2016 永代静雄入門 (6)

本文中の黄色い字にはリンクが貼られています。 



 前に小谷野敦の論文批判を書いてから、丸1年になる。
 その中で、岡田美知代の処女問題については稿を改めて論じたい、と書いていたが、いっこうに書かないので、小生がこの問題から逃げたと思った人もいるかも知れない。
 書かなかったのは別に最近、新資料も出て来ないし、これから書くようなことは いつでも書けると思い、緊急性に迫られなかったからだが、実際、この問題に非常に詳しい人が読めば目新しい話は無いだろう。
 また、これも以前に書いたことだが現代ならば婚前交渉があったところで全然問題では無いので、今この話を論じることに、どれだけの意義があるかは疑問だ。
 それに、こういう話題は、のぞき見趣味にしかならないので、書いてる こっちの品性が疑われてしまう。
 しかし、正直なところ、多くの読者は この部分、気になるのではなかろうか?
 田山花袋の小説「蒲団」では横山芳子と田中秀夫の間に肉体関係があったことが発覚する。が、モデルである岡田美知代は、小説に書かれた時点で永代静雄とは肉体関係が無かったことを書いている。どっちが本当なんだ、と。
 ここで、この作品に関心の薄い一般の読者は思うかも知れない、そりゃ小説はフィクション前提なんだから、モデルの告発のほうが事実でしょ、と。
 実際には そう単純なもので無いことは数々の「蒲団」論を読んでみれば分かるが、花袋研究の第一人者だった故・小林一郎先生も、やはり故人の宮内俊介(としすけ)先生も、そこへ持って来て小谷野敦氏も、美知代のほうを疑っている(宮内先生は慎重だが。以下、敬称略)。 つまり、美知代は嘘をついている、という論のほうが、主流と言っていい。
 何故 そんなことになるのか? 果たして、それでいいのか? という点を、これから検証したい。
 岡田美知代が処女であったかどうかは今日の倫理観からすれば どうでもいい話だが、世間体のために嘘をついていたということなら作家としての美知代の人格の否定にもつながりかねない。
 美知代の言葉に もっと真摯に耳を傾けてみてもいいのではないか。
 だが、実は美知代が母親に永代との交情を認めたような書簡も存在するのである。
 そういう意味では、私も晩年の美知代の回想を完全に信じているわけでは無い。
 しかし、以下は議論を成り立たせる都合上、美知代を擁護する立場から話を展開するとしよう。

 まず、実話を元にした小説「蒲団」は、どの程度、事実そのままだったのか? という点を考えてみたい。
 もちろん、出来事を文章化した時点で必ず虚構が入り込む、というようなレヴェルで捉えれば、何だってフィクションの固まりなのだが、そういう話で無く、明らかに事実に反する内容が書かれているか? という設問である。
 美知代は「手記 花袋の「蒲団」と私」(《婦人朝日》昭和33年7月号)に次のように書く。

     何処も彼処、全部が全部、みんなよくもまあと、呆れ返へる程、違って居るけれど、何よりも彼よりも、一番腹立たしく、不平で赧(か)っとして、大事な大事な誇すら忘れて取り乱し、其処いら中(じゆう)引っかき廻したい思ひに泣いたのは、芳子の恋人田中秀夫に於ける、竹中時雄氏の描写です。
 田中秀夫の描写については今までも書いて来たので取り上げないことにするが、当事者からすれば、こういうものだろう。
 しかし、研究史的には「蒲団」は意外なほどに、事実に即した小説であることが分かっている。
 例えば、新橋駅から芳子(美知代)が故郷に帰される場面、「蒲団」の主人公である時雄(花袋)は秀夫(永代)がその場にいたことを知らなかったが、芳子の父親は気づいていた、という箇所。 これは時雄の視点では無いから、一見フィクションのようだが、実は美知代の父・岡田胖十郎(はんじゅうろう)が花袋に送った書簡の内容を取り込んだもので、事実に則っている。
 また、時雄が芳子の用いていた蒲団に顔を押しつけて匂いを嗅ぐラスト・シーンについて、平野謙は『芸術と実生活』で “良家の子女が寝具類をとり片づけもせず帰国するなどとは、常識では考えられない”から、絵空ごとだと論じた。 しかし、美知代の母の書簡に“蒲団つくえ本箱ハ御厄介さまながら御預り置被下度”とあることから花袋宅に蒲団のあったことは証明されている(宇田川昭子「岡田美那の花袋宛書簡 ―蒲団の行方―」、《田山花袋記念文学館研究紀要》17号、平成16年)。
