そこで王妃さまはゲームをやめ、ふうと息をついて、アリスに言った。「ウミガメ・フーミには、もう会ったかい?」
「いいえ」とアリス。「ウミガメ・フーミって、どういうものかも、知りません」
「そいつから、海亀風味のスープをつくるんじゃ」
「見たことも、聞いたこともないです」
(Then the Queen left off,quite out of breath,and said to Alice “Have you seen the Mock Turtle yet?”
“No,”said Alice. “I don't even know what a Mock Turtle is.”
“It's the thing Mock Turtle Soup is made from,”said the Queen.
“I never saw one,or heard of one,”said Alice. )
the Mock Turtle は、mock turtle soup から逆成された生物。
mock turtle soup は、turtle soup(ウミガメのスープ)の mock (まがいもの、代用品)だが、キャロルは mock turtle の soup があると仮定したわけだ。
いかに これを訳すかだが、楠本君惠 『翻訳の国の「アリス」』 145-7頁でも指摘しているとおり、the Mock Turtle の邦訳ヴァリエーションは、仮名・漢字の組み合わせまで含めて考えると数限りなく存在しうる。
ウミガメモドキ(楠山正雄訳、高橋康也・迪訳、矢川澄子訳)、カメモドキ(芹生一訳、きったかゆみえ訳)
まがい海亀(岩崎民平訳)、亀まがい(福島正実訳)、まがい海がめ(立原えりか訳)
にせ海ガメ(田中俊夫訳)、ニセ海ガメ(生野幸吉訳)、似而海亀(高山宏訳)
いかさま海亀・いかさま亀(石川澄子訳)
……
少し変わったところでは八波直則の「代用ウミガメ」、蕗沢忠枝「にせスッポン」などもある(尾上政次訳注も「にせすっぽん」としており、蕗沢はこれを見ていたかも知れない)。
画期的だったのは柳瀬尚紀の訳「ウミガメ・フー」だ。
それまで「ニセウミガメ」や「ウミガメマガイ」など“種名”のように訳されて来た the Mock Turtle を、ヒトの名前のような固有名として訳した柳瀬尚紀の発想の転換こそ、評価されるべきものだろう。
この訳の具体的な利点は、「海亀風のスープをつくる」と書けば言葉として自然で、「ニセウミガメのスープをつくる」といった、本来ありえない日本語を回避できることだ(「ニセのウミガメ・スープ」や「ウミガメ・スープまがい」なら解しやすいが、このままでは the Mock Turtle を逆成できない*)。
宗方あゆむ、村山由佳、拙訳など、柳瀬訳の追随者が多いゆえんだ。
* あえて訳すなら「の」を用いず、「贋海亀スープをつくる」とするのがベストだろう。田中俊夫、高山宏の訳が、このパターン。
しかし、“ニセ〜”を冠するのは虫か植物が多いし、料理の名前に“ニセ”と付けるのも奇妙である。
楠本君惠教授が自身の翻訳で、“訳が定まら”ない the Mock Turtle を、そのまま「モックタートル」と名づけたのは、こうした煩雑さを避けつつ独創性を出したかったのだろう。
タートル・スープは、多くの場合 green turtle 「アオウミガメ」からつくられる珍味で、
岩崎民平によれば、“ロンドン市長の会などには吉例となって”いたという。
また、桂宥子『アリス紀行』によれば、“クライスト・チャーチの食堂でも、寮生であった英国皇太子の誕生日など、特別の機会にしか食すことはできなかった。”
英語版 Wikipedia 「Turtle soup」の項には、タフト大統領(在位 1909-1913年)は、この料理をつくらせるだけの目的で、ホワイトハウスにシェフを連れこんだとある。
こうした例からも解るとおり、非常に高級な食材だったため、18世紀中葉、安価なコピー食品として英国で考案されたのがモック・タートル・スープだ。
カメのスープのゼラチン質を仔牛などで代用するもので、その意味では人工フカヒレのスープに似ている。
ただ “まがいもの” とはいえ、レシピも一般に普及し、レストランで「モック・タートル・スープ」として堂々と供されるメニューだった (タートル・スープと銘打って客をだましていたというような説明を、まれに見るが、疑わしい。少なくとも、そうとうに普及した商品である)。
なお、タートル・スープを、スッポンのスープと解説した例も見うけるが、日本料理ではスッポンの鍋や吸い物が身近に感じられることから、スッポンのスープのようなものと説明していたのが誤って伝わったのではなかろうか。
海亀風味のスープは、たいてい仔牛の頭部を、調味料とソース、ワイン(シェリーかマデイラ)で煮込んだものであるため、
テニエルの挿画ではウミガメ・フーミを、胴と前足のヒレはウミガメ、頭と尻尾と後足のヒヅメが牛の合成獣として描いている。
偶然かも知れないが、米国では牛の頭の代わりに尾を用いることが多いらしい。
和田誠(旧角川文庫版)の挿画のようにウミガメ・フーミの顔を、牛でなく豚として描いたものもあるが、これは海外のイラストレイターにも同様の例が存在する。
必ずしも仔牛でなければつくれない料理でもないのだろうと思われるが、基本はあくまで牛である。
牛の頭を一体どうやって食べたのか、疑問に感じるが、これは煮込んだあと、スープからいったん取り出して細かく切るようだ。
Wikipedia所載の
レシピによれば、頭の毛を熱湯で むくように取り、ツノが柔らかくなるまで ゆでる。
その肉を、できるだけ赤身をのぞき、あなたの指のサイズにスライスせよ、とのこと。
ウミガメ・フーミが、終始、もの悲しい気分でいるのも無理はないと思える。
スープを濾して、カット肉と、好みに応じた野菜などを入れ、再加熱して、できあがり。
キャロルの没した1898年、H・G・ウエルズは『宇宙戦争』の単行本化に際し、海亀風味の缶入りスープを食べるシーンなどを含む「パトニー・ヒル」の章を書き加えた。
この章の記述は、全体にウエルズがキャロルへのオマージュとして、『不思議の国』のアイテムを、ひそかに盛り込んだのではないか、というのが筆者(大西小生)の見解なのだが、同様の説など ご存知の方は、ご教示いただければと思う。
『フィネガンズ・ウェイク』についてキャロル流の言語遊戯が論じられるジェイムズ・ジョイスも、『ユリシーズ』(1922.)第 8挿話(Lestrygonians)に mockturtle を登場させている。
テニエル以外のイラストも見たい方は、
John Rickman 氏のサイト『the mock turtle』へ。
(20人以上のイラストレイターによるウミガメ・フーミの絵が見られます。)