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前に小谷野敦の論文批判を書いてから、丸1年になる。 その中で、岡田美知代の処女問題については稿を改めて論じたい、と書いていたが、いっこうに書かないので、小生がこの問題から逃げたと思った人もいるかも知れない。 書かなかったのは別に最近、新資料も出て来ないし、これから書くようなことは いつでも書けると思い、緊急性に迫られなかったからだが、実際、この問題に非常に詳しい人が読めば目新しい話は無いだろう。 また、これも以前に書いたことだが現代ならば婚前交渉があったところで全然問題では無いので、今この話を論じることに、どれだけの意義があるかは疑問だ。 それに、こういう話題は、のぞき見趣味にしかならないので、書いてる こっちの品性が疑われてしまう。 しかし、正直なところ、多くの読者は この部分、気になるのではなかろうか? 田山花袋の小説「蒲団」では横山芳子と田中秀夫の間に肉体関係があったことが発覚する。が、モデルである岡田美知代は、小説に書かれた時点で永代静雄とは肉体関係が無かったことを書いている。どっちが本当なんだ、と。 ここで、この作品に関心の薄い一般の読者は思うかも知れない、そりゃ小説はフィクション前提なんだから、モデルの告発のほうが事実でしょ、と。 実際には そう単純なもので無いことは数々の「蒲団」論を読んでみれば分かるが、花袋研究の第一人者だった故・小林一郎先生も、やはり故人の宮内俊介(としすけ)先生も、そこへ持って来て小谷野敦氏も、美知代のほうを疑っている(宮内先生は慎重だが。以下、敬称略)。 つまり、美知代は嘘をついている、という論のほうが、主流と言っていい。 何故 そんなことになるのか? 果たして、それでいいのか? という点を、これから検証したい。 岡田美知代が処女であったかどうかは今日の倫理観からすれば どうでもいい話だが、世間体のために嘘をついていたということなら作家としての美知代の人格の否定にもつながりかねない。 美知代の言葉に もっと真摯に耳を傾けてみてもいいのではないか。 だが、実は美知代が母親に永代との交情を認めたような書簡も存在するのである。 そういう意味では、私も晩年の美知代の回想を完全に信じているわけでは無い。 しかし、以下は議論を成り立たせる都合上、美知代を擁護する立場から話を展開するとしよう。 まず、実話を元にした小説「蒲団」は、どの程度、事実そのままだったのか? という点を考えてみたい。
しかし、研究史的には「蒲団」は意外なほどに、事実に即した小説であることが分かっている。 例えば、新橋駅から芳子(美知代)が故郷に帰される場面、「蒲団」の主人公である時雄(花袋)は秀夫(永代)がその場にいたことを知らなかったが、芳子の父親は気づいていた、という箇所。 これは時雄の視点では無いから、一見フィクションのようだが、実は美知代の父・岡田胖十郎(はんじゅうろう)が花袋に送った書簡の内容を取り込んだもので、事実に則っている。 また、時雄が芳子の用いていた蒲団に顔を押しつけて匂いを嗅ぐラスト・シーンについて、平野謙は『芸術と実生活』で “良家の子女が寝具類をとり片づけもせず帰国するなどとは、常識では考えられない”から、絵空ごとだと論じた。 しかし、美知代の母の書簡に“蒲団つくえ本箱ハ御厄介さまながら御預り置被下度”とあることから花袋宅に蒲団のあったことは証明されている(宇田川昭子「岡田美那の花袋宛書簡 ―蒲団の行方―」、《田山花袋記念文学館研究紀要》17号、平成16年)。 ふつうに読んで くみ取れる以上に、虚構が少ないのである。 ところが、小説中、芳子と秀夫の肉体関係が発覚する部分は、明らかにフィクションだ。 このあたりは拙著 『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』(平成19年)に書いた内容にあまり付け加えることはないのだが、簡単に述べておこう。 「蒲団」では時雄が、身の潔白を証明するために“手簡”を見せよと迫ると、芳子は顔を赤くして、みんな焼いてしまったと言い逃れる。 この様子から時雄は“事実”を知った、というのだが、後年、美知代は“少し部厚な私あての手紙が来るたんび、一々見せろと迫って点検済みではなかったか。”と反論している(「花袋の「蒲団」と私」)。 実際、美知代宛の手紙は多くが田山家に保存され、現在、田山花袋記念文学館に収蔵されているのだから、美知代の発言は信じられる。 