 ふつうに読んで くみ取れる以上に、虚構が少ないのである。
 ところが、小説中、芳子と秀夫の肉体関係が発覚する部分は、明らかにフィクションだ。
 このあたりは拙著 『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』(平成19年)に書いた内容にあまり付け加えることはないのだが、簡単に述べておこう。
 「蒲団」では時雄が、身の潔白を証明するために“手簡”を見せよと迫ると、芳子は顔を赤くして、みんな焼いてしまったと言い逃れる。
 この様子から時雄は“事実”を知った、というのだが、後年、美知代は“少し部厚な私あての手紙が来るたんび、一々見せろと迫って点検済みではなかったか。”と反論している(「花袋の「蒲団」と私」)。  実際、美知代宛の手紙は多くが田山家に保存され、現在、田山花袋記念文学館に収蔵されているのだから、美知代の発言は信じられる。
 小説の中で決定的なのは、芳子が時雄へ“先生/私は堕落女学生です。”という文で始まる手紙を渡したことであるが、これも美知代は否定している。
 「堕落」した学生というのはその頃、一種の流行語だった。 美知代の父は娘を心配し、明治38年の毎日新聞に連載されていた「女学生堕落物語」の切り抜きを花袋に送りつけていた(渡邉正彦「田山花袋「蒲団」と「女学生堕落物語」」、《群馬県立女子大学 国文学研究》、平成4年)。 後述するように、美知代も自身に“堕落”という言葉を用いたことはあるのだが、「蒲団」の手紙は花袋の創作で、小説に分かりやすい落ちをつけたものと捉えられる。
 つまり、小説内部には美知代が処女を失っていたことの証拠は無いのである。
 では何故、花袋はフィクションを用いたのか? しかも読者の反応を考えれば、最も真実性が求められる部分で。
 構成上の必要からだったとは察せられる。というのも、花袋から美知代の両親に宛てた書簡を読めば、花袋は長く永代と美知代を清い関係と信じており、明治40年(「蒲団」を書いた年)に至って初めて肉体関係があったと確信したようなのである。 美知代を郷里へ帰したのは明治39年 1月20日なのだが、小説では肉体関係が発覚したから郷里へ返したとしたほうが、まとまりがいい。
 その書簡というのは《中央公論》昭和14年6月号で読むことが出来る(「花袋「蒲団」のモデルを繞る手簡」)。
 明治38年11月23日付の書簡では花袋は“肉慾的関係なく、二人の間は操持固しとの小生の誓言を何故に御疑ひなさるにや”と父親を詰問している。怒りを含んだ書きぶりであり、それだけに花袋の本心が顕れていると思える。他の書簡でも、諄々と説く調子で同様のことを繰り返し主張しているので、花袋が 2人を信じていたのは確かだろう。
 ところが明治40年春のものと推定される書簡では“既に霊肉共に其人に許し候上は、両人をして其行くべき方に行かしむること至当にして”と母親を説いている。
 花袋記念文学館に残された書簡でも、明治40年、両親宛に“処女の節操を破れる永代の悪行為は、肉を啖ひても猶足んずと存居候、”と激しく永代を非難している(『『蒲団』をめぐる書簡集』(平成5年)所収 No.D@-1書簡)。これが何月に出されたものかは不明だが、花袋が 2人の関係を確信したのはいつからか、詳しい詮索は最後に回す。
 話を先走り過ぎた感があるので、永代と美知代の恋愛は、当初どういう経緯をたどったのか、それを見て行くことにしよう。

 美知代は明治38年5月2日から9月14日まで、東京を離れ、郷里・広島の上下町や神戸で過ごした。
 永代との恋愛は、この間に起こったのだ。時系列的に整理してみよう。
 まず最初に永代が美知代にハガキを送った。このハガキについては明治37年説もあるが、38年5月13日のものであることは 「神戸教会、永代と美知代」の頁を参照してもらいたい。
 これ以前、神戸教会時代に永代と美知代はお互いの顔を知っていたが、言葉を交わしたことは無かったようだ。
 美知代は掌編小説「その月その日」(《文庫》明治40年6月15日)に最初のハガキをもらった時の気持ちを書いていて、回想して、

    秀才として誉高い信夫様/友達(みなさま)のお噂すに別に教へられるとも無うそれと知つて、教会の集会(あつまり)に陰ながらの御目もじも二年越し、其後学科の都合で〔美知代は〕東京に転じましたが、諸文学雑誌に御名見出す度毎、云ひ知らぬ懐しさに殊更幾度となう繰返へし、果ては帽子眉深にステツキを斯う、始終何かしら考へて、人は人 俺は俺と云つたやうな御様子にお歩きなすつた、其様なお癖迄思ひ出して、今頃はお好きなりし たゞすの森に……と夕暮を偲んでも見ました。
