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「ぼくらは、最高の教育をうけたんです。……なにしろ毎日、学校にかよって……」
わたしだって、毎日学校にかよったわ」とアリス。「そんなに、じまんするほどのこと、ないわよ」
(“We had the best of educations ―in fact,we went to school every day ――”
I've been to a day-school,too,”said Alice.“You needn't be so proud as all that.”)

day-school は通常、「全日制(昼間)学校」あるいは 「(寄宿制でない)私立の通学学校」という意味だが、ここは楠山正雄、岩崎民平以来、“(アリスも)毎日学校へ通った”というのが定番の訳になっている。 以下は岩崎の解釈を発展させた芹生一の注釈。

いかにも、煙突掃除の少年が主人公の 『水の子 〔The Water-Babies〕』(1863.)を全訳した芹生らしい説明で、拙サイトでも、ここは基本的に この解釈を採る。
PENGUIN CLASSICS版の注釈でも、ウミガメ・フーミの話は、トマス・ヒューズ〔Thomas Hughes〕 『トム・ブラウンの学校生活 〔Tom Brown's Schooldays〕』(1857. キャロルも卒業したラグビー校がモデル)と、『水の子』の戯画的な合成かも知れないと考えている。

a day-school を、蕗沢忠枝や北村太郎のように「昼の学校」と訳した場合、too の意味が不明になる (そのため、例えば北村訳では “ニセウミガメ”のセリフを 「じっさい、毎日、昼間、学校へ通った」と改変しているが、やや不自然)。
高橋康也・迪訳では、アリスが 「わたしの学校だって夜学じゃありませんでしたからね」と応える。
確かに「昼の学校」という言い方は、night school と対になって初めて意味が通じるのだが、これはちょっと ひねり過ぎだろう。

長澤才助の注釈(1928.)は、day-school を 「寄宿舎のない、通学する学校」と捉える。
木下信一訳(2006.)も、「通いの学校」としている。

ウミガメ・フーミの語る言葉を信じれば、彼が通っていたのは 全寮制 の、それなりにレヴェルの高い学校ということになるが、実のところ、まともに授業に出ていたとも思えない (→後注)。


しかし、Alice Liddell は家庭教師に学んだので、特に学校に通っていたという話も聞かない。
良家の女子児童と学校とは、基本的に なじまない話題に感じる。
そのわりに『不思議の国』には、学校での授業や、学校での友達を思わせるエピソードが頻出し、そこが逆に現在の読者にも親しみやすい要素のひとつになっている。
キャロルは初等教育について、意見を持っていたのだろうか?

1870年の小学教育法の施行以前、義務教育はなく、学校に通えない児童も多かった。
ウミガメ・フーミが良い学校にこだわるのは、そのあたりにも根ざすのだが、英国国教会系の National School は、貧しい家庭の児童を対象とし、19世紀前半に各地でつくられた。
実はキャロルの父、Dodgson師はクロフト・ナショナル・スクールの創立に尽力した人物でもある。
そこでは、1家族あたりで授業料が定められ、子どもが 1人なら週 2ペンス、2人なら 3ペンス、3人なら 4ペンスを徴収した (《文教大学女子短期大学研究紀要》 39集(1995.12.)所収、笠井勝子「クロフト・ナショナル・スクール創立事情」を参照)。

何事にも保守的といわれるキャロルだが、父親の仕事についてはどう考えていたのか?
モートン・コーエンの『ルイス・キャロル伝』は偉大な父親との関係を緊張的なものだったと想像しているが…。
ウィリアム・エンプソン『牧歌の諸変奏』(1935.)には次のようにある。 「何を言うか考えている間、お辞儀しなさい」は、『鏡の国』 2章の赤の王妃のセリフだが、アリスが“喜んで”拝聴したかどうかは疑わしい。
作中人物のアリスが、なぜ学校へ通うかという問題は、『不思議の国』が対象とした読者層を見極めることにつながり、キャロルの執筆姿勢を解き明かす意味でも重要になってくると思われる。
読者の注意をうながす ゆえんだ。