知れない。
事実、自然主義的著作も多い永代は、のちに『神秘探偵 透視液』(1918.)、『神秘探偵 外相の奇病』(1919.)などの変格探偵小説も執筆するのである。後者は人の心が解るサイキックの少年探偵が活躍する。
余談だが、大塚は「小説の仕掛け」の種が早い時点で明かされていることに「永代が作家として大成しなかった」理由を見出しているけれども、そもそも前口上で粗筋を明かしている小説にそんな配慮を求めるのは可笑しい。ただ多少擁護して置くと、序文などで作品の種をバラシてしまうことは、大戦前の小説ではしばしば見られる事象である。「命懸のかくれん坊」のような年少の読者にはトラウマになりかねないホラー小説において、種を明かしておくことは安全弁とも言えるが、単に過度の親切心という以上に、ネタバレを良しとする風潮があったようにも思えるのである。
志賀直哉が芥川龍之介の追悼文で、「〔「奉教人の死」(1918.)など〕芥川君のものには仕舞で読者に背負投げを食はすやうなものがあつた。」「私は夏目さんの物でも作者の腹にははつきりある事を何時までも読者に隠し、釣つて行く所は、どうも好きになれなかつた。」(「沓掛にて―芥川君の事―」《中央公論》1927.9.)などと批評したのは知られるが、これはふつう志賀の個性のように捉えられているけれども、もっと一般にこの頃には予想外な展開を忌諱する感性もあったと考えられないだろうか。これは探偵小説の否定である。夏目漱石自身が探偵を卑怯なものと見たことにも、つながりそうだ。この感覚は探偵小説の発展とともに消えていったろう。永代は先ほど見たように特異な探偵小説も書いたが、論理性に基づく意外性の提示など探偵小説の作法はもちろん身についていなかった。そこで永代が大成しなかったという問題だが、その小説の弱さは「命懸のかくれん坊」を読んでも、思いついたままを書いたような言語感覚の無神経さ(「「気狂に刃物」という身も蓋もない章題」(大塚)に見られるような)と、全体の結構の単純さ(アリスを精神病院に入れました、で幕となるような)に一目瞭然であるものの、それらは現在の感覚で見た場合、チープな面白さにもなっていると思われる。
1−2、アリスと〈刃〉の系譜
私は、かつて拙サイトで「命懸のかくれん坊」を話題にしたさい* 4、それがアクションアドヴェンチャーゲーム「American McGee's Alice」(2000.)を連想させるのを指摘したことがある。この点は最近、漫画家の松田洋子がTwitterで永代の同作を紹介したとき* 5にも、「アリス イン ナイトメア」(American McGee's Alice日本語版、2001.- )とその続篇「アリス マッドネス リターンズ」(Alice: Madness Returns、2011.)の画像を貼るリプライがあったことから見て一般的な思いつきと考えられる。これらの作品の中ではホラーテイストの病的なアリスが巨大なナイフ(Vorpal Blade)を武器として振り回す。
Vorpal Blade(日本語版「ヴォーパルナイフ」)というのは、『鏡の国』1章の詩の文句でジャバウォックを刺し殺したvorpal swordを固有名詞化したところから来ている。この剣のヴァリエーションがロールプレイングゲーム(RPG)では数多く見られる。
おそらく「ザナドゥ」(1985.- )で「ヴォーパル・ウェポン」が登場したあたりを皮切りに、「ウィザードリィ(wizardry)7 ガーディアの宝珠(Crusaders of the Dark Savant)」(1993.- )の「ボーパル ブレード」、「テイルズ オブ」シリーズ(1995.- )の「ヴォーパルソード」等々が生まれている。
ディズニー映画「アリス・イン・ワンダーランド」(2010.)で、アリスがジャバウォックの首を斬り落とすのも、「wizardry」などの影響と見ることが可能だろう。
Vorpalの名は付かないが、近年のスマートフォン用RPG「グリムノーツ」(2016.- )や、オンライントレーディングカードゲーム「Shadowverse」(2016.- アリスの登場は2017.)にもアリスと剣とのヴィジュアル・イメージが見られる。
由貴香織里の漫画『架刑のアリス』(2014-18.)で主人公が召還した「ジャバウォッキー〔ママ〕」の口から剣を取り出したり、ウェブ連載の稲空穂『おとぎ話バトルロワイヤル』(2016.- )におけるアリスの武器が剣なのも、ゲームや映画からの発想だろう。川原礫のライトノヴェル『ソードアート・オンライン《アリシゼーション編》』(2012-16. アニメ2018-20.)のメインキャラクターである人工知能の剣士アリスも同様である。
アリスという固有名詞にこだわらず少女と剣のイコンを探せば、話は際限なく広がる。海外の事例はよく知らないが、手塚治虫が「日本のストーリー少女漫画の第一号」を自称する『リボンの騎士』(初出1953-56. アニメ1967-68.)が、すでに少女と剣のモチーフを描き出していた(引用は『リボンの騎士 少女クラブ版』講談社〈手塚治虫漫画全集〉、1979.)。