…と、永代に密かに憧れていたことを書いている。同志社時代の永代が下鴨神社の糺の森を好きだというのは、永代のハガキからうかがい知った事柄である。
 この小説には“信夫”が文科で無く神学部を選んだので驚いたとも書かれている。それを聞いた母親の反応なども書かれていて、フィクションとは思えないリアルさだが、実際には同志社を出奔するまで永代は神学校で無く普通校の学生だったことは「ウィキペディアの永代静雄」などの頁で書いたとおりだ。たぶん永代は美知代に神学部へ行くとの決心を書簡で述べたことがあるのだろう。
 2人は頻繁に書簡を取り交わすが、永代は京都に、美知代は広島にいるので、顔を合わせたり言葉を交わしたわけではない。
 「その月その日」にも少し書かれているが、永代は美知代を神戸で開かれたYMCAの夏期学校に誘う。この夏期学校は、資料により“六甲山で催された”とか“摩耶山〔まやさん〕の基督教の夏季大会”とか、色々に書かれて混乱を生んでいたが、拙著(『「アリス物語」「黒姫物語」…』)で明らかにした通り、 六甲山系の摩耶山の麓、関西学院 原田の森キャンパスを主会場に明治38年 7月20日から26日まで開かれたものである。
 YMCA(基督教青年会)は明治36年に全国組織を結成したばかりで、当時の青年にとっては清新な意味を持っていた。集会の来校者は毎日、300名ほどの大規模なもので、永代が美知代を招いたことを誘惑と見るには無理がある。
 美知代は後年、“同じ教会の会員で、顔は見知っていましたが、正式に友人となったのはこの夏期大学で、如何にも恋のきっかけになったか知らないが、お互にまだ自覚はなかった。”と書いている(「私は「蒲団」のモデルだった」、《みどり》昭和33年10月号)。
 この手記では夏期学校を“関西学院の真上の、摩耶山で開催された”とも語っているが、これは美知代が大会の全てに出席したのでは無く、7月24日に摩耶山で催された運動会および文学会にのみ参加したことを示しているだろう。
 美知代の未発表小説「云ひ得ぬ秘密」(昭和34年執筆。公表されたのは平成8年)にも、
    帰りの嶮しい坂道で、転びさうになつた幾度、その津度やさしく差しのべられた救ひの手を、殊更ら いなみ通したのは、N青年とて同じであつた。而も独りその人〔永代〕だけに、無礼を詫びた
…と、やはり山に登ったように書いている。N青年とは永代と美知代の共通の友人、中山三郎と捉えられる。小説とはいえ実景と思われるが、この時は永代との仲も、まだ他人行儀だった。
 「その月その日」によれば永代と美知代は、その翌日にも会っていたようだ。
     七月二十五日
     夕暮信夫様と二人摩耶の麓に行き、くれゆく日影の栄うすい西の海を眺めて、浸々と語り、思はずも涙にむせぶ。
     あゝ何と云ふ悲しい‥‥彼の美しい白百合の絵葉書一葉、それが妾の運命を支配しやうとは夢にも知りませんでした。
 これが、この詩化された掌篇の結びの部分である。良い雰囲気になって、キスのひとつもしたかと想像したくなるが、その可能性は低い。
 晩年の美知代に英語などを習った原博巳は、こんなことを回想している(「岡田美知代の素顔 ――田山花袋「蒲団」のモデル」、《梶葉》Y号、平成10年)。
     美知代は、めったに魚を口にしなかった。特に煮魚は嫌いで、中でもヌルヌルした鰻や穴子、ドジョウといった類いは見るのも嫌だと言っていた。
    「わたしゃあね、昔っからキッスと鰻は大嫌いなのよ」と言うのが口癖だった。
     若いとき、永代静雄氏から手の甲に口づけされて、手の甲が赤くなるほど、ハンカチで拭いたと言われたことがあった。
 偏食は若い頃からだったようだが、美知代はもともと性的な接触に拒否反応が強いのではないかと思わせるエピソードである。
 夏期大学のあと、美知代は広島へ帰った。8月13日付の永代の美知代宛書簡の宛先が上下町なので、遅くとも この時までには帰っている(『『蒲団』をめぐる書簡集』No.C-5書簡。以下『書簡集』とする。原田牧師の富士登山について書かれていることから、これは明治38年のものと確定できる)。