小説の中で決定的なのは、芳子が時雄へ“先生/私は堕落女学生です。”という文で始まる手紙を渡したことであるが、これも美知代は否定している。 「堕落」した学生というのはその頃、一種の流行語だった。 美知代の父は娘を心配し、明治38年の毎日新聞に連載されていた「女学生堕落物語」の切り抜きを花袋に送りつけていた(渡邉正彦「田山花袋「蒲団」と「女学生堕落物語」」、《群馬県立女子大学 国文学研究》、平成4年)。 後述するように、美知代も自身に“堕落”という言葉を用いたことはあるのだが、「蒲団」の手紙は花袋の創作で、小説に分かりやすい落ちをつけたものと捉えられる。 つまり、小説内部には美知代が処女を失っていたことの証拠は無いのである。 では何故、花袋はフィクションを用いたのか? しかも読者の反応を考えれば、最も真実性が求められる部分で。 構成上の必要からだったとは察せられる。というのも、花袋から美知代の両親に宛てた書簡を読めば、花袋は長く永代と美知代を清い関係と信じており、明治40年(「蒲団」を書いた年)に至って初めて肉体関係があったと確信したようなのである。 美知代を郷里へ帰したのは明治39年 1月20日なのだが、小説では肉体関係が発覚したから郷里へ返したとしたほうが、まとまりがいい。 その書簡というのは《中央公論》昭和14年6月号で読むことが出来る(「花袋「蒲団」のモデルを繞る手簡」)。 明治38年11月23日付の書簡では花袋は“肉慾的関係なく、二人の間は操持固しとの小生の誓言を何故に御疑ひなさるにや”と父親を詰問している。怒りを含んだ書きぶりであり、それだけに花袋の本心が顕れていると思える。他の書簡でも、諄々と説く調子で同様のことを繰り返し主張しているので、花袋が 2人を信じていたのは確かだろう。 ところが明治40年春のものと推定される書簡では“既に霊肉共に其人に許し候上は、両人をして其行くべき方に行かしむること至当にして”と母親を説いている。 花袋記念文学館に残された書簡でも、明治40年、両親宛に“処女の節操を破れる永代の悪行為は、肉を啖ひても猶足んずと存居候、”と激しく永代を非難している(『『蒲団』をめぐる書簡集』(平成5年)所収 No.D@-1書簡)。これが何月に出されたものかは不明だが、花袋が 2人の関係を確信したのはいつからか、詳しい詮索は最後に回す。 話を先走り過ぎた感があるので、永代と美知代の恋愛は、当初どういう経緯をたどったのか、それを見て行くことにしよう。 美知代は明治38年5月2日から9月14日まで、東京を離れ、郷里・広島の上下町や神戸で過ごした。
この小説には“信夫”が文科で無く神学部を選んだので驚いたとも書かれている。それを聞いた母親の反応なども書かれていて、フィクションとは思えないリアルさだが、実際には同志社を出奔するまで永代は神学校で無く普通校の学生だったことは「ウィキペディアの永代静雄」などの頁で書いたとおりだ。たぶん永代は美知代に神学部へ行くとの決心を書簡で述べたことがあるのだろう。 2人は頻繁に書簡を取り交わすが、永代は京都に、美知代は広島にいるので、顔を合わせたり言葉を交わしたわけではない。 「その月その日」にも少し書かれているが、永代は美知代を神戸で開かれたYMCAの夏期学校に誘う。この夏期学校は、資料により“六甲山で催された”とか“摩耶山〔まやさん〕の基督教の夏季大会”とか、色々に書かれて混乱を生んでいたが、拙著(『「アリス物語」「黒姫物語」…』)で明らかにした通り、 六甲山系の摩耶山の麓、関西学院 原田の森キャンパスを主会場に明治38年 7月20日から26日まで開かれたものである。 YMCA(基督教青年会)は明治36年に全国組織を結成したばかりで、当時の青年にとっては清新な意味を持っていた。集会の来校者は毎日、300名ほどの大規模なもので、永代が美知代を招いたことを誘惑と見るには無理がある。 美知代は後年、“同じ教会の会員で、顔は見知っていましたが、正式に友人となったのはこの夏期大学で、如何にも恋のきっかけになったか知らないが、お互にまだ自覚はなかった。”と書いている(「私は「蒲団」のモデルだった」、《みどり》昭和33年10月号)。 この手記では夏期学校を“関西学院の真上の、摩耶山で開催された”とも語っているが、これは美知代が大会の全てに出席したのでは無く、7月24日に摩耶山で催された運動会および文学会にのみ参加したことを示しているだろう。 美知代の未発表小説「云ひ得ぬ秘密」(昭和34年執筆。公表されたのは平成8年)にも、
