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「ごめんなさい、つづけて!」アリスは、ひどく、しおらしくなった。「もう口出しはしないから。きっとどこかに、 そんなのもなくはないよね」
「そんなものない、とはなんだ!」ヤマネは、しかりとばすように言った。
(“No,please go on!”Alice said very humbly. “I wo'n't interrupt you again. I dare say there may be one .”
 “One,indeed!”said the Dormouse indignantly. )

I dare say は「多分〜だろう」という、丁寧な言い回し。 控えめな話しかけ方をしているのだが、しばしば、この言い方は慇懃無礼にもなる。
アリスは良家の子女らしく、one という代名詞をよく使うが、ここで言う one は、treacle-well 「糖蜜の井戸」を指している。
ところが、ヤマネはこの one を数詞の 1 と取り違え、「(井戸が) ひとつしか無いだって!」と怒った。

ヤマネはアリスの慇懃無礼を怒ったようにも取れるが、それだけなら、わざわざ one をイタリックで示す必要がない。
むしろ、教育のないヤマネには、アリスの上品な言葉遣いが通じなかったと解すべきところだろう。
キャロルからすれば、この程度のシャレは簡単に思いついたろうが、いざ日本語に訳すとなれば難しい。

稲木昭子・沖田知子『アリスの英語』 84-5頁、楠本君恵『翻訳の国の「アリス」』 173-4頁も参照のこと。


参考訳

長澤才助訳(1928.)

〔前略〕『私、もう喋りませんわ。砂糖蜜の井戸も まんざら無いことはないでせうよ。』
 『まんざらだつて!』山鼠は云ひました。

長澤の注 “(まんざら)と訳せば 前の may be にも、後の(一ツ)の意味の one にも通ずるにより、妥当ならん。”(原文 旧字体)

岩崎民平訳
 「もう差し出口は控えますから。そんなのもあるかもしれませんわ」
 「そんなのもなんて失敬な!」と眠り鼠は怒って申しました。

岩崎は語注では、アリスの言う one を one treacle-well 、つまり数詞と捉えている。

芹生 一訳
 「もうじゃまはしませんから。きっとどこかにありますわよね、そんな井戸も。」
 「そんな井戸、だって。」 〔下略。原文、そんな、に傍点〕

石川澄子訳
 「もう口出しはしません。きっと、そういう井戸があるのでしょう。」
 「ありますともさ」とやまねは憤慨しました。

高山 宏訳(1994.)
 「もう口ははさみません。ここはひとつ、そういうのあることにしますから」
 「ひとつ、なんかじゃないネ」と、ネムリネズミは怒って言いました。 〔原文、ここはひとつ、に傍点〕

最近の翻訳では、折衷的に、「そんな井戸も、ひとつぐらい」とアリスが言い、「ひとつぐらいだって!」とヤマネが怒る例が多い (このパターンの元祖は芥川龍之介・菊池寛の共訳)。
違和感は減るのだが、原文を見ない読者に、それをシャレと気づかせることも不可能となる。


追記。 安井泉『対訳・注解 不思議の国のアリス』(研究社、2017.)によれば、アリスの one には数詞の意味が強いという。
one が単なる代名詞なら強勢が置かれることはないが、斜字体なので強勢が置かれる、というのだが斜字体にしているのは基本的にはシャレであることを示しているだけだと思う。
もっとも斜字体の部分が二重の意味を持つことはあるので、ここも代名詞であり、かつ数詞であるのかも知れない。
また、代名詞だとしても個数は 1つで、複数の場合には some を用いる、との指摘は もっともで、うなずける。
安井説 によると、「そんな井戸も、ひとつぐらい」という訳 は非常に正当なものということになる。
しかし、この解釈は treacle well の故事を知っているアリス・マニアのような人にしか通じにくいだろう。
ここも内輪ウケ的な部分と捉えるべきなのだろうか?(もっと一般的なシャレのように思えるが。)

(最終更新 2017年 8月 4日)