 帰るまでに少し日にちがあり、この間、永代は神戸教会にいたが、美知代は美知代で灘の酒造家の長男と縁談があり、相手方の両親と母の美那と同居して花嫁候補の試験のようなものを受けていたと言うから、永代と頻繁に会うようなことは無かったと考えられる(和田芳恵「『蒲団』の芳子」、《婦人朝日》昭和32年12月、など)。
 そして 1ヵ月後、広島から美知代が上京する段になって、事件が起こるのだ。つまり、永代と同泊してしまうのである。
 旅程は必ずしも明らかでないが、中山三郎の手記によると、以下のようなものだったらしい(中山蕗峰「花袋氏の作『蒲団』に現はれたる事実」、《新声》明治40年10月)。
    秋になって芳子が上京の途、これも帰校の途に上つた秀夫と相携へて、嵯峨野に秋の新涼を探り、丹波に早き虫の音を偲び、石山の月を楽しき湖上の舟に愛でゝ、思はぬ興に恋の甘き香を嗅いだのが、抑も『今回の事件』の破裂の原因(もと)となつたので、芳子が着京の時日の狂ひから、遂に事が発れて了つたのである。
 「云ひ得ぬ秘密」では、上京途中に永代と会ったのは偶然だとする。
     先づ三の宮での不思議なめぐりあひ。其処にはN青年が居て、その夜同志社に帰る永代と一緒に行く筈でした。ところがその約束に怖ろしく遅れて、やつと駆けつけた永代を迎へ、私も一緒に話して居るうち、急に思ひ立つて、早暁京都通過米原行きの鈍行に乗り、商用の為め京都で下車したNと別れた私達二人は、 大津から膳所〔ぜぜ〕に向ひ、食事を共にし、夜九時通過の急行を捕へるため、見送つた永代と大津の駅で別れて帰京した。
 この小説の最初のほうに、N青年が別れる際に 2人に示した計画が書かれている。
    先づ真先に三井寺に行くべし、瀬多の長橋から竹生島(ちくぶしま)を望む、素晴らしい湖水の風景を満喫しながら、膳所に向ふ、その順序でね
 瀬田の長橋は石山のすぐ側で、小説では旅程の前半が略されていると考えられる。
 9月13日付で永代が膳所から出したハガキが残っていて(『書簡集』No.C-6)、ここで 2人が過ごしたことは確実である。が、ハガキの内容は“われも迷ひをときすてゝ一念専念に大菩提の月影仰ぎ候ぞかし。”というような美文で、もし美知代とセックスしながら こんなものを書いたとすればギャグでしか無い。が、不確かな推測はやめて置こう。
 そもそも小説「云ひ得ぬ秘密」では 2人は 1泊もしてないことになっているのだが、これは考えにくい。
 花袋は同月17日付の書簡で美知代に“貴嬢は十日の夕刻に神戸を立ちしよし、貴嬢の東京着は十四日夜、其間は如何になし給ひしや、”と問いただしている(『書簡集』No.A-27)。 この手紙については私(大西小生)が花袋記念文学館を訪ねて、原文を確認した(十日の“十”の下に消した跡があるのが気にかかるが、ふつうには、こうとしか読めない)。この当時、神戸から新橋までの所要時間は急行で15時間といったところである。
 だが、それにしては奇妙なのは花袋が最初 2人を信じていたことで、男と 3泊もしていれば肉体関係が無かったと考えるほうが難しい。
 その謎を解くカギは「蒲団」にある。
 「蒲団」の四章に、芳子から時雄への手紙が載っているが、それには こうある。
    万一の時にはあの時嵯峨に一緒に参つた友人を証人にして、二人の間が決して汚(けが)れた関係の無いことを弁明し、別れて後 互に感じた二人の恋愛をも打明けて、
 この手紙の内容は小説の後半で言わば打ち消されるので注目されて来なかったのかも知れないが、一緒に旅行した友人がいる、と美知代が花袋に弁明したのは、おそらく事実だろう。 旅程の前半は 2人切りのデートでは無かった、と考えると話は違って来る。
 ふつうに考えれば、2人と行動を共にしたのは京都で別れたという中山三郎だろう。この場合、何故、美知代も中山も、そう書かなかったのか、という新たな疑問が生じて来るが、自身の弁明のための小説である「云ひ得ぬ秘密」や美知代の手記では、中山に迷惑を掛けそうな余計な記述は省いたとしても不思議は無い(中山は昭和33年12月没)。
 親戚と思われる岡田文子は京都の伏見町に住んでおり、この間、美知代が男達と同泊したかは不明だと言いたいが、これは根拠が薄弱である。 旅行の後半は 2人切りに違いないので、決定的な反証にはならないわけだが、花袋に対し多少の抗弁があったとは考えられる。
 だからこそ、花袋は「蒲団」では“遊んだ二日の日数が出発と着京との時日に符合せぬ”(三章)と、日数を減じたのではないか?