「その月その日」によれば永代と美知代は、その翌日にも会っていたようだ。
夕暮信夫様と二人摩耶の麓に行き、くれゆく日影の栄うすい西の海を眺めて、浸々と語り、思はずも涙にむせぶ。 あゝ何と云ふ悲しい‥‥彼の美しい白百合の絵葉書一葉、それが妾の運命を支配しやうとは夢にも知りませんでした。 晩年の美知代に英語などを習った原博巳は、こんなことを回想している(「岡田美知代の素顔 ――田山花袋「蒲団」のモデル」、《梶葉》Y号、平成10年)。
「わたしゃあね、昔っからキッスと鰻は大嫌いなのよ」と言うのが口癖だった。 若いとき、永代静雄氏から手の甲に口づけされて、手の甲が赤くなるほど、ハンカチで拭いたと言われたことがあった。 夏期大学のあと、美知代は広島へ帰った。8月13日付の永代の美知代宛書簡の宛先が上下町なので、遅くとも この時までには帰っている(『『蒲団』をめぐる書簡集』No.C-5書簡。以下『書簡集』とする。原田牧師の富士登山について書かれていることから、これは明治38年のものと確定できる)。 帰るまでに少し日にちがあり、この間、永代は神戸教会にいたが、美知代は美知代で灘の酒造家の長男と縁談があり、相手方の両親と母の美那と同居して花嫁候補の試験のようなものを受けていたと言うから、永代と頻繁に会うようなことは無かったと考えられる(和田芳恵「『蒲団』の芳子」、《婦人朝日》昭和32年12月、など)。 そして 1ヵ月後、広島から美知代が上京する段になって、事件が起こるのだ。つまり、永代と同泊してしまうのである。 旅程は必ずしも明らかでないが、中山三郎の手記によると、以下のようなものだったらしい(中山蕗峰「花袋氏の作『蒲団』に現はれたる事実」、《新声》明治40年10月)。
9月13日付で永代が膳所から出したハガキが残っていて(『書簡集』No.C-6)、ここで 2人が過ごしたことは確実である。が、ハガキの内容は“われも迷ひをときすてゝ一念専念に大菩提の月影仰ぎ候ぞかし。”というような美文で、もし美知代とセックスしながら こんなものを書いたとすればギャグでしか無い。が、不確かな推測はやめて置こう。 そもそも小説「云ひ得ぬ秘密」では 2人は 1泊もしてないことになっているのだが、これは考えにくい。 花袋は同月17日付の書簡で美知代に“貴嬢は十日の夕刻に神戸を立ちしよし、貴嬢の東京着は十四日夜、其間は如何になし給ひしや、”と問いただしている(『書簡集』No.A-27)。 この手紙については私(大西小生)が花袋記念文学館を訪ねて、原文を確認した(十日の“十”の下に消した跡があるのが気にかかるが、ふつうには、こうとしか読めない)。この当時、神戸から新橋までの所要時間は急行で15時間といったところである。 だが、それにしては奇妙なのは花袋が最初 2人を信じていたことで、男と 3泊もしていれば肉体関係が無かったと考えるほうが難しい。 その謎を解くカギは「蒲団」にある。 「蒲団」の四章に、芳子から時雄への手紙が載っているが、それには こうある。
ふつうに考えれば、2人と行動を共にしたのは京都で別れたという中山三郎だろう。この場合、何故、美知代も中山も、そう書かなかったのか、という新たな疑問が生じて来るが、自身の弁明のための小説である「云ひ得ぬ秘密」や美知代の手記では、中山に迷惑を掛けそうな余計な記述は省いたとしても不思議は無い(中山は昭和33年12月没)。 親戚と思われる岡田文子は京都の伏見町に住んでおり、この間、美知代が男達と同泊したかは不明だと言いたいが、これは根拠が薄弱である。 旅行の後半は 2人切りに違いないので、決定的な反証にはならないわけだが、花袋に対し多少の抗弁があったとは考えられる。 だからこそ、花袋は「蒲団」では“遊んだ二日の日数が出発と着京との時日に符合せぬ”(三章)と、日数を減じたのではないか? 美知代自身は「私は「蒲団」のモデルだった」で、
美知代が関係をハッキリ否定したのは、この手記が最初だった。田中純が永代との肉体関係を強調して書いた文章に腹が据えかねて投稿したもので、それ以前に「蒲団」の虚実を追求する岩永胖(ゆたか)教授と接してなければ花袋を批判することも無かったろうし、昭和32年 1月に永代のあとの結婚相手である花田小太郎が死去していたので無ければ、あえて話を蒸し返すこともしなかったろう(花田の死は資料によれば11月だが、墓碑銘によれば 1月)。 ハッキリ否定したのは初めて、と書いたが、比較的初期の手記「『蒲団』、『縁』及び私」(《新潮》大正4年9月1日)においては、こう書いている。