精神科医の批評家、斎藤環は「戦闘美少女たちの系譜」(『少女たちの戦歴 『リボンの騎士』から『少女革命ウテナ』まで』青弓社、1998.)で、『リボンの騎士』は「「戦闘美少女」の系譜においてじつは正統ではな」く、『ベルサイユのばら』(1972-73. アニメ1979-1980.)や「少女革命ウテナ」(アニメ1997.)につながる「トランスヴェスタイト(服装倒錯)系に位置づけられる。」と述べている。これに『ベルばら』と『リボン』にヒントを得たアニメ「ラ・セーヌの星」(1975.)を付け加えられるが、正統か否かはともかくとして男装の麗人には幅広い人気がある。言うまでもないことだが『ベルばら』の作者・池田理代子と『ウテナ』のコミカライズを担当したさいとうちほが女性であることにも注意して置きたい。男性作者のみの妄想ではないのである。物語としての男装の起源は古いだろうが、近代の娯楽作品における男装の系統がいつから始まるのか、にわかに答えられない。が、少なくとも後で取り上げる永代静雄の「満朝(まんちょう)の花」(1913.)には美少女の男装シーンがごく自然に登場する。もちろん宝塚歌劇の発祥以前の作品である。
永井豪の『ハレンチ学園』(1968-72.)で、柳生みつ子が日本刀を背に機関銃を乱射するイメージは、まさに男性作者による男性読者のための女性像と言える。お馴染みのフロイト『精神分析入門講義』第10講(1916.)によればナイフ、サーベル、銃などの尖った武器、体を傷つける物は男性器の「象徴的代替物」ということだが、夢分析のほとんど最初の事例として出てくるのは、それだけ短絡的に発想されるということで、信憑性は今ひとつだ。しかし柳生みつ子のイメージからも、それらの武器にセクシャルな意味が付与されているのは疑えない。銃器と少女のモチーフも興味深いが、本稿ではそこまで話を広げないことにする。フロイトは「少女における不安を伴う夢では、ナイフや火器を持った男に追いかけられることが大きな役割を演じ」ると語った* 6が、少女を追いつめるナイフを持ったアリスは精神分析的にどういうことになるのだろう。これも斎藤環に言わせれば「ファリック・ガール」(ペニスを持つ少女)* 7ということになるのか。
日本におけるファンタジー系の少女剣士は「風の谷のナウシカ」(アニメ映画1984.)と、最初期のOVA「幻夢戦記レダ」(1985.)あたりにひとつの完成形を見せる。ライトノヴェル『スレイヤーズ』(本編1989.- アニメ1995…2008.)のリナ=インバースや、アドヴェンチャーゲーム「サクラ大戦」(1996…2005. アニメ2000.)で真宮寺さくらの振るう剣も一時代を画したし、双頭刃の刀を用いる小山ゆうの漫画『あずみ』(1994-2008.)など見ても、非常にフィクショナルな男性の欲望する少女像である。
「もののけ姫」(1997.)や、奈須きのこ『空(から)の境界』(商業単行本2004. アニメ映画2007-13.)のように長刀よりナイフを多用する作品は、やや陰性になるとも思える。
「BLOOD」シリーズ(アニメ映画2000. TVアニメ2005-06.)やライトノヴェル『灼眼のシャナ』(2002-12. アニメ2005…12.)、漫画『武装少女マキャヴェリズム』(2014.- アニメ2017.)、オリジナルアニメ「刀使ノ巫女(とじのみこ)」(2018.)等々、少女と刀による闘争のイメージは延々と消費され続けている。市川美織主演の実写映画「放課後戦記」(2018.)も制服少女たちが日本刀で闘うストーリーだが、ウサギの登場やハートの女王風キャラクターの存在などモチーフに『不思議の国』を用いている。
以上思いつくままに列挙してみたが、もちろんこれらメディアミックスで展開される作品群と、どの程度読まれたのかも分からない「命懸のかくれん坊」は無関係である。ただ永代の作品が、アリスとナイフ、少女と刃を組合わせて見せた最初期の例なのではないか、永代は読者が密かに見たいと願う潜在的なニーズを、どれほど自覚的かは分からないにしろ、すくいあげて文章化していたのではないか、と思うまでである。
世界的に見ても早い例では、という気もするが、私は海外の事情に通じてない。思い起こすのは映画「アリス・スウィート・アリス」(1976.)くらいなものである。この作品は実のところ少女アリスがナイフを振り回しているわけではないが、観客にその姿を夢想させるところにサスペンスの核心がある。
* 6 引用は新宮一成・高田珠樹・須藤訓任・道籏泰三訳『フロイト全集15 1915-17年』(岩波書店、2012.)。
* 7 前掲「戦闘美少女たちの系譜」。より詳しくは斎藤『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、2000.→筑摩書房〈ちくま文庫〉2006.)。
〔2018年 8月19日脱稿。2019年 1月 1日up〕
追記。 大林宣彦監督に 8歳の殺人鬼“ありす”がナイフを振るう「可愛い悪魔」(1982.)という TVドラマがある。ありす役は川村ティナ。 〔2020年 8月10日〕
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