 美知代自身は「私は「蒲団」のモデルだった」で、
    郷里を発(た)って神戸の兄の宅に一泊、旅程の違いは二日に非らず、一日です。その間一緒にいた永代はまだ、単なる友人でした。但し琵琶湖畔の駅で別れた直前、口にこそ語らね、確かに恋を自覚したその告白も了解されました。
…と語るが、前半の旅程が長ければ嘘とも言い切れない。ただ手記の この部分に酒造家との縁談が“その後”のことのように書いているのは伝記的に見て、記憶違いかと思う。また“嵯峨の月も見ていません。”と書いているのも気になるところだ。続いて次のように主張する。
    若い男女が恋をして、急転直下実際問題に堕し得るかどうか、少くとも私達明治っ児には出来ません。良家に育って当時最高の教育を受け、自ら以て新らしき女の尖端を切ろう事を任ずる者、神を信ずる私達二人の上をどう御覧になるか。
 美知代の文体は読者を納得させるというより、むしろ反感を買いがちなものなので、損をしているとも思うが、琵琶湖畔での旅行の前に永代とは夏期学校でしか会っていないことを知っていれば、“急転直下実際問題に堕し得”ないという弁明には信憑性がある。 遊び人の男女ならともかく、童貞と処女と思われる 2人である。“神を信ずる”と持ち出したのは、この手記が、かつて牧師を目指していた田中純に向けて書かれたものだったからだが、明治末のキリスト教は盛んに公娼反対や矯風を唱え、若い男女の支持を得ていたことも考え合わせる必要がある。
 美知代が関係をハッキリ否定したのは、この手記が最初だった。田中純が永代との肉体関係を強調して書いた文章に腹が据えかねて投稿したもので、それ以前に「蒲団」の虚実を追求する岩永胖(ゆたか)教授と接してなければ花袋を批判することも無かったろうし、昭和32年 1月に永代のあとの結婚相手である花田小太郎が死去していたので無ければ、あえて話を蒸し返すこともしなかったろう(花田の死は資料によれば11月だが、墓碑銘によれば 1月)。
 ハッキリ否定したのは初めて、と書いたが、比較的初期の手記「『蒲団』、『縁』及び私」(《新潮》大正4年9月1日)においては、こう書いている。
    その作に依つて変に誤解されて行く恋人の身の上と云つた風な事に考へ及ぶ訳もなく、まして自分自身の名誉だとか、運命だとかゞ、如何(どう)毀損され、如何影響されようとも、一向平気なものでした。と云ふよりも、如何なつても好い位に思つて居りました。
 「蒲団」は全体に美知代を美化しているので、自身の名誉毀損に当たるのは処女問題くらいしか無い。
 多くの文章において美知代には、セックスを口にするのも汚らわしいと言いそうな口吻が見られる。今日的に見て どうかとは思うが、それが美知代の矜持の有りようなのだ。 女性の側からセックスについて話題にすることのタブーもあると拙著に書いたら、小谷野敦はメールで妙に突っかかって来たが、そういうタブーが無いと考えるほうが強弁だろう。
 「私は「蒲団」のモデルだった」のあとに書かれた小説「云ひ得ぬ秘密」でも、後半、「蒲団」を批評した部分で美知代は次のように書く。
     でも私は芳子のモデルとして、絶対にこれを否定する、生ひ立ちも同じ、神戸女学院から津田塾と、終始一貫誇高く、新しき女の道を進んだ者が、如何に将来を約した恋人だとて、新婚旅行(ホネイムーン)でないのは知つて居た筈。 月に湖水に、萩に虫の音に、誘惑の七つ道具を揃へて、どんなにいかに旅情をそゝるとも、一泊二泊同宿して如何あるものぞ、私は断じて信じない。
 “一泊二泊”は比喩表現とも取れるが、実際に同宿しても何も無かったという主張だろう。
 ちなみに小説のタイトル「云ひ得ぬ秘密」とは、帰りの急行に乗り込む時、人力車が 1台しか無かったために永代と相乗りしたことを花袋には恥ずかしくて言えなかった、という意味なのだが、「相乗車」が嫌らしいものと見られていたという当時の風俗を知らなければ全く意味が分からない。 小説をそのまま事実と見るわけにもいかないが、その程度のことでも恥ずかしく感じる純情な 2人だったというのは、事実の一端を示しているだろう。