多くの文章において美知代には、セックスを口にするのも汚らわしいと言いそうな口吻が見られる。今日的に見て どうかとは思うが、それが美知代の矜持の有りようなのだ。 女性の側からセックスについて話題にすることのタブーもあると拙著に書いたら、小谷野敦はメールで妙に突っかかって来たが、そういうタブーが無いと考えるほうが強弁だろう。 「私は「蒲団」のモデルだった」のあとに書かれた小説「云ひ得ぬ秘密」でも、後半、「蒲団」を批評した部分で美知代は次のように書く。
ちなみに小説のタイトル「云ひ得ぬ秘密」とは、帰りの急行に乗り込む時、人力車が 1台しか無かったために永代と相乗りしたことを花袋には恥ずかしくて言えなかった、という意味なのだが、「相乗車」が嫌らしいものと見られていたという当時の風俗を知らなければ全く意味が分からない。 小説をそのまま事実と見るわけにもいかないが、その程度のことでも恥ずかしく感じる純情な 2人だったというのは、事実の一端を示しているだろう。 美知代に取材した和田芳恵は「『蒲団』の芳子」で次のように、まとめている。
ふたりは、そのあたりの景勝をさぐりながら、食事をいっしょに食べたり、泊ったりしたため帰京も遅れたのですが、永代と別れることになって美知代が聞くと、同志社の学生とのことでした。ラブではなかったと美知代さんが私に言い、 「もし、ラブの気持が生じたとすれば、それは上京してから、思いをこめた彼氏の手紙が届いてからのことです」と申しました。 〔中略〕 美知代はそれまで生活の苦労をしらなかったから、ただ、苦学生の永代といっしょになろうとしたのですが、これは、花袋が決して永代静雄を認めようとしないことに対しての反感があったわけです。 引用の最後の部分は年譜に当てはめれば明治40年頃の話で、当初は花袋も書簡で永代をそれなりの人物と認めていた。 また少し先走ってしまったが、以上のような話から、私が“経緯を整理してみた限りでは、美知代の弁明には信憑性があると思える。”と書いたことには、それだけの理由があると分かってもらえただろう。 だが、1次資料である書簡に目を通すと、美知代に不利な証拠も色々とあるのである。
おそらく消えた書簡は、これではないか。だが、何故か小林一郎も小谷野敦も、書簡のこの部分を特に取り上げて論じてはいない。 私としては、永代との同棲を決心していた美知代にとって関係を否定しないほうが初志を貫徹しやすかったのではないか、という面を指摘したい。 また、両親は永代との間が潔白だとは最初から信じておらず、花袋に「女学生堕落物語」の切り抜きを送りつけていたくらいだから、美知代自身へも「堕落」したのではないかと始終、責めていたはずだ。 実際、男と旅行するだけでも、世間的には充分、疑われる理由になる。美知代は否定することに疲れ、冤罪事件の被害者のように「堕落」を自白してしまったのではないか? この頃、永代は「神学生問題と岸田美郎」の頁で書いたように、早稲田も辞め、群馬を放浪して、花袋を呆れさせていた。 一方で美知代は逆に、私がそばにいて支えてあげなくてはという気持ちを高ぶらせ、同棲する決意を母に告げることになったのである。 もともと内心では疑念を抱いていた花袋は、すぐに手のひらを返して 2人の不実を信じ、永代を激しく攻撃するようになる。「蒲団」は、その怒りの延長上に書かれたものだ。 1度、こうした関係を認めてしまった美知代が、晩年に至るまでハッキリした抗弁をしなかったのは当然とも言える。 また、どうせそういう関係と思われているのならと、明治41年に再上京した美知代が、すぐに妊娠して永代と出奔してしまうのは無理も無いと思えるのである。 こうした話を私の我田引水と思う人もあろう。そこは読者の判断にゆだねたい。 しかし、花袋が美知代を恋していたと書いているのに、その恋愛感情を疑う説が横行していることを思えば、美知代が実は処女だった、という意見があったって当然だろう。 これを読んで、美知代が嘘をついているとますます確信したという人もいるだろうし、いたっていいとは思うが、何か語るなら、とりあえず美知代の手記と膨大な書簡類くらいは読んで置いて欲しいと思うのだ。 〔2016年 1月 1日〕 参考資料 宮内俊介「〈資料翻刻〉「云ひ得ぬ秘密」」、《田山花袋記念館研究紀要》10号、平成10年 〔→ Home に 戻る〕 〔→ 永代静雄入門/研究余禄 index へ〕 |