| Home|

 王妃さまは、まっ赤になって、もうかんかん、じろッと、けだもののような目つきでにらんだあと、金切り声で 「首をはねておしまい! 首を……」
 「ばかみたい!」アリスが大声で、きっぱりと言ったので、王妃さまは言葉をのんだ。
( The Queen turned crimson with fury,and,after glaring at her for a moment like a wild beast,began screaming “Off with her head! Off with ――”
 “Nonsense!”said Alice,very loudly and decidedly,and the Queen was silent. )

Off with her head!
ガードナーは 『決定版 注釈アリス』 で、『子ども部屋のアリス』 での
王妃の顔色は bright red だと指摘しているが、 scarlet 「緋色」 に近
い crimson red 「深紅色」 に塗られている。
岩崎民平は turned crimson with fury を “ turned red with anger に
輪をかけた猛烈な怒りかた”と注釈しているが、 赤らんだ顔を crimson
と表現すること自体は一般的。
12章末での王妃の顔色は turning purple 、となる。



この場面のイラストは、絵解きの愉しみに充ちている。

背景のドームは、オックスフォード大学植物園 〔 University of Oxford
Botanic Garden〕の温室だろうと推測される (実際の形状 は、イラスト
に描かれたものとは異なる)。
1章で語られた噴水の形も、ここで明らかになる。


壁のように佇立するトランプの字札。

ハートの王と王妃以外に、王族の面々も居並ぶ。


酒呑みを思わせる 赤鼻のジャック は、 a crimson velvet cushion
「深紅のビロードのクッション」 に王冠を載せて捧げ持つ。

その背後に、足と茶色の上着を のぞかせる白ウサギ。

アリスの足元には、三人の庭師が、ぺたりと平伏して、背中の模様
を見せている。


『不思議の国』が書かれた当時、英国では、まだ公開処刑がしばしば行われていた。
もっとも、これは絞首刑で、斬首刑が行われていたのは18世紀中葉までである。

長山靖生は 『相互誤解!』(J I CC出版局、1992.→『日米相互誤解史』〈中公文庫〉2006.) の中で、 1885年、ロンドンで初演され、今も人気のあるオペレッタ 「ミカド」 が日本であまり上演されない理由を、次のように解説する。 かつてのヨーロッパにおいて公開処刑が、大衆的な ひとつの「娯楽」だったとは、しばしば指摘される事実だ。
加えてヴィクトリア時代には、殺人事件や処刑の報道が、ジャーナリスティックに書き立てられるようになった。 ここで長山氏は、事件に興味津々でありながら “浮かれ騒ぐ大衆を さも軽蔑するかのような書きぶり” をするウォルター・スコットに、“ヴィクトリア朝人の本音と建前” を読み取って批判する。 この時代は探偵小説の勃興期でもあるだけに、こうした研究は少なくない。ヴィクトリア期の言説を偽善とする認識は、今日では通説のようになっている。
しかし逆に、これより前の時代は 「残虐さ」 というものに鈍感だったため、巷の殺人を問題視して文章化すること自体、滅多になかったのだとも言えよう。 キャロルは血なまぐさい話を好まなかったが、「ゼロ時間のほぼ半分以内で」 その場から消えなければ、首が消えることになるとは 9章、王妃の公爵夫人に対する脅し文句である。  『鏡の国』 5章には、最初に刑罰を受け、最後に犯罪が起こるという話さえあった。
“一ヵ月以内に誰かの首をはねないと免職”、“罪に適した刑罰を定める”などと言っているミカドは、およそ凡人にしか見えまい。
が、平凡なほうが現実的で、より大衆の感情を反映しているとも考えられる。
『不思議の国』に頻出するデス・ジョークは明朗なノンセンスで、陰鬱さを感じることのほうが難しい。
アリスも最初に首切りを宣告された時点では、王妃の言葉を全く現実的 に捉えず、怖れなかった。

ちなみに『不思議の国』が出版された1865年に、ルーマニアでは死刑廃止が決定されている。
英国で死刑廃止法が可決されたのは、ちょうど100年後に当たる1965年である。