 美知代に取材した和田芳恵は「『蒲団』の芳子」で次のように、まとめている。
    永代は琵琶湖の畔りの石山寺をいっしょに見ませんかと美知代を誘いました。石山寺に、紫式部が籠って「源氏物語」を書いたことを思いだし、美知代は同意しました。
     ふたりは、そのあたりの景勝をさぐりながら、食事をいっしょに食べたり、泊ったりしたため帰京も遅れたのですが、永代と別れることになって美知代が聞くと、同志社の学生とのことでした。ラブではなかったと美知代さんが私に言い、
    「もし、ラブの気持が生じたとすれば、それは上京してから、思いをこめた彼氏の手紙が届いてからのことです」と申しました。
     〔中略〕
     美知代はそれまで生活の苦労をしらなかったから、ただ、苦学生の永代といっしょになろうとしたのですが、これは、花袋が決して永代静雄を認めようとしないことに対しての反感があったわけです。
 和田の臆断や時期の取り違えが混じっているのではないかと思えるのは、永代が同志社の学生であることくらい美知代は最初から知っていたからだが、手紙のやり取りで“ラブ”が生じたというのは、これはこれで事実の一側面を語ったものと思われる。
 引用の最後の部分は年譜に当てはめれば明治40年頃の話で、当初は花袋も書簡で永代をそれなりの人物と認めていた。
 また少し先走ってしまったが、以上のような話から、私が“経緯を整理してみた限りでは、美知代の弁明には信憑性があると思える。”と書いたことには、それだけの理由があると分かってもらえただろう。

 だが、1次資料である書簡に目を通すと、美知代に不利な証拠も色々とあるのである。
 まず、38年9月18日付のハガキで、永代が“わが罪、万死に当るを悟り申候。”という言葉を用いていること(『書簡集』No.C-7)。これを、小林一郎は“既に永代とミチヨが深い恋愛関係にあることが歴然としている。”と、「情事」があったという見方を取る。 しかし、良家の子女を誘って旅行、同泊しただけでも、当時の常識としては充分“万死”に値したのではないか。関係が出来ていたなら、今さら“悟り申候。”も無いものだ。 永代が属した環境は「神学生問題と岸田美郎」の頁の後段で見たとおり、保護者の無い若い男女の同伴など、もってのほかという雰囲気だった。
 同月20日付の美知代の花袋宛のハガキ(No.B-19。明治38年のものかは厳密には不明)でも“我が罪の正しく死に価するを覚え申候。”という言葉が用いられており、花袋は肉体関係を早くから知っていたが、「蒲団」では この時点でまだ 2人を信じているように、わざと書いたのだ、と小林は見る。 しかし、花袋が まだ 2人を信じていたことは最初のほうで掲げた美知代の両親に宛てた書簡に明らかであり、当時の感覚として花袋も“我が罪”という言葉に肉体関係までは読み取っていなかったことが分かる。 だいたい、かつてのキリスト教の信者は、ささいなことでも「罪」として懺悔したものだ。永代のセリフに釣られたということでもあるし、まして両親や恩師に責められては、“死に価する”と表現しても全く不自然では無い。
 ともあれ花袋は 2人の弁明を、いったんは信じることにしたのである。
 それが崩れるのは美知代が広島に戻って 1年後の明治40年春のことだった。
 その年4月30日付の美知代宛書簡に、花袋は激した調子で“死生の際に瀕しても君等二人の霊肉の交は捨てぬとの”覚悟があるかと問い、永代を“処女の節操を破りたること”から信用できないと責めている(『書簡集』No.A-34)。
 ふつうに考えれば、この前に美知代が送った書簡に永代と結婚する決心だといった内容が書かれ、2人の交情が告白されていたのだろう。
 4月29日に書かれた美知代の手紙(『書簡集』No.B-37)は残っていて、美知代の決心は綴られているが、広島から花袋の許へ 1日で書簡が届いたとは考えにくい。この前にもう 1通、書簡があるはずだ。  29日の書簡には“一度彼様した関係から今もかく切実に思ひ思ふ恋人”との表現があるが、永代とのセックスを認めた内容とまでは言えない。ただ、小栗風葉のベストセラーを例に引いて“『青春』の二人とならぬ迄もそれに似た感じにつまらなく了る事ハないでせうか、”と書くのは意味深にも取れる。堕胎を描いた小説である。
 さて、1通前の消えた書簡は存在するのか? 新たに書簡が発見される可能性は低い。だが、まるで証拠を後世に残すためであるかのように大事に書簡を保存していた花袋が、決定的な証拠のみ隠滅したとは考えにくい。
 ここへ美知代から母へ宛て、永代との結婚を願った書簡がある(『書簡集』No.DA-8)。消印などは無く、直接手渡したものと考えられるが、文言から見て上の書簡と同時期に書かれたことは確実だ。

    仰有る通り私共は堕落でせう、け共一度彼様した関係で斯様なつた以上、私共は永久に結ばれたので、離れては尚更堕落かと信じます、永代もあの儘で行けば立派に学校生活も続けられたのですが、ふと私と知り合つて彼様した関係を生じた為め、今日の苦痛も味ひますので、申さば私のせいです、
 後段の“彼様した関係”の使い方を見れば必ずしも肉体関係を認めたものとは言えないかも知れないが、この書簡をもって決定的証拠と考える人は多いだろう。 というより、母の美那はそういう意味に受け取ったに違いないし、この手紙を花袋に送りつけた可能性も高い。だから田山家に残っていたわけだ。
 おそらく消えた書簡は、これではないか。だが、何故か小林一郎も小谷野敦も、書簡のこの部分を特に取り上げて論じてはいない。
 私としては、永代との同棲を決心していた美知代にとって関係を否定しないほうが初志を貫徹しやすかったのではないか、という面を指摘したい。
 また、両親は永代との間が潔白だとは最初から信じておらず、花袋に「女学生堕落物語」の切り抜きを送りつけていたくらいだから、美知代自身へも「堕落」したのではないかと始終、責めていたはずだ。 実際、男と旅行するだけでも、世間的には充分、疑われる理由になる。美知代は否定することに疲れ、冤罪事件の被害者のように「堕落」を自白してしまったのではないか?
 この頃、永代は「神学生問題と岸田美郎」の頁で書いたように、早稲田も辞め、群馬を放浪して、花袋を呆れさせていた。 一方で美知代は逆に、私がそばにいて支えてあげなくてはという気持ちを高ぶらせ、同棲する決意を母に告げることになったのである。
 もともと内心では疑念を抱いていた花袋は、すぐに手のひらを返して 2人の不実を信じ、永代を激しく攻撃するようになる。「蒲団」は、その怒りの延長上に書かれたものだ。
 1度、こうした関係を認めてしまった美知代が、晩年に至るまでハッキリした抗弁をしなかったのは当然とも言える。
 また、どうせそういう関係と思われているのならと、明治41年に再上京した美知代が、すぐに妊娠して永代と出奔してしまうのは無理も無いと思えるのである。
 こうした話を私の我田引水と思う人もあろう。そこは読者の判断にゆだねたい。
 しかし、花袋が美知代を恋していたと書いているのに、その恋愛感情を疑う説が横行していることを思えば、美知代が実は処女だった、という意見があったって当然だろう。
 これを読んで、美知代が嘘をついているとますます確信したという人もいるだろうし、いたっていいとは思うが、何か語るなら、とりあえず美知代の手記と膨大な書簡類くらいは読んで置いて欲しいと思うのだ。    〔2016年 1月 1日〕

  参考資料 宮内俊介「〈資料翻刻〉「云ひ得ぬ秘密」」、《田山花袋記念館研究紀要》10号、平成10年

  〔→ Home に 戻る〕 〔→ 永代静雄入門/研究余禄 index